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眼下で響く犬たちの吠え声は、今やうねりを伴った一つの音楽であるかのように紅藤の耳には聞こえていた。何も知らぬ人間が飼育している凡犬たちであろうが、上空にただならぬ存在が跋扈している事に気付いたのだろうか。或いはもしかしたら、八頭怪を追い立てる最中に犬の啼き声が聞こえたがために、それに便乗して吠えているだけなのかもしれない。
いずれにしても、だ。八頭怪の封印作戦はここからが大詰めである事には変わりはない。呼び起こした雲に乗って空を飛びつつ、八頭怪たちの向かう先を注意深く吟味する。数ではこちらの方が勝っているが、まだ予断は許されなかった。
今回の戦闘で最も重要な事。それは八頭怪とイルマを――そして可能であれば山鳥女郎と紫苑もだ――封じ込める事に他ならない。
その事に較べれば、八頭怪が集めていた雑兵を蹴散らし、彼が使役する夜鷹やホトトギスの妖怪を撃ち落とす事など、比較的楽で手軽な仕事であるとも言えるだろう。
八頭怪とイルマを封じ込める。そのために行わねばならない事はいくつかあった。
まずもって、八頭怪たちを封印するのは何処でも可能などという訳ではない。屋敷にいる八頭怪を見つけたから、そこで封印を行うなどという手軽な事が出来る程、相手は弱くも無ければ御しやすい相手でもない。だからこそ、灰高や真琴、あるいは緑樹などと言った術に長けた妖怪たちが、封印するに相応しい場所を探し出し、更には前もって準備を行っておかねばならないのだ。
そして封印場所が指定されているという事は、その場所に八頭怪たちを追い立てなければならないという事とも同義であった。あるいは考えようによっては、八頭怪を指定の場所へと追い立てるのは、八頭怪を封じる事そのものよりも難しい事かもしれない。こちらの目論見に気付かれてしまえば、それだけでも終わりなのだから。
もちろん、八頭怪を追い立てやすいように細工は行っている。八頭怪自体の強さや妖術への精通度合いを鑑みれば、小細工に過ぎないかもしれないが。
しかし現状はどうであろうか。気になる要素はあるにはあるが、思っていた以上に上手くいっている。紅藤はそう思っていた。
何しろ八頭怪を根城である屋敷から追い出し、封印予定地へと追い立てている事自体には成功しているのだから。念には念を入れて施した、誘導のための術を見抜かれやしないかとヒヤヒヤしていたのだが、そちらも問題はないようだ。哮天犬に化けたミツコの襲撃がよほど衝撃的だったのか、そこらで吠えたてる犬たちの声に注意を払っているらしい。
自分たちを長らく苦しめていた存在が、単なる犬っころに恐れをなして冷静さを失っている。その事を思うと何とも滑稽で、不思議な話だと思わずにはいられなかった。もちろん、こちらも狼の妖怪や、犬に扮した天狗などはいるにはいるのだけれど。
更に都合のいい事に、逃走する八頭怪の傍らには、山鳥女郎だけではなく紫苑やイルマも追従し始めていた。元々イルマは八頭怪の逃走の際に取り残されてしまっていたし、紫苑に至っては屋敷の外で闘っていた。八頭怪を追い詰めるのに必死になっている自分たちでは、分散したイルマや紫苑をも相手取る事は難しいと思っていたのだ。
しかし途中で紫苑がイルマを連れて風雲に乗り、そうして八頭怪と合流したのだ。
ちなみに紅藤や紫苑が風雲を操って飛んでいるのは、おのれの翼で飛ぶのが苦手だからだ。鳥妖怪は翼を持つために、空を飛ぶのが得意であると思われがちである。しかし雉や山鳥などと言ったキジ科の鳥妖怪は、どうしても飛ぶのが苦手なのだ。従って長距離を飛ぶときは、飛行術や浮遊術を別個に習得し、その術で飛ぶ事も往々にしてあるのだ。
さて、紫苑とイルマが八頭怪の許に合流した訳であるが、その理由はイルマを見れば一目瞭然だった。重傷を負っていたためだ。イルマは首の付け根から黄緑色の粘液を噴出させ、ぐったりとしていた。意識が朦朧としているであろう状態のイルマをどうにか抱え、異父姉たる紫苑は八頭怪の許に戻ったのだ。腐れ外道であると言えども、八頭怪とて力のある存在だ。下手を打てば妖怪仙人に匹敵する力量の持ち主でもある彼ならば、どうにかできるかもしれない。紫苑がそう思っているであろう事は、紅藤も容易に察する事が出来た。
そして実際に、八頭怪はイルマの傷を綺麗に治したのだ。肉を抉り粘液を噴出させていた傷口は逆再生でも起こしたかのように塞がっていき、首許や胸を汚していた粘液も一滴残らず消え失せる始末である。
その様は、一見すると紅藤自身や青松丸の有する再生能力によく似ていた。しかし何かが違う。理屈ではなく本能に根差した部分で、紅藤はそんな風に直感していた。
八頭怪を追いながらもイルマの回復について考えていた紅藤は、ふとある事に気付いた。八頭怪が行ったのは回復術や治癒術ではない。イルマの肉体の時間に干渉し、損傷の無い状態に巻き戻したのではないか、と。
その考えに辿り着いた紅藤は、思わず身体を震わせていた。時間を巻き戻す。この能力を乱発されれば、紅藤たちでも手も足も出ない事は言うまでもない。強大な力を持っていようと、紅藤たちは時間の流れにへばりついて生きているだけに過ぎないのだから。時間を巻き戻せるのであれば、自分や仲間が負った傷を無かったことに出来る。相手の攻撃すら無効化する事さえ可能なのだ。
それだけではない。時間を巻き戻す能力を以てすれば――自分たちが行おうとしている封印術すら意味を成さなくなってしまう。封印術と言っても、発動させるまでの時間の流れがあるし、発動させる前の状態というのももちろん存在する。結界術であっても、時間を巻き戻すなどと言った操作によって無効化される事は、雷園寺家次期当主拉致事件の折に明らかになったではないか。
――本当に、これで大丈夫なのだろうか
今更ながら疑念めいた考えが脳裏に浮かび、紅藤の心の中を覆い始める。灰高のお兄様と真琴お姉様は、八頭怪を封じるべきだと提案し、私たちはそのために動いている。だけど時間を自在に操れる八頭怪が相手ならば、そもそも封印など不可能なのではないか? 封印術を行えるのは一度きりだ。相手がその事を知らないからこそ成立する事柄なのだから。時間を操る術にどれだけ制限があるのかは解らない。しかし時間の巻き戻しで封印術式を駄目にされたら、自分たちにはもはや手立てはない。
いやそもそも、八頭怪はどれだけ時間を操る能力を使えるのだろうか? もしかしたら、いかな八頭怪と言えども無制限に使える訳ではないのかもしれない。そうでなければ、わざわざ派手に逃げ出す事もないだろう。そもそも首を落とされた段階で、首を落とされる前の状態に巻き戻る事だって出来たはずだ。
疑念と、それを打ち消そうとする楽観的な考えとが、紅藤の脳裏に交互に浮かぶ。八頭怪を追跡しつつ思案に耽っていた丁度その時、自身に呼びかける声が投げかけられた。声の主は峰白と萩尾丸だ。雉鶏精一派であり、紅藤にとっては馴染み深い者たちだった。
「今更になって、ああだこうだと悩んでいるの? 駄目よ紅藤。迷っては駄目なの」
「峰白様の仰る通りですよ、紅藤様。もし何かお考えがあれば、私めに何なりと申し付けてください」
「そうよ、そうよね……」
峰白も萩尾丸も、特に具体的な事を口にした訳ではない。だがそれでも、紅藤は勇気づけられたような気がした。迷ったり、悩んだりしているのが自分一人だけだと思い込んでいたような気がしたのだ。
そうしているうちに、一行は街を離れ、山奥へと向かっていた。灰高たちが指定した封印場所まであと数百メートルと言った塩梅である。そこでは灰高の遣いたる鴉や真琴の眷属たち、そしてウミワタリが控えているのだ。
「よっしゃあっ! 山奥だしヒト払いも済んでるみたいだから、ここなら存分に大暴れ出来るなぁ」
高らかに言い放ったのは第八幹部の三國である。もちろん彼も変化を解き、灰褐色の毛並みに覆われた、巨大なイタチの姿となっていた。毛皮が逆立ち青白い稲妻が彼の全身を取り巻いたかと思うと、次の瞬間には勢いよく放電していた。八頭怪たちに向けて放たれた雷撃である。その威力は雪羽のそれとは比べ物にはならない。
「……?」
ところが、その雷撃は八頭怪たちに牙を剥く事は無かった。雷撃を回避したとか、攻撃が逸れてしまったとか、そう言う意味ではない。雷撃自体が、八頭怪に触れる手前で消失したのだ。あるいはもしかしたら、消失したように見えて攻撃する前の段階に巻き戻っただけなのかもしれない。
「はは、ははははっ」
不格好に地面に着地した八頭怪が笑う。一つではなく八つの首が順繰りに笑い声をあげるので、その声は奇妙な輪唱となっていた。
「攻撃したければ攻撃すると良いよ。だけど今のボクは時間を巻き戻す能力を使っているからね。それがどういう意味か考えてごらん」
何だと。自ら手の内を明らかにした八頭怪の言葉に、三國が驚きの声を上げている。紅藤は驚いた表情を作らずに、ただただ彼の足許に視線を向けていた。八頭怪が踏みしめている地面の、その近辺にある枯草が青草に戻ったり、繁り始めた雑草が縮んでいくのを彼女は見ていた。
「まぁ、中にはボクの能力に気付いているやつもいるみたいだけど、ね」
それは自分の事を口にしているのだろう。紅藤は静かにそう思っていた。