側近たる山鳥女郎が捕えられた。その事実を突きつけてみたものの、八頭怪は特段動揺する素振りは見せなかった。それどころか、不気味さを滲ませる笑みをこちらに見せるだけである。
しかもただ不気味なだけではない。余裕綽々である事が見え隠れするような笑みだった。
「碧松姫ちゃんも情けないなぁ。雉仙女とかって言うけれど、所詮は仙術を少しかじっただけの雑魚妖怪でしょ? そんな雑魚風情に、栄えある山鳥妖怪たるキミが敗けてしまうなんてね」
「ざ、雑魚と言っても……」
山鳥女郎はいきり立ち、声を上げはした。しかし途中で言葉を詰まらせ、そのまま黙り込んでしまう。縛妖索が山鳥女郎の身体を締め上げ、喰い込まんとしているのが紅藤には見えた。それでも食い込む程度で済んだのは、山鳥女郎の保有する妖力の多さゆえの事であろう。邪悪な考えに染まっていようとも、彼女は生半可な妖怪ではないのだ。
いずれにせよ、八頭怪と山鳥女郎の関係性がよく解るやり取りでもあった。側近という事になっている山鳥女郎であるが、所詮は利用価値の有無のみで繋がっているだけなのだ、と。
さて八頭怪はというと、山鳥女郎に存分に憎まれ口を叩くと、そのまま八つの首を思い思いの方向に伸ばし、その上で笑っていた。
「それにしても、そこのメンドリを捕まえたからって、まさか勝負がついた何ておめでたい事を思っているんじゃあないよね? 良いかい畜生共。真に勝負がついたと言えるのは、頭の首を討ち取っただけなんだよ!」
次の瞬間、八頭怪の一首が素早く動いた。獲物を突き殺すアオサギのごとき動きで、だ。標的は雉鶏精一派の頭目たる胡琉安だった。
紅藤は叫びそうになった。自分と胡琉安までの距離は五、六メートルほど。しかも自分が離れれば、山鳥女郎とその子供らが何をしでかすかは解らない。その遠さが絶望的だった。
肉が裂け、骨が軋み砕ける音が周囲に鳴り響いた。
そして一拍遅れてから――黒い羽毛と赤くねばつく鮮血が飛び散った。
「ぐがっ、ううっ……」
「な、何……」
八頭怪の顎が捕えたのは胡琉安の首では無かった。件の一首がドヤ顔で咥えていたのは、鴉天狗たる灰高の、大きく広げた右翼だったのだ。
胡琉安が八頭怪の一首に狙われたその刹那、灰高がその間に割って入り、身代わりになって捕えられた。目の前の光景を眺めながら、紅藤はそのように解釈した。決定的瞬間を視認できなかったので、今起きている状況から察するほかなかったのである。
「ああクソッ。忌々しい胡喜媚の息子たる胡琉安を狙ったはずなのに、捕まったのはゴマ塩頭の鴉じゃあないか。だけど――」
灰高の翼を捉えた八頭怪の一首、その嘴の先が歪むのを、紅藤は見た。実際に歪んでいる訳ではない。彼が時間操作を行う事により、歪んでいるように見えるだけなのだ。
ともあれ灰高は時間操作を受けてしまっている。数秒と待たぬうちに受精卵に戻ってしまうか、急速に老いて塵と化すであろう。
灰高はしかし、不敵な笑みを八頭怪に見せると、即座に身を翻した。次の瞬間には、灰高はとうに八頭怪の顎から逃れていたのだ。
一体灰高は、どのようにして八頭怪から逃れたのか。紅藤は灰高に視線を向け、彼の様子をしげしげと観察した。
よろけつつ不格好に着地する灰高の姿を見ているうちに、何が起きたのかを紅藤は悟った。
灰高は何と、八頭怪に捕らえられた翼を
確かに灰高は、時間操作術から逃れはした。しかしそれは、灰高が全くの無傷だった事と同義ではない。何しろ翼を両断するという荒業によって脱したのだ。今も出血が止まらないらしく、断ち切られた翼の付け根からは、ゆっくりと血が流れていた。灰高の妖力を以てしても、翼の再生どころか傷を完全にふさぐ事は難しかったのだろう。
「肉を切らせて骨を断つ、ってやつかしらね?」
「むしろ生命あっての物種という事でしょう」
いつも冷静な言動を行う峰白ですら、驚きと当惑の入り混じった表情で灰高を見つめていた。そんな視線を受ける灰高は、何処か勝ち誇った、余裕綽々の笑みを浮かべているのだが。
「それはそうと八頭怪殿。もはやあなたも時間操作術は使えないんじゃあないですか。ふふふ、時間操作術を使えば我々を仕留められると思っていたようですが……それが仇になりましたね」
表情だけではなく、その言動にも灰高は余裕たっぷりな気配を滲ませていた。それもまた、灰高なりの口撃である事は紅藤も察していた。灰高に限らず、鴉天狗や大天狗の類は、この手の煽り文句などが得意なのだ。
八頭怪もまた、ニヤニヤ笑いを浮かべている。しかしそれは怒りを押し殺した笑みである事は明らかだった。現に相手は八つの首を動かし、それぞれ攻撃の間合いを図っているようだった。のみならず、実際に相対する緑樹や萩尾丸の側近などを捉えんと嘴を打ち鳴らしてもいる。
「ははっ、ははははっ。本当に傑作だねぇ! 確かに時間操作術は使える所まで使い切ってしまったよ。だけどね、そんな術に頼らずとも、キミたちを仕留める事なんて訳ないん、――」
禍々しさと陽気さを織り交ぜた八頭怪の言葉が、途中で打ち切られた。
八頭怪は、何かを警戒するように身をすくませたのだ。それだけではない。イルマが怯えたように周囲を見渡し始め、山鳥女郎や紫苑も警戒した表情を見せている。
気付けば、自分たちの周囲から青白い煙が立ち込めていた。それは木の葉の先端や枝の先、あるいは八頭怪の嘴の先などから放たれていたのだ。
その煙は瞬く間に凝集し、犬に似た何かへと変貌した。毛並みは青みがかったライトグレーや濃灰色であり、粘液を滴らせる口吻からは触手めいた長い舌がだらりと垂れている。無論、普通の犬では無かった。
鋭角ヨリ出ヅル者だ。紅藤が気付いた時には、青白い犬めいた怪物たちは、八頭怪に向かっていた。
「くそっ。今度は鋭角のイヌ共まで出しゃばって来たんだね!」
八頭怪はもはや、余裕綽々と言った態度を見せる余裕を失っていた。
今まで交戦していた雉鶏精一派の面々など一顧だにせず、ともかく襲い掛かってきた異形の猟犬たちを相手取る事に専念したらしい。
紅藤だけではなく、他の幹部たちも、鋭角ヨリ出ヅル者の顕現に驚き、どうすべきかと考えあぐねているようだ。無理からぬ話だ。鋭角ヨリ出ヅル者たちは、古より道ヲ開ケル者と烈しく対立しているという。その事を考えれば、道ヲ開ケル者の遣いだと僭称する八頭怪を彼らが襲うのも、ごく自然な事であろう。雉鶏精一派から考えれば、敵の敵と言った所であろう。
しかしながら、鋭角ヨリ出ヅル者に対しては「敵の敵は味方」という言葉は当てはまらない。暗黒神話に詳しい書物によると、鋭角ヨリ出ヅル者は角度の世界の住民であり、道ヲ開ケル者が支配する曲面の世界そのものを烈しく憎んでいるという。そして、紅藤たちが暮らすのは曲面の世界である。
更に言えば、鋭角ヨリ出ヅル者も、道ヲ開ケル者やその手先と闘ってばかりでもない。むしろ普通に暮らす曲面の世界の住民を、要は普通の人間や妖怪などを襲って喰い殺す事が多いという。その理由は彼らにしか解らないが、いずれにせよ貪婪で常に飢えている事には変わりはない。
そう言った事から、鋭角ヨリ出ヅル者の八頭怪への襲撃を、紅藤たちは素直に喜べなかったのだ。確かに彼らは八頭怪を襲い、斃してくれるかもしれない。しかしそれと共に、自分たちへ牙を剥く恐れもあるのだ、と。
その危険性は、他の幹部たちも気付いているのだろう。一旦戦闘を止め、鋭角ヨリ出ヅル者を刺激しないように距離を取っていた。見れば灰高がよたよたと周囲を巡回し、雉鶏精一派の面々に何事か伝えているようだった。相変わらず右翼の付け根からは血が滴っている。あれだけ血が流れているのだから、動けば動くほど衰弱するのではないか。そもそも彼の妖力を以てすれば、もう傷をふさいでいてもおかしくは無かろうか。そんな考えが脳内を駆け巡り、紅藤は思わず前のめりになっていた。
「だ、大丈夫ですよ、お師匠様」
紅藤の左翼の付け根、人形態で言えば肩に相当する部分に、滑らかでひんやりとした手指が添えられる。部下であるサカイスミコだった。変化を解いている獣妖怪たちとは異なり、彼女はほぼほぼ人形態である。その顔は獣の様相を示し、ローブの裾からは幾つもの触手や獣の脚が見え隠れしていたが、まぁ誤差の範囲内だろう。
「お師匠様っ。ティンダロスの猟犬たちは……鋭角ヨリ出ヅル者たちは、じ、実はわたしが呼びかけて、それで八頭怪を、こ、攻撃してもらっているんです。だから……だから彼らは、わたしたちを攻撃する事はありません」
「何ですって!」
「そんな、あんたみたいな小娘が、鋭角ヨリ出ヅル者を手懐けてけしかけるなんて……」
「ですが碧松姫様ぁ。この女からもあの恐ろしい犬っころと同じ匂いがしますよぅ」
鋭角ヨリ出ヅル者は、他ならぬ自分が呼び寄せ、八頭怪を攻撃するように依頼した。サカイさんの発言に、紅藤は驚いて眉を吊り上げた。のみならず、山鳥女郎やイルマまでが驚きの声を上げている。
そう言えば、灰高はサカイスミコの事を鋭角ヨリ出ヅル者の眷属であると、いつだったか言っていたではないか。唐突に紅藤はその事を思い出し、それならば彼らを使役できるのも無理からぬ事であろうと納得し始めていた。