源吾郎が再び研究センターに出社したのは、四月三日の事であった。
その前日は月曜日だったのだが、源吾郎は末の兄と共に日がな一日のんびりと過ごしていた。丸一日眠っていたために、身体のコンディションは戻っていた。しかし起きていても頭がぼんやりと重たく、何か事を起こす気力が奮い立たなかったのだ。
そんな訳で、昨日は最低限の事しか行わず、ぼんやりと怠惰に過ごしていた。それを咎める者は誰もいなかった。平日の月曜日であるものの、振替休日が適用されていたからだ。そして兄の庄三郎はというと、のんべんだらりと過ごす源吾郎を静かに見守っているだけだった。
元より末の兄は源吾郎の事を勤勉な若者だと思っている節がある。だからこの度は存分にダラダラ過ごせばいいと、庄三郎は無邪気に言ったのだ。
何となれば、火曜日も休めば良いではないかとさえ、庄三郎は言い出した始末である。
「火曜日は出勤日だよ。流石にそこまで休むほどには、俺もたるんではいないよ」
「まあしかし、土曜日は君も色々と大活躍したんだろう? 母さんからも結構心配していたし、あんまり無理をしないでくれよ」
無理なんてしてないさ。源吾郎の物言いは、多少蓮っ葉な物になってしまった。それでも庄三郎は、生意気だなどと言うことは無く、ただただ微笑んでいるだけだった。長兄の宗一郎ならば、ここで確実に小言が入るな。そんな事を思いつつ、源吾郎は全く別の事を口にしていた。
「……もう連絡は入れておいたんだけどさ、週末には実家に寄るよ。一応、無事だった事とかは報告したいからね」
週末は実家に戻る。源吾郎のこの言葉に、庄三郎の表情が一変する。穏やかに微笑んでいた彼の顔に、一瞬とはいえ驚きの色が滲んだのだ。若気の至りと言えども、源吾郎は野望の為に親族たちと距離を置いていた。末の兄は勿論、源吾郎のそんな心情はよく知っていたためだ。
だがすぐに、庄三郎は先程までの穏やかな笑みを源吾郎に見せた。
「そっか。それは朗報だね。母さんも父さんも、宗一郎兄さんも喜ぶよ。源吾郎の事を何かと心配しているからさ」
「そうだよな」
源吾郎は素直に、しおらしく頷くだけだった。普段の彼であれば、気恥ずかしさもあって先の言葉を突っぱねるであろう。しかしやはり、先日の闘いの余韻が、源吾郎の中で尾を引いているらしかったのだ。
結局のところ、庄三郎は火曜日の朝に源吾郎の家から出発した。交通費や諸々の雑費として源吾郎は一万円を渡した。庄三郎はこのお金を受け取りはしたが、タクシーを呼ぶという源吾郎の申し出は断ったのだった。
※
朝十時。源吾郎は他の研究センターの面々と共に雉鶏精一派本部の大広間にいた。言うまでもなく、全体朝礼に参加するためである。
会社組織にとって、四月に行われる全体朝礼が特別な意味を持つ事は多い。日本では四月から新年度になるからだ。場合によっては、入社式や新入社員の紹介を兼ねている場合もあるだろう。
但し、今この広間に漂う独特の空気は、新年度だからなどではない。
何せ今日は、八頭怪との全面戦争後に初めて行う全体朝礼なのだ。勝ち戦だった事には変わりはないが、普段と異なる空気であったとしても、何らおかしなことは無い。ましてや、今回の全面戦争では、少ないとはいえ雉鶏精一派サイドでも犠牲者は出てしまったのだから。
「皆様、おはようございます」
そうこうしているうちに、頭目たる胡琉安が壇上に姿を現した。その佇まいには組織の長としての威厳を漂わせてはいた。しかし、物憂げな雰囲気は隠しきれるものではなく、その表情や仕草から見え隠れしている。
何より、身にまとったスーツはワイシャツ以外はネクタイまで黒で統一されており、喪服をどことなく連想させたのだ。
そのように思えば、喪服めいた装いの者は胡琉安だけではなかった。彼のように黒づくめの衣裳に身を包む者も見受けられたのだ。何となれば、萩尾丸や青松丸も、喪服めいた黒づくめの姿だったのだから。
一方で、黒づくめの衣裳とは対照的に、白づくめの衣裳で臨む者もチラホラと見受けられ、源吾郎はそれに一瞬面食らった。ビジネスシーンでのドレスコードとは異なっているし、喪服めいた黒づくめの衣裳とも異なるように思えたからだ。
しかし源吾郎が面食らったのも一瞬だけだった。昔は、それこそ戦前などは喪服と言えば白装束だったという事を、源吾郎はちらと思い出したためである。
源吾郎自身は平成生まれの現代っ子であり、もちろん戦前の暮らしなどを実体験として知っている訳ではない。しかし昔の風習や伝承についての知識を多少は具えていた。幼少のみぎりより妖怪として生きる事を目標としていたがゆえに、その事に役立ちそうな事を知識として蓄えていたためである。
全体朝礼自体は、十五分足らずで終了した。まず胡琉安が挨拶と配下への労いの言葉を述べ、それから幹部たちによる業務関連の報告という流れである。
八頭怪の勢力に打ち勝ったので情勢は一段落したが、だからと言って油断は禁物である事。今週末に海沿いのホテルにて、勝利祝いの祝賀会を行う事。業務連絡はおよそこの二点に集約されていた。
源吾郎は当初、彼なりに緊張感を保ちつつ全体朝礼に参加してはいた。しかし話を一通り聞いているうちに、不思議な心境に陥っていたのだ。
それはもしかすると、八頭怪討伐後も警戒を怠らないようにという注意喚起と、勝利祝いの祝賀会という相反する事柄が、同じ全体朝礼で語られたからなのかもしれない。勝って兜の緒を締めよ、と言った直後に勝利祝いのアナウンスがあった事が矛盾しているのではないか。ありていに言えば、源吾郎はそう思ってしまったのだ。
とはいえ、そうした思いも源吾郎の胸の中に秘めておくだけに留めておいた。源吾郎もかれこれ就職して丸一年が経つ。空気を読む事、疑問に思った事を無神経に口にしない事などは、流石に彼も学習していたのだ。
さて朝礼が終わって解散という事になったのだが、源吾郎は雪羽たちと共に紅藤に付き従う事になった。朝礼後、紅藤は本社敷地内にある霊廟に参拝するとの事なので、部下である源吾郎たちもそれに倣う事となったのだ。
余談であるが、雉鶏精一派の敷地内に霊廟があるのは、やはり大陸系列の組織だからであろう。通常、日本の会社では屋上に稲荷神社がある事がままあるらしいが、そこはまぁ文化の違いというものであろう。もっとも、雉鶏精一派の本部の敷地には、簡素ながらも稲荷神社もあるらしいが。
霊廟に祀られた胡喜媚に一応挨拶をすると宣言していた紅藤であるが、彼女は結局広間から出る事は無かった。広間の片隅に出来ている妖だかりを目ざとく見つけ、臆せずそこへと向かって行ったためだ。もちろん、付き従っていた源吾郎たちも、紅藤を追従する形となった。
妖だかりの中央にいる妖怪の姿を見た源吾郎は、驚いて目を丸くした。
そこにいたのは第三幹部の緑樹と、第四幹部の灰高だったのだ。厳密に言えば、緑樹にも灰高にもそれぞれ付き添いや側近と思しき妖怪が傍に控えていたのだが。
ともあれ源吾郎の視線は、灰高に吸い寄せられていた。彼の出で立ちや佇まいは、否が応でも目立つものだった。スーツではなく黒い着流しをやや雑に着込んでいて、しかも着物の右袖は頼りなく揺れていた。
源吾郎はここで、八頭怪との全面戦争にて、灰高が右腕を喪った話を思い出した。誰から聞かされた話であったかは、もう覚えてはいないけれど。
「灰高のお兄様に緑樹さん。妖が集まっているけれど、一体どうされたんですか」
隻腕となった灰高に源吾郎が驚いている間に、紅藤が進み出て問いかけていた。源吾郎とは異なり、彼女の態度や声には驚きの色は薄い。それよりももっと物憂げで、灰高の身を案じるような雰囲気の方が濃かった。
問われた灰高は、片頬に笑みを浮かべながら口を開く。ご丁寧に、腕の通っていない右袖を揺らしながら。
「おやおや、誰かと思えば雉仙女殿ではありませんか。あなたの事だから早々にご子息や胡喜媚様へご挨拶をなさっているかと思ったのですが」
このような状況下でも、灰高の長広舌は健在だった。その事に呆れつつも、源吾郎は何故か安堵していた。
「緑樹君か彼の抱えている配下に、私の義翼と義手を作っていただこうと思いまして、その依頼を彼に行っていたのです。さほど難しい話ではないのですが、緑樹君は中々頷いてくれなくて、それで難儀していたのですよ」
源吾郎は、それとなく緑樹や灰高の傍にいる女天狗の表情を窺った。笑顔である灰高とは対照的に、緑樹や女天狗の表情は硬く、当惑や怒りを押し殺しているように見えた。