にこやかに状況を説明してくれた灰高を前に、源吾郎は隣にいる雪羽とそっと目配せをした。
実を言えば、難しい話ではないという灰高の主張を、源吾郎ははなから疑ってかかっていた。どれだけ好意的に考えたとしても、難しい話ではないと灰高が思い込んでいるだけで、実質としては無理難題なのではないかと考えていたほどである。
そんな風に斜に構えた考えになってしまうのは、やはり灰高が老獪で油断ならぬ鴉天狗である事が大きかった。そう言う意味でも、日頃の行いというのは非常に大きなものなのだと、源吾郎は呑気に思い始めてもいた。
もちろん、闘いの場で翼を喪った事は気の毒な事だとは思っているが。いけ好かない相手と言えども、いい気味だなどと言う気持ちが浮かんだりなどはしなかった。
「灰高のお兄様。お兄様が緑樹さんにお伝えしたのは、難しくない話、という事なのですね」
思案に暮れる源吾郎の傍らで、紅藤が問いかける。普段以上にゆったりとした物言いであるが、それは一言一句確かめるように発言しているからだった。
そうした物言いになったのは、緑樹や灰高の隣にいる女天狗を一通り眺めてから口を開いたためでもあった。
紅藤の問いかけにも臆せずに、灰高は余裕たっぷりに頷いた。
「ええ。緑樹君には
ともあれ、医療方面のエキスパートであれば、老鳥の喪った翼に添える
「ええ……」
「…………」
源吾郎の隣に控えていた雪羽の唇から、呆れのこもったため息が漏れ出ていた。萩尾丸あたりから叱責が飛んでこないか、源吾郎は気が気ではなかった。実際には、萩尾丸も何とも言えない表情で灰高を見つめていただけなのだが。
いずれにせよ、灰高の申し出に
「灰高様。そんな事をおっしゃられても困ります」
案の定というべきか、緑樹が困惑顔のまま声を上げた。酒呑童子の孫であり、白猿を父に持つという緑樹は、厳つい体躯と強面の持ち主である。しかしその心根は穏和そのものであり、今浮かべている困惑の顔にも、そうした彼の本性がありありと浮かんでいた。
「私どもの力と技術を以てすれば、本物と同じと言わずとも、喪った翼とほぼ変わらぬ義翼と義手をご用意できますのに」
そうよ。灰高の隣に付き従っていた女天狗がここで声を上げた。やけに甲高いその声は、鴉の啼き声そのものだった。
「あなた。緑樹さんだってそう仰ってくださっているんですから、素直に緑樹さんの申し出を受け入れれば良いじゃないですか。胡琉安様の生命を、身体を張って救った事を誇りに思っているのなら、そうしたって罰は当たらないはずよ」
女天狗の話している内容を聞いているうちに、源吾郎は彼女が灰高の妻である事を悟った。寄り添っていると言っても過言ではない距離感や、灰高に対する歯に衣着せぬ物言い。これらは愛妻でなければ有り得ざる言動であった。
そして灰高の妻の主張もまた、道理の通った物であると源吾郎は思っていた。もちろん愛する夫が粗雑な義手を着けて生活するという事が我慢ならないという、感情的な思いに支配されているだけなのかもしれない。しかしそれこそが、妻の夫への愛情なのだろう。愛とは本能であり、小難しく賢しい理性を凌駕する。半世紀も生きていない源吾郎であるが、それ位の事は知っていた。
「美鶴さん。私は胡琉安様を救った事を忘れぬように、敢えて粗末な義翼と義手を所望しているのですよ」
妻に話しかける灰高の顔は優しく穏和で、その言葉にはいくばくかの寂寥感が伴っていた。もしかすると、妻の様子を窺っているのかもしれなかった。
あの灰高でも奥さんには頭が上がらないのか。痛快さと共に妙な感慨にふけっていた源吾郎だったが、次の瞬間には、灰高は気安い笑みをその面に浮かべていた。
「それに美鶴さん。長年連れ添ったあなたならご存じでしょうが、私ももう老いました。孫たちや曽孫たちも立派に育っている事ですし、翼を喪ってまで出しゃばる事も無いでしょう」
「何を言うんですか。あなたはまだ千年も生きてないんですから、老けるにはまだ早いですよ。九百年生きたあなたが老いただなんて言うのなら、四千年以上生きていた八頭怪はとっくに耄碌していてもおかしくないでしょう?」
生後千年未満であるらしい鴉天狗の夫妻は、ここで黙って睨み合う形となった。しかし美鶴と呼ばれた女天狗は何を思ったか、紅藤の方に視線を向けたのだ。
「雉仙女様。あなたも主人を説得していただけませんか。私の言葉を聞かなかったとしても、雉仙女様や雉天狗様のお言葉であれば、主人も納得するかもしれませんので」
美鶴の懇願は心からのものだった。元より灰高と紅藤の関係は良好とは言い難い。同じ組織に属しつつも、敵対関係にあると言っても良いほどだった。そんな相手に愛する夫の説得を懇願するというのは、やはり言葉に出来ぬ思いがあるものだろう。
紅藤は緩やかに頷くと、躊躇わずに口を開いた。その面には笑みが浮かんでいる。それも含みや悪意のない、無邪気な笑みだった。
「灰高のお兄様。義手や義翼がお気に召さないのであれば、どうぞ私に頼ってくださいませ。お兄様の細胞組織と妖力から右翼を培養いたしますので。そうすれば、義翼を用意しなくても済みますわ」
屈託のない様子で放たれた紅藤の言葉に、源吾郎は絶句してしまった。これは他の妖怪たちも同じ事であろう。
何せちゃんとした義手を作るという申し出を飲ませるための説得のはずが、バイオテクノロジーで喪った腕を再生させるという新たな案が飛び出したのだ。予想の斜め上を行く回答とはこの事であろう。
さて灰高はというと、紅藤を見やって鼻を鳴らした。思わず笑いかけてしまったのを、懸命に堪えていると言った風情である。
「私の組織から喪った翼を再生させる、ですか。ドクターたるあなたらしいご意見ですね」
「私の妖術と、研究センターの設備を以てすれば可能な事ですわ」
灰高の軽口に対し、紅藤は即座に反応する。しかし今は無邪気な笑みはなりを潜め、真剣な表情を浮かべていた。
「……但し、灰高のお兄様から細胞組織と妖力を一部提供していただければなりませんし、再生した翼をお身体に取り付ける際に、外科的な手術を行う必要がございます。その際はお兄様の身体にメスを入れる事になりますが、その事をどうかご了承いただきたく思っているのです」
そこまで言うと、紅藤は上目遣い気味に灰高を見やっていた。彼女なりに灰高の身を案じている事は明らかだった。
そう言う意味では、美鶴が紅藤に説得を依頼したのも理にかなった話ともいえる。紅藤は情に篤い妖怪なのだ。源吾郎たちがその恩恵を受け、時に萩尾丸が頭を抱えるほどに。
「雉仙女殿。別に私は、外科手術やメスを入れる事などに今更怖気付きなどはしませんよ。とはいえ、組織培養に関しては少し懸念はありますが」
懸念とは何でしょうか。半ば食い気味に問いかける紅藤に対し、灰高は笑みを深める。
「組織培養で勢い余って、右翼ではなくて私の複製たる鴉天狗がまるまる一羽出来てしまうのではないか。
灰高は何気ない体を装って発言してはいた。しかしその言葉を聞いた妖怪たち、紅藤や萩尾丸たちの表情がにわかに強張った。源吾郎もまた、頬を引きつらせて灰高を見据えていた。
組織培養で新たな妖怪を作り出す。これは大妖怪の妖力や科学技術を以ても理論上はほぼ不可能な禁術である。そして紅藤は――かつて二度この術に成功してしまっているのだ。
紅藤は焦りの表情を見せつつ、口早に言葉を紡ぎ出した。
「いえ、いえ。灰高のお兄様。そちらも心配ありませんわ。翼や脚と言った組織ならばいざ知らず、五体と自我を具えた完全な存在を培養によって作り出す事は、いかな私でもこんな――」
「ご安心ください灰高様。我らが研究センター長の紅藤様であっても、組織培養から独立した妖怪を生み出す事は
紅藤が言い切る前に割り込んできたのは萩尾丸だった。引きつった表情を笑みで押し隠しながら、彼は言葉を続ける。
「ですので灰高様。私どもの組織培養術にて新たな妖怪が誕生してしまうのではないかという懸念は、それこそ杞憂というものです。なのでご安心くださいませ。
もちろん――義翼や義手を初めからご用意なさるのであれば、先程の心配事は全く不要なものになるのですが」
「ええ、ええ。萩尾丸君の言う通りでもありますね」
灰高は納得した様子で頷いていた。結局のところ、義翼および義手を作ってもらうという事で話は落ち着きそうだった。