気が付けば、紅藤は身を乗り出して峰白に掴みかからんとしていた。峰白の口にした真意を聞き出さなくてはならない。その思いが、紅藤の身体を突き動かしたのだ。
「落ち着きなさい、紅藤」
掴みかかられた峰白は、紅藤の方を振り向かずにそう言うだけだった。一拍ほど遅れて、峰白とは逆方向から声がした。萩尾丸の声だった。
「お気持ちは解ります。ですが、そう焦らないで下さいませ。急に動くと、紅茶が零れてしまいますよ」
妖の気持ちというのは実に不思議な物である。萩尾丸は紅茶が零れる事を引き合いに出してたしなめたのだが、聞いているうちに紅藤の心は落ち着きを取り戻してしまったのだ。
「いやはや、大丈夫だよ萩尾丸さん。紅茶のカップやテーブルの方には、私の方であらかじめ魔術をかけているからね。余程の事が無い限り、汚れたり割れたりする事は無いさ」
やはり魔女だけあって、その辺りの魔術も抜かりなくやっているのだ。紅藤は素直に感心していたが、萩尾丸は何か言いたげな表情を浮かべている。しかしそれでも彼なりに納得したのだろう。実際に何かを言い出す事は無かった。
「それで峰白さん。さっきの話だけど、どうしてそう思ったのか聞かせてくれるかな? 君の事だ、何も根拠がないのにそんな事を言い出したりしないだろうからさ」
セシルは今再び峰白に問う。戸惑いの念を感じつつ、紅藤は峰白の横顔を眺めた。
「そうね。端的に言えば、八頭怪はあんなにあっさりと殺られるようなタマじゃあない――私はそう思うの」
これは一般論なんて御大層な物ではないわ。ご丁寧に峰白は言い添えて薄く笑った。
「あくまでも、私が個妖的にそう思っただけに過ぎない話よ。だけど考えてみたら、私たちが急ごしらえで練り上げたような作戦ごときで討ち取られる程、八頭怪も落ちぶれていないと思うのよ」
「お姉様!」
「峰白様、それは一体どういう事ですか――?」
「峰白殿の言う事は信じがたいけれど、しかし考えてみれば――」
自分たちの策略ごときで、八頭怪を打ち負かす事など初めから無理だったのかもしれない。峰白の言葉に、紅藤はまたしても声を上げた。しかも今回は紅藤だけではない。双睛鳥や胡琉安もまた、驚きの声を上げていたのだ。
「お三方。驚くのは山々だと思います。ですがここはひとまず落ち着きましょう。峰白様が全て話を終えるまで待ちましょう」
そう言って紅藤たちをなだめたのは萩尾丸である。先程の峰白の発言で、彼だけが驚くそぶりを見せなかった。
峰白は萩尾丸に短く礼を述べ、言葉を続ける。
「皆も知っているとは思うけれど、八頭怪は途方もない妖力と多彩な妖術の持ち主なのよ。しかもそうした術を利用し、私たちや敵を陥れて破滅させる邪悪な知性をも具えているの。まぁその……アレでも胡喜媚様の実弟である事を思えば、ごく自然な事かもしれないわ。そうでなくとも、軽く四千年以上生きているから、ね」
八頭怪は胡喜媚の実弟。その事を告げる時に、峰白の顔が歪んだのを紅藤は見逃さなかった。今もなお敬愛する胡喜媚と八頭怪が実の姉弟である。胡喜媚への未だ変わらぬ狂信と、八頭怪への烈しい憎悪。しかし二人が子弟である事を思い、懊悩しているのだろうなと紅藤は思っていた。
そのように紅藤が冷静に分析できるのは、峰白と異なり胡喜媚の事を盲目的に崇拝していないからだ。むしろ未だに憎んですらいるほどだ。
「もちろん、私たちが弱っちい雑魚妖怪の集まりだなんて言わないわ。頭目の胡琉安様は才覚のあるお方だし、八頭衆だって同じよ。特に莫大な妖力を持つ紅藤や、酒呑童子の孫、それに鴉天狗の大将だって揃っているんですから。
それでも――上には上がいるという事には変わりないわ。というよりも、そもそも八頭怪が私たちと互角かそれ以下だったら、何百年も前に私たちがあいつを誅殺している筈よ。さもなくば、他の妖怪の怒りを買って殺されているでしょうね」
「言われてみれば、お姉様の言う通りですね」
気付けば紅藤は、頷いて峰白の言葉に同意を示していた。彼女の言葉も一理あると思ったためだ。
八頭怪の事は、紅藤もよく知っていた。実際に襲撃される事は殆ど無かったし、直接的な全面戦争とて今回が最初で最後であろう。それでも、八頭怪が雉鶏精一派をつけ狙う危険な組織として、警戒してきた事には変わりはない。何より玉藻御前のかつての夫であり、妖怪仙人だったはずの万年狐王さえ謀殺したほどの輩なのだ。
その事を思えば、生後千年未満の妖怪たちが寄り集まった所で、八頭怪などには到底かなわないだろう。
「しかし峰白様」
双睛鳥が低い声で峰白に呼びかける。苛立ちと憤慨を飲み込んだような、それでいて様子を窺うような気配を漂わせながら、彼は眼鏡の位置を調整していた。
「八頭怪が僕たちの策略程度でどうにもならないというのなら、先日の闘いは一体何になるんでしょうか。まさか、全ては無駄な事だった、何て言いだすんじゃあないでしょうね」
双睛鳥の物言いは飄々としていたが、目つきと雰囲気は剣呑な物が見え隠れしていた。流石に先程の護符の事もあってか、今回は毒気を出してはいなかったが。
「もちろん、全部が無駄だったわけではないわ」
峰白は平然とした様子で問いに応じる。こちらは取り繕っている訳ではなく、本当に平然としているだけだった。凡百の妖怪ならば震え上がり昏倒する事すらあるコカトリスも、峰白や紅藤にしてみれば血の気の多いオンドリとほとんど変わらないのだ。
「現に八頭怪はこことは違う場所に封じ込められたでしょう。ウミワタリが喰い殺されたのは確かに手痛いけれど、さりとてあの八頭鰥夫も、こちらに舞い戻って来るには歳月を要するでしょう」
だけど――峰白はここで言葉を切り、三度ほどたっぷりと深呼吸をした。
その様子を、紅藤たちはただ無言で見守るだけだった。彼女に問いかける時間はあったというのに。
「封じられる事自体も、八頭鰥夫の想定通りだったのかもしれないわ。いえ違う。今回封印される事そのものが、八頭鰥夫の思惑だったとしたら……」
峰白は珍しく言葉尻を濁していた。引き続き何かを言うかもしれないと紅藤は思ったが、彼女の口から漏れるのは、ただただ嘆息だけだった。
そんな中で口を開いたのは、ドラゴンのセシルだった。
「つまるところ、八頭怪が今後君たち雉鶏精一派の前に再び姿を現すのか、それを私に見て欲しいって事だね?」
そう語るセシルの眼差しは、呑気な茶飲み友達ではなく、商売人のそれに変貌していた。宝石の瞳で千里眼を行使するから、相応の報酬を支払いたまえ。言外に彼女がそう言っているのだと、紅藤は解釈した。
※
結局のところ、峰白たちはセシルの千里眼を依頼する事にした。報酬は峰白の産む無精卵や紅藤たちの持つ魔道具等々である。それらの話を行っている時には、もはやビジネスの商談のような気配が漂っていた。もっとも、呑気なお茶会だと思っていたのは、紅藤だけだったのかもしれない。
とはいえ商談めいた雰囲気になっても、セシルの許で給仕していたワイバーンや吸血鬼の青年は、タイミングを見計らってちょっとした世間話をしてくれた。その中では、この近所に暮らす食屍鬼の一族が、雉鶏精一派に接触したいという話もあったのだ。
食屍鬼と言えば八頭怪の側に従った者たちの中に一人だけいたような気がしたが、その事と何か関係でもあるのだろうか。少し疑問に思った紅藤ではあったが、別段食屍鬼の件については、深く考えることは無かった。