昼食の後は、リビングにて源吾郎と母の三花が差向う形で座る事となった。
父は「夕方になったら原稿も片付くし、父さんと話そうな」と言って書斎に引き戻った。長兄の宗一郎は、宣言通りさっさと出かける準備を整え、そのまま買い物に出向いたのだ。
――母と二人きりで話すお膳立てを、父も兄も行ってくれたのだ。
口には出さずとも、源吾郎はそんな風に思った。半妖、それも玉藻御前の孫娘が母なのだから、源吾郎も他の兄姉らも等しく半妖ではある。しかし、他の兄姉たちは妖力を増やす事を放棄して――あるいは初めから妖力に恵まれなかったために――人間として生きている。
生まれた時から妖怪に近く、能力のみならず自我まで妖怪と化した源吾郎と、兄姉たちは本質的に異なる存在なのだ。
だからこそ、父も兄姉らも、源吾郎が母と妖怪絡みの話をする際は、敢えて離籍する事がままあるのだ。そうしておいて、同じく妖怪の自我を持つ母と、遠慮なく話し合える機会を設けてくれるのだ。
ごくまれに、オカルトライターの長姉が同席する事もあるが、姉は姉で胆が据わっているから、妖怪方面の話になっても動じる事は皆無である。
「もう先々週になるかしら? 雉鶏精一派と八頭怪との全面戦争があったのは」
「うん。まぁ、そうなるかな」
二人きりという事もあり、母の三花は臆せず全面戦争の事を口にした。元より母も戦力としてあの戦争に駆り出されていたのだ。だから母も源吾郎と同じく当事者でもある。
「知り合いの妖狐たちから聞いたわよ。源吾郎。あなたも八頭怪に従っていた兵を捕えるのに、相当頑張ったそうね」
「食屍鬼《グール》の、亜孤姫の事だよね」
八頭怪に従っていた兵。そう言われて思い浮かんだのは、亜孤姫と名乗る食屍鬼の女性の事だった。他にも深海ヨリ来ル者や山羊めいたやつだとか蛇人間だとか、闘って戦闘不能にしたり取り押さえたりした敵はいるというのに。
しかし今思い出しても、亜孤姫の存在は、源吾郎の心と記憶に強烈な印象をもたらしていた。
「亜孤姫と言えば、けったいな出自のお姫様らしいわね。もちろん今回の戦闘で投獄されたけれど、今でも名門の出だとか何とかって主張していて、看守や他の囚人たちの中にも、難儀している手合いがいるんですって」
そう語る母の顔には、何故か楽しそうな表情が浮かんでいた。もしかしたら、井戸端会議や醜聞を楽しむような感覚で、母も話しているだけなのかもしれない。言うて母も井戸端会議などを嗜むお年頃であるわけだし。
「まぁ名前からして姫ってついているもんなぁ。それにしても、扱いに悩むくらいなら、いっそぶち殺しておいたら良いんじゃないかって思うよ。ぶち殺しても問題ないような悪党なんだからさ、あいつは」
「……噂によると、そう簡単に彼女は処刑できないらしいのよ」
母はそこまで言うと、これ見よがしにため息をついた。口調自体も先程より落ち着いている。というよりも、亜孤姫への憎悪を思い出し、いきり立つ源吾郎のそれとは大違いですらあった。
「亜孤姫は色々と魔道具の類を保持していて、それらが彼女の身を護っているそうよ。しかも都合の悪い事に、看守程度ではその魔道具を、彼女から没収する事が出来ないそうなの」
魔道具。母のその言葉に、源吾郎は首を捻った。彼女と対峙し交戦したあの時、自分は先祖の加護が宿った宝玉を持っていると言っていたではないか。しかし考えてみれば、魔力が宿った宝玉も、魔道具と言いならわす事があるにはある。
自己完結的に納得していると、母は更に言葉を続ける。
「もっと言えば、看守とか牢獄の職員に袖の下を渡して、それでもって良い待遇を強要させているらしいわよ」
「ああ全く、ド厚かましいメス犬じゃあないか! 悪徳は栄えずと世間で言うにしても、そこまでして生き延びようとするなんて、浅ましいにも程があるよ」
落ち着きなさい、源吾郎。またしてもいきり立つ源吾郎に対し、母が呼びかける。その口調は静かな物だったが、その声は冷え切っていた。源吾郎はびくっと身を震わせ、それからおずおずと母の顔に視線を向ける。
「亜孤姫のやってる事に納得がいかないのは、少なくとも源吾郎がそう思っているのはお母さんにも解るわ。だけどそれを、源吾郎が、というよりも私たちが糾弾するのはお門違いになるわ。亜孤姫を罰する役目を担っている訳ではないし、そもそも私たちは、大悪狐・玉藻御前の血を受け継いでいるんですから」
玉藻御前の名を出した時、母の表情が陰ったのを源吾郎は見逃さなかった。
実のところ、母が玉藻御前の血を受け継いでいる事を良く思っていない事は知っていた。人間の男と結婚し、子供らを人間として育て上げた事こそがその証左である。もし母が玉藻御前の血筋を最大限に利用しようとしているならば、そもそも源吾郎は無邪気に野望を抱き、自由奔放に生きてなどいない。それこそ、一族を反映させるための手駒として、母や兄姉らに利用されていただろう。
それにしても。物憂げな表情を留めたまま、母は言葉を続ける。
「源吾郎。腹が立つのは解るけれど、それでもぶち殺すとか、そんな物騒な事を言うのはやめなさい、ね。お父さんもお母さんも、そんな風に育てた覚えはないわ」
育てた覚えがなくとも、それこそ大悪狐の血がそうさせているんじゃあないか。源吾郎の中に反駁の言葉がくっきりと浮かび上がる。
「と言っても、幸四郎さんや宗一郎がさっきの言葉を聞いていなかったのがまだ幸いだわ。相手が罪を犯した悪人とはいえ、ぶち殺すなんて言ったと知れば、二人ともショックを受けてしまうから」
父親はさておき、宗一郎の場合、ショックを受けるだけでは済まないだろうな。口には出さなかったが、源吾郎はそう思っていた。宗一郎が先の言葉を聞けば、ショックで昏倒しかねない。冗談抜きでそう思っていたのだ。
謹厳実直で清廉さを好み、暴力や争いごと、その他もろもろの世の醜悪を憎む。それが宗一郎の気質だった。実の兄ながらも、悪逆と破滅を好んだという玉藻御前の血を本当に受け継いだのかと言いたくなるような男なのだ。
もっとも、源吾郎を含め、他の兄姉や親族らが、玉藻御前の血筋に相応しい悪逆さや淫蕩さを具えているかと言えば、これはまた別問題ではあるのだが。
「……うん。まぁ、父さんや宗一郎兄様の前ではそんな事は言わないよ。父さんも兄上たちも、俺の事は可愛くて無害な仔狐だって思いたがってるって事くらい、解ってるからさ。
いや、宗一郎兄様は違うかな。兄上は、俺が人間として育つ事を望んでいたんだっけ。そんな事を望んでも、どうにもならないというのに」
そう言った源吾郎の顔には、知らず知らずのうちに昏い笑みが広がっていた。長兄の宗一郎は、源吾郎に対して父親以上に父親らしく振舞っていた。だがその真意が何であったのか、源吾郎は既に知っている。末弟の裡に宿る妖狐の血を恐れ、真人間になるよう教育する。臆病で利己的な考えこそが、宗一郎が保護者らしく振舞う最大の理由だったのだ。
そして源吾郎はそれを知った上で――妖怪化した。兄の事を利己的だと糾弾するつもりはない。自分だって長兄と同じくらい利己的なのだから。それに源吾郎は首尾よく妖怪として生きる道を選んだのだから、兄との
「源吾郎。あなたを人間として育てたかったのは、何も宗一郎だけじゃあないわ。私だって、お母さんだって、出来ればあなたには人間として育ってほしかったの」
仄暗い愉悦に浸る源吾郎の耳に、母の言葉が入り込む。表情もさることながら、その声は陰鬱さを多分に孕んでいた。あるいは、二度と得られない未来を諦めきれないがゆえの思いであろうか。
人間として育ってほしかった。母が常々そう思っているであろう事は源吾郎も解っていた。しかし、その思いを言葉としてぶつけられたのは、今回が初めてだった。無論源吾郎は驚いた。だがすぐに、その驚きの念は、憤りに変化した。
亜孤姫といういけ好かない食屍鬼の女の事を思い出したからなのか、源吾郎はイライラしていたのだ。
「人間として育ってほしかっただって。うん、まぁ、母上がそう思っていたであろう事くらい、俺だって昔っから解ってたよ。俺だけじゃあなくて、兄上たちも姉上も、みーんな人間として育てちまったんだから、さ」
俺には解るんだぞ。言いながらも、源吾郎は母が何か言い出すだろうかと心の片隅で思っていた。母はしかし、押し黙ったまま源吾郎を見つめるだけだ。話したい事があるのならば全て吐き出すと良い。そう言っているかのように。
「まぁ母上自体は、ご先祖様の血筋を最大限に活用する事に興味が無いようだけどね。何せお祖母様の後をついで、一族の頭になっているにも拘らず、人間社会で暮らす事に心を砕いているんだから。しかも玉藻御前の末裔を名乗る不届き者たちがのさばるのをほったらかしにしているんだし」
「そう言う源吾郎だって、玉藻御前の末裔を名乗る女狐と懇意にしているんじゃあなかったかしら?」
母の言葉は短く簡潔な物だった。しかしその言葉は、源吾郎の心のど真ん中をぶち抜くには十分すぎる威力を具えていた。
祝賀会での米田さんの姿を思い浮かべつつも、源吾郎は母を睨み返す。春の終わりだというのに、周囲の空気が熱っぽく感じられて仕方がない。
米田さんは関係ないだろ! その言葉が腹の底からせり上がってきて、口からとめどなく溢れそうになる。吐き気に似た奔流を感じつつも、源吾郎はその言葉を飲み込んだ。こんな状況で恋人の事を母に打ち明けるような事はしたくなかった。それに何より、先程自分が口にした事と話が矛盾してしまう。
そんな源吾郎の葛藤に気付いたのかどうかは解らない。だが母の表情が変わった。狡猾で他者を玩弄するかのような魔性めいた雰囲気が薄れ、物悲しさと憐みの混じった表情が浮かんできたのだ。
「源吾郎の話を聞いていて、お母さんもよく解ったわ。源吾郎、あんたは
可哀想だって。この俺が……? 問い返す事も出来ずに、源吾郎はただただ母の顔を見つめ返すのがやっとだった。