無言のままに、源吾郎は母の顔をじっと見つめていた。母もまた真っすぐ源吾郎を見つめている。物悲しそうな眼差しで。
「私には……お父さんとお母さんには解るのよ。その野望に取り憑かれていなければ、源吾郎は
「俺の幸せは、人間としての暮らしでは見いだせなかっただけの話さ。俺の野望は、俺が俺らしく生きていくには、人間社会は窮屈過ぎたんだ。ただそれだけの事だよ」
しばし茫洋としていた源吾郎であったが、母におのれの意見を述べる元気さを取り戻していた。それは皮肉な事に、母の発言によるものだった。源吾郎が人間として生きていれば。起こり得ない事を未練がましく語った事が、源吾郎の心を刺激したのだ。
「それなら源吾郎。あなたはこの間の全面戦争が、
「そ、そんな訳無いだろ!」
母の問いかけに、源吾郎は戸惑いながらも返答した。
八頭怪との全面戦争が楽しいだと。母は何故そんな事を訊いてきたのだろうか。あんな戦争が、生々しい殺し合いが楽しいと思えるなんて絶対に有り得ない。
確かに雉鶏精一派サイドは勝ち戦となった。当初の計画通り――峰白など一部の妖怪は疑念を抱いてはいたが――八頭怪たちを別次元の場所に封じ込める事にも成功し、彼に付き従っていた雑兵たちも蹴散らした。ついでに言えば雉鶏精一派サイドの犠牲も少ない物であるから、全面戦争としては上首尾になる、らしい。
だがそうした事実を以てしても、源吾郎は全面戦争に対して良い印象を抱いてすらいなかった。闘わなければならなかったと、解っていたとしてもだ。
それはもしかしたら、職場の雰囲気という物も大きく影響しているのかもしれない。紅藤と青松丸は落ち込んでいるようであるし、萩尾丸ですらその言動に焦りと苛立ちが滲む事すらあるのだ。もちろん上司たちは大人の妖怪だから、無闇に感情を露わにすることは無い。それでも、物憂げな雰囲気は焦り混じりの苛立ちなどを抱いている事を、源吾郎や雪羽は感じ取ってしまっていた。
「せ、戦争なんて糞喰らえだよ。そりゃあもちろん、八頭怪をどうにかしなければ、俺たちの方が酷い目に遭うって事は解ってたよ。だけど、だけどそれでも……」
言いながら、源吾郎の身体はわなわなと震えていた。あんな戦争なんて真っ平ごめんだと声高に言いたかった。しかしそれを表立って母の前で口にするのは何とも気恥ずかしかった。相反する烈しい感情が駆け巡り、それが身体の震えとなって表出していたのだ。
「そうよね。源吾郎がそう思うのも何一つおかしな事じゃあないわ。むしろ当然の事なのよ」
ところが幸いな事に、震えを抑え込んでなお話す必要はなかった。それどころか、母は源吾郎の意見を肯定してくれたのだ。
「私だって、出来れば闘いや血腥い争いが無い日常に身を置きたいって強く思っているの。若い頃に、それこそあなたぐらいの歳の頃に、闘いや殺し合いが目の当たりだった事を経験していても、ね。いいえ、経験しているからこそ、平和の大切さが解ると言った方が正しいわね」
殺し合いという単語がさらりと紛れ込んでいたが、源吾郎はもはやそれに動じる事は無かった。末の叔父や叔母ですら、便利屋での業務内容によっては殺しが絡む事があるという。
ましてや母は、邪悪な術者だった曾祖父や大伯父たちと祖父母の抗争を目の当たりにしているのだ。父と出会うまでに殺し合いを経験したり、殺しに手を染めたりした事だって何度もあるはずだ。
かつて源吾郎は、紅藤から一族の過去について聞かされていた。それ故に、殺し合いという言葉を母から聞いても落ち着いていられたのだ。
「弟たちや妹の時は……源吾郎の叔父さんたちやいちか叔母さんについては仕方が無かったわ。私たちは、源吾郎たちよりも妖狐の血が濃いの。それに先祖が玉藻御前だから、どうしても妖怪化してしまうしね」
だけど。一旦言葉を切ってから、母は息と共に言葉を吐き出した。
「お父さんと……幸四郎さんと結婚した時に、私は誓ったの。幸四郎さんも、幸四郎さんとの間に出来る子供たちは、せめて血腥い争いから遠い所で過ごせるようにするとね。幸四郎さんは、私たちの世界を知っていても、私たちと渡り合えるような力はないもの。その事は、源吾郎もちゃんと知ってるでしょ?」
母の問いに、源吾郎は黙って頷いただけだった。
「だからこそ、源吾郎も含めて子供たちは、人間として育てたのよ。妖怪としては不完全で弱くても、人間の中ではそれでも優秀な存在として能力を発揮できるからね。いえ、優秀だと思われなくても、人間社会に溶け込んで問題なく暮らす事は出来るのだから」
「……半妖の気質については、俺も方々から聞いているから知っているよ」
ここにきて、源吾郎は沈黙を破った。母の一連の話には一理あると思ってはいる。それでも一つだけ、どうしても尋ねたい事があった。
「母上が、俺たちや父さんの事をさ、何かと心配してくれているのはよく解るよ。だけど母上。母上は、俺が産まれた時に必ず妖怪化するって解っていたんだろう。しかもそれだけじゃあなくて、一族の中に野望を持つ者が必ず出てくるって話だって――」
「それとこれとは話が別なのよ、源吾郎」
源吾郎の言葉を遮って、母はそう言った。短く簡潔な一言であったが、有無を言わさぬ圧が滲んでいた。もっと言えば、怒りの念すら込められていた。
「今はあなたも仔狐だから解らないだろうけれど、いずれ解るようになるわ。私がどんな気持ちで源吾郎と向き合っているか、ね」
似たようなやり取りを、何処かで行ったような気がする。物思いに耽る源吾郎を見やりながら、母はその面に笑みを浮かべた。その笑みは、玉藻御前の孫娘らしい、毒気を孕んだ笑みであった。
「よく考えてごらんなさい。もしも源吾郎に子供がいて、その子が野望の為だと言って、明らかに危険な出来事に飛び込もうとしたら源吾郎はどうするの? いいえ……子供でピンとこないのなら、これならどうかしら。源吾郎が大切に思っている、心の底から愛している存在が、嬉々として危険な事に首を突っ込んでいると知ったら、源吾郎は黙って見ていられるのかしら?」
「わかったよ……解ったから、さ」
項垂れ、絞り出すように源吾郎は解ったと繰り返した。なぶるような母の言葉を聞いているのは辛かったし、何より母が言わんとしている事を、源吾郎はとうとう理解する事が出来たのだ。
源吾郎が母の言葉を理解できたのには、大切な存在と言われて米田さんを思い浮かべてしまった事もまた、大きな要因とも言えた。米田さんは傭兵として生計を立てており、しかも源吾郎よりも遥かに多くの経験を積んでいる。しかしだからと言って、彼女が危険な目に遭う事は看過できなかったのだ。