「何というかさ、やっと普段通りの日常が戻って来たって感じがするぜ」
「あはははは。島崎先輩ってば大げさっすね」
午前中の中休み。研究センター内の休憩スペースにて、源吾郎はリンゴジュースを片手に呟いた。普段の彼ならば、午前中からジュースを購入するという事は滅多に行わない。しかし今日ばかりは、朝から糖分を摂取したい気分だった。
そして隣には、さも当然のように雪羽がいる。源吾郎の呟きが聞こえていたからこそ、彼は声を上げて笑ったのだ。
「でもさ先輩。わざわざそんな事を口にするって言うのは、本心では色々と悩んでいるって事の裏返しでもあるんじゃあないっすか?」
そこまで言うと、雪羽は手にしていた瓦せんべいを一口齧り、もごもごと咀嚼し始めた。白鷺城の焼き印が施されたそれは、源吾郎が土産の品に配った物だった。早速ああして食べているという事は、今回のお土産も雪羽の口に合ったのだろう。もっとも、彼は菓子の類に関しては、それほど好き嫌いは無いのだが。
「ま、まぁそうなるんかな。言うて悩むって言うほど深刻な事じゃあないけれど」
だけどな。悩むほどじゃあないと言いつつも、源吾郎は息を吐いて言葉を続けた。
「でも夕方から出張に付いて行かないといけないって言われたのには、正直面食らっちゃったよ。夕方って言うのも、先方の都合なんだけどさ。先方は食屍鬼《グール》たちで、夜行性って事だからさ」
「ああ、食屍鬼《グール》ねぇ……」
夕方から夜にかけての出張。それこそが、源吾郎が今この段階から懸念している事柄だった。厳密に言えば日帰りであるし、そもそも源吾郎は職場で寝泊まりしているような存在でもある。だから出張自体は遅掛けであっても大した事ではない。
問題は、その出張にて食屍鬼どもと面談をせねばならないという事だった。
調べてみれば、連中は屍肉だけではなく、腐肉や生ゴミの類、果ては排泄物をも好んで口にするという。そのような不潔な食性であるから、当然彼らの衛生観念は絶望的な物であろう。実際問題、その肌は奇怪なカビに覆われ、悪臭が漂ってすらいるのだという。
どちらかと言えば綺麗好きな源吾郎にしてみれば、食屍鬼に会わねばならないという事自体が苦行以外の何物でも無かった。しかも平社員である彼には、この面談を蹴るという選択肢すらないのだから。
さて雪羽はというと、思案顔で首をかしげていたのだが、何かを思い出したと言わんばかりの様子で口を開いた。
「そう言えば食屍鬼も、今回の全面戦争に八頭怪の手先として参加していたやつがいたって話だよな。深海ヨリ来ル者とか山羊野郎とかよりは少ないけれど」
「少ないって言うか、食屍鬼で参加していたのは一人だけらしいぜ」
「へえ。そのたった一人とやらを、島崎先輩は覚えているんだ。すげえな」
全面戦争に参加した唯一の食屍鬼の事を覚えている。その事に対し、雪羽は無邪気に感心しているようだった。源吾郎はここで、呆れの念が込み上がりため息をついた。亜孤姫の事については、考えれば考えるほど、呆れと憤りの念が浮かんでしまうのだ。
「俺が亜孤姫の事を覚えているのは、あの女と直接やり合ったからだよ。それにいけ好かないやつだって言うのも大きいかな」
「……先輩がいけ好かないやつだって言うなんて、その亜孤姫とやらも大概っすね」
言葉だけではなくて、表情にも険が出てしまったのだろうか。雪羽の表情を確認しながら、源吾郎は少しだけ反省した。まじまじとこちらを見つめる雪羽の瞳には、若干の怯えの色が見え隠れしていたのだ。
自分は無闇に他者を忌み嫌う性質ではない。就職するまで、源吾郎は無邪気に自分の事をそう思っていた。しかし、一線を超えるような悪行を行ってはばからぬ輩は別だ。そうした連中の事は嫌悪するし、嫌悪を通り越して軽蔑の念すら浮かぶ事もある。
そうした源吾郎の冷ややかな怒りや軽蔑を、雪羽は感じ取って恐れをなすのだ。あるいは他の妖怪などからは、傲慢な考えだと指摘される事も度々あった。
その後の食屍鬼との面談についての話は、それ以上特に踏み込むことは無かった。研究センターの中で出張に関与するのは、萩尾丸と源吾郎だけだったためだ。雪羽も源吾郎と同じく若き幹部候補生であるが、食屍鬼と面談するこの度の出張には声が掛からなかったらしい。
獣でありながら神性を具える雷獣は、不潔で不浄な食屍鬼とは相性が悪い。当局でそのような判断がなされたのだろう。源吾郎はそんな風に考えていた。
※
「おや島崎君。ガチガチに緊張しているみたいだけど、まぁリラックスしたまえよ。私はこんななりではあるけれど、車の運転とて妖《ひと》並みに出来るからね」
夕方。社用車の助手席に腰を下ろした源吾郎を見やりながら、夢魔のアルテミシアは鷹揚な笑みを見せていた。
食屍鬼たちとの面談。そのための出張を行うメンバーは四名だった。面談に行くのだと言い出したのは、第五幹部・真琴の息子だというネズミ妖怪の桶彦である。その彼に第六幹部の萩尾丸と側近のアルテミシア、そして源吾郎がくっ付いていく形と相成ったのだ。
なお、源吾郎が助手席に座る事となったのは、萩尾丸が桶彦の隣に座したからに他ならない。
と、アルテミシアはハンドルを握ったまま、横目でいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ああもしかして、夢魔たる私が運転席にいるから、男としてどぎまぎしているのかね? いやはや、別にそう言うのは遠慮しなくても構わないんだぞ?」
「な、な、何を仰っているんですか!」
アルテミシアのからかうような言葉に、源吾郎は言葉を詰まらせながらも反駁した。夢魔である彼女に籠絡されそうだとか、そんな事を思った訳ではもちろんない。というよりも、彼女だってその事は解っているはずだ。解った上でそんな事を問うたのだから、一層からかわれたという重いが募った。
「別にそう言う事ではないんです。ただ、食屍鬼の一族と面談しなければならない事とか、その面談に萩尾丸先輩だけではなくてアルテミシアさんも同行なさる事とかに驚いて、それであれこれ考えていただけなんですよ」
「何だ。その事で君は物思いに耽っていたんだね。中々真面目で勤勉な狐じゃあないか」
先程のからかうような物言いからは一転し、アルテミシアは落ち着いた口調でそう言った。真面目な話に戻ったのだと気付き、源吾郎は安堵した。お調子者でありながら、不用意にからかわれる事はどうも苦手なのだ。
「島崎君。何故君が食屍鬼たちと面談しなければならないのか。その問いに対する答えは至極簡単な物さ。先方から、要は食屍鬼たちの方から君と話がしたいって指名があったからに他ならないよ。もちろん、彼らは雉鶏精一派とも接触を図りたがっていたそうなんだけれど――」
それって。アルテミシアはまだ喋っている最中であったが、源吾郎は彼女の言葉を遮り、前かがみになった。そんな源吾郎の振る舞いを、アルテミシアは不躾だなどとは言わなかった。それどころか、言葉を打ち切ったのだ。源吾郎に言いたい事を話しても構わないと言わんばかりに、だ。
「アルテミシアさん。それってやっぱり、俺が亜孤姫とかいう食屍鬼の女と闘った事と、関係が、ある、んです、よね……?」
言いながら、源吾郎は心臓の鼓動が速まるのを感じていた。もしかしたら、今回面談を望んでいるのは亜孤姫の身内ではないか。殺していないとはいえ闘った源吾郎の事を恨んでいるのではないか。そんな考えが、源吾郎の胸の中で膨らみ続けていたのだ。
そんな心中に気付いているのかいないのか、アルテミシアは静かに頷く。
「もちろんだとも。何せ今回面談を希望した食屍鬼たちのコミュニティに、亜孤姫とやらは所属していたらしいから、ね。大いに関係はあるだろうね」
「そうですか……やっぱりそうですよね……」
言い終えると、源吾郎は長く深いため息を吐き出した。そのまま魂まで抜けていくのではないかと思ったり期待したりしたが、もちろんそんな事は起きなかった。