怯える源吾郎とは裏腹に、食屍鬼たちは襲い掛かってくる気配はなかった。彼らは相変わらず怯えた様子で、互いに何か言葉を交わし合っている。族長ですら、桶彦や萩尾丸たちから背を向け、仲間の食屍鬼の言葉に耳を傾ける始末だった。
「……して、見返りとは如何なるものでしょうか」
通訳が口にしたのはただその一言だけだった。数分も続いた長い喧騒とは裏腹に、しごくあっさりとした言葉である。もっとも、あっさりしているのは上辺だけで、その一言にこそ多くの思惑が凝縮されているようにも思えたのだが。
「見返りなんて難しいものではないさ。我々雉鶏精一派は、あなた方を力づくで支配下に入れる事も考えていないし、奴隷にするつもりもないよ。とはいえ――もしあなた方が放逐した一族の者の振る舞いに思う所があるのならば、我々に力添えをするのが筋だと思って頂いても、罰は当たらないと思うんだけどねぇ」
「要するに、隣の化けネズミが言いたいのは、あなた方と我々とで、協力関係を結びたいという事でございます」
ニタニタと、湿っぽい笑みを浮かべる桶彦に次いで、萩尾丸が言葉を続ける。彼の笑みは、桶彦よりも陰湿な物では無かった。とはいえ、まるっきり爽やかな笑みとも言い難いのだが。
「ご安心くださいませ。私どもは他の組織の方たちと交渉し、ウィンウィンの関係を構築するノウハウは豊富に持ち合わせております。吸収・合併のような大掛かりな物でなくとも、あなた方のニーズと条件を尊重し、無理のない形で契約を結びたく思っているのです。
そして、私どもと友好的な関係を構築した場合は、私どもはあなた方の味方になるのですよ。すなわち、あなた方に危機が迫ってきた時、私どもはあなた方を護り抜くという事でございます」
「しかしそうなると、あなた方に危機が迫った場合もまた、我らが力添えしなければならないという事ではないか!」
萩尾丸の言葉を受けて、族長が通訳を介して叫んだ。通訳の食屍鬼はあからさまに怯えていたが、族長はその怯えを隠し、どうにか威厳を保とうとしているようだった。
「ええ、その通りですよ。そうでなければウィンウィンの関係にはなりませんからね。もちろん、その要求が呑めないのであれば、拒否しても構わないのですよ」
言いながら、萩尾丸は食屍鬼たちに営業スマイルを見せている。
一連のやり取りを見聞きしているうちに、源吾郎は不思議な気分になっていた。何というか、食屍鬼たちが段々と気の毒に思えてきたのだ。それはもしかしたら、彼らが桶彦や萩尾丸に怯え切っている事と、萩尾丸たちが彼らを上回る図々しさと悪辣さでもって会話を進めているからなのかもしれない。
「拒否するという選択肢は、元より我らには与えられていないのだろう?」
族長が力なく声を上げ、それを通訳が人語として口に出す。それから族長は、鉤爪の生えた手指で源吾郎を指し示した。
「ただでさえ、我々は他のモノたちと較べて無力な存在なのだよ。だからこそ、何者にも属せず侵さず争わず、穏やかに静かに暮らしたいと望んでいるのだ。そうでなくとも……そこにいるキツネの若者は、夢見の才をも持ち合わせているではないか。彼はあの忌まわしき亜孤姫と闘ったという話でもあるし、ただ単に夢見の才を持ち合わせているだけではないと思うのだよ」
夢見の才を持ち合わせている。そしてただ、夢見の才を持ち合わせているだけに留まらないだろう。食屍鬼の言葉に、源吾郎は思わず尻尾の毛を逆立てた。
確かに、アルテミシアからは食屍鬼たちの中にも夢見の才を具える者がおり、ドリームランドにその意識を潜らせる者がいるという話は今しがた聞いたばかりだ。とはいえそれでも、面と向かってその事を指摘されると、やはり驚きの念が沸き上がってしまうものだ。
源吾郎が驚いて何も言えないでいる間に、今度はアルテミシアが口を開いた。彼女の口から紡がれているのは日本語でも希臘語でもない。何と食屍鬼たちが操っていたであろう言葉を、彼女は放っていたのだ。人に近い姿に擬態していても、彼女は夢魔であり、獣妖怪などとは大いに異なる存在なのだと、源吾郎は思い知らされた。そう思ってみていると、暗がりに出来た彼女の影は、直立する山羊にコウモリの翼を付け足したような、実に奇怪な姿ではないか。
その影を魅入られたように眺めていると、ふっと右肩を何者かに叩かれた。萩尾丸かアルテミシアだろうかと思って顔を上げると、そこにいたのは何と桶彦だったのだ。彼はニヤニヤ笑いを浮かべながら口を開いた。
「何故島崎君がドリームランドに行き来できるのを知っているのか。アルテミシアさんは、食屍鬼たちにその事を問いただしているんだよ」
食屍鬼の通訳が口を開いたのは、桶彦が源吾郎に耳打ちし終えたまさにその時だった。曰く食屍鬼たちの中にも夢見の才を持つ巫女のような存在がおり、彼女が源吾郎の姿を目撃したとの事だった。
さて桶彦はというと、源吾郎からするりと離れると、今一度食屍鬼の族長と通訳とを正面から見据えた。
「成程。あなた方もそこの仔狐がドリームランドに入り込んでいた事、彼の権能が夢見の才だけではない事を感じ取っていらっしゃったんですね。ええ、ええ。あなた方の賢さは僕にもよく解りますよ。何せ僕もネズミ妖怪で、どちらかと言えば弱い存在になりますからね。強い者にすり寄られ、取引を迫られる恐怖は、僕にもよーく解ります」
だからこそ、あなた方の組織が雉鶏精一派に与さないであろう事も解っていた。桶彦は笑顔を崩さぬままにそう言ったのだ。食屍鬼たちはその言葉に一瞬戸惑いを見せ、それから安堵していたようだった。源吾郎は戸惑ったままだったが。
空気が緩んできたところで、桶彦は間髪入れずに話を続けた。
「あなた方が僕たちと提携を組むのが恐ろしいというのならば、僕たちも無理強いは致しません。その代わりに、一つお願い事を聞いていただいてもよろしいでしょうか?」
「……喜んで、と言いたい所ではあるが、内容にもよるな」
用心深い調子で応じる族長に対し、桶彦は笑みを深めて言った。
「亜孤姫の身柄を、僕に引き渡していただきたいのです」
「な、何だと……!」
驚きを隠しきれない族長と他の食屍鬼たちに対し、桶彦は言葉を続ける。
「ふふふ。別に僕個人としては、亜孤姫とやらが僕たちに牙を剥いた事について、それほど怒りや怨みの念は抱いていないのです。それよりも僕は、彼女の持つ宝玉たちに興味があるのです」
亜孤姫が宝玉を持っているという事は、源吾郎ももちろん知っている。あの全面戦争の折に、彼女は宝玉を用いて、妖術による攻撃から身を護っていたではないか。そして投獄された現在も、宝玉の呪いとやらをちらつかせ、自分が処刑されないようにしているという噂もあるくらいなのだ。
「確か亜孤姫殿は、生粋の食屍鬼ではなく深海ヨリ来ル者の血も受け継いでいるんですよね。彼女の身を護っていたという宝玉は、きっと深海ヨリ来ル者たちが作り出し、一族に密かに伝えていった物だと踏んでいるのです。もしかしたら、あなた方食屍鬼たちのお宝も含まれているかもしれませんがね……
いずれにせよ、僕は亜孤姫そのものよりも、亜孤姫の持つ宝玉に興味があるのです。しかし彼女の宝玉には不思議な力が宿っていて、殺して奪えば略奪者は呪われてしまうというではありませんか。恐るべき呪いを被らずに宝玉をモノにするには、持ち主たる亜孤姫を、
亜孤姫と宝玉の関連性、そして亜孤姫の身柄を引き取る正当性について、桶彦は熱心に食屍鬼たちに説いていた。興奮のあまり両の瞳はギラギラと輝き、腰からにょろりと伸びた尻尾は、鞭のようにしなって不潔な床に何度も打ち付けられていた。
化けネズミが宝玉に拘泥するのは、やはり彼らが財宝の神・クベーラや多聞天を信仰する者が多いからなのかもしれない。源吾郎は桶彦の熱弁を見聞きしながら、そんな事を思っていた。大陸では多聞天こと毘沙門天の眷属が、ネズミである事を源吾郎は知っていたのだ。
「良かろう。そこまで亜孤姫に拘泥するのならばくれてやる。元より一族から追放した身だ。煮るなり焼くなり好きにして構わんよ」
桶彦の主張を聞いた食屍鬼の族長は、とうとうそう言って頷いたのだった。桶彦は今にもガッツポーズを取りかねないほどに、喜びを露わにしていた。一方の萩尾丸は、側近のアルテミシアと共に、醒めたような眼差しで桶彦と食屍鬼たちを眺めている。
そのような奇妙な状況下で、食屍鬼たちとの面談は幕を下ろしたのだった。
後になって萩尾丸に知らされた事なのだが、桶彦は初めから、亜孤姫と彼女の持つ宝玉を手中に収められればそれで良いと思っていたらしい。族長や通訳を筆頭とした食屍鬼たちの群れが雉鶏精一派に与するかどうかは、特にどうでも良かったのだという。というよりも、彼らが頷かないであろう事も想定済みだったそうだ。
それでも、さも本命のように食屍鬼たちの群れに与してもらう事を条件として付きつけたのは、要はドア・イン・ザ・フェイスの手法を使っただけに過ぎないのだという。
もっとも、萩尾丸は食屍鬼たちが与するのもやぶさかではないと思っていたらしいのだが、ともあれそのような思惑と心理テクニックでもって、食屍鬼たちを心理的に誘導した末の交渉なのだという。
それが大人のやり取りという物なのかもしれない。そう思いつつも、源吾郎も気が付けば、醒めたような表情をその面に浮かべてしまったのだった。