昼食後は、雪羽と共に事務所での内勤、要は書類の整理・試験で用いる試薬の調整や補充などの細々とした業務である。もちろん、それらを監督するのは青松丸でありサカイ先輩だった。紅藤はセンター長なのだが、彼女は彼女で源吾郎たちとは別に抱える業務があるのだ。
それにしても、内勤と言うか事務所内での雑務は久しぶりだな。青松丸の監督下で薬品を計量しながら、源吾郎は静かに思った。今日は戦闘訓練の予定もない。と言うよりも、ここ一週間ほどは戦闘訓練も無かった。妖術の鍛錬は、源吾郎も雪羽も各妖で行うようにと言い渡されていたほどである。もっとも、全くやらないのも身体が鈍るという萩尾丸の通達により、妖術の練習を週に二回ほど行った程度だろうか。それも申し訳程度の話だったが。
もっとも、雪羽はさておき源吾郎としては戦闘訓練が長らく行われない事について不満は無かった。むしろ有難いとすら思っていた。末端と言えども、源吾郎もまた八頭怪との全面戦争の事が後を引いていた。闘いはもうこりごりだと思っていたのだ。
さてそんな源吾郎であったが、薬品の計量が終わったので今度は資料整理を行う事にした。薬品の計量やサンプルの作成は作業台で行うのだが、資料整理は自分のデスクに戻らなければならない。
白衣の裾を翻しながら進んでいると、またしても小さくて灰褐色の塊が源吾郎の視界を横切った。いや、横切ったと思われた何かは、そのまま源吾郎の真正面で立ち止まった。
灰褐色の小さな塊はハツカネズミだった。そいつは顔を上げ、つぶらな瞳で源吾郎を見上げているようだった。実際にはネズミは視力が悪いらしいから、源吾郎の存在は耳と鼻で確認しているのかもしれないが。
ともあれ、ハツカネズミを見つめているうちに、源吾郎は多少の苛立ちを覚え始めた。リノリウムの床に手足を付けているくせに、頭を持ち上げてこちらを見上げているさまが、何とも偉そうで生意気そうに見えたのだ。そもそも、妖狐でありネズミたちの捕食者――実際源吾郎は、月に何度か冷凍マウスや冷凍ラットを調理して食べていた――である源吾郎を見て、恐れをなさない事自体が生意気な事に思えた。
源吾郎はだから、その場で強く足を踏み鳴らした。派手な動きと唐突な音に晒されれば、臆病風に吹かれて逃げ出すだろうと思ったためだ。
その足でネズミを踏み殺そうという考えは無かった。研究センターで見かけるネズミは、新たな第五幹部・真琴の眷属であると解っていたためだ。そうでなくとも、そもそも源吾郎は生き物を傷つけたり殺したりする事に強い抵抗感を持っていた。ネズミを食べ鶏肉を調理できると言っても、既にそれらが生命の無い食材になっているからに他ならない。生きたマウスや生きた鶏と対面し、これらでディナーを作れと言われれば、怖気付いて二の足を踏むのがオチだった。魚ならばどうにか絞めて捌く事は出来るのだが。
だが、源吾郎が一度床を踏み鳴らした程度では、ネズミは逃げなかった。黒々とした瞳に、小馬鹿にしたような表情が浮かんですらいるように見えた。
源吾郎はだから、イラっとして再度床を踏み鳴らしたのだ。
――おいコラこの畜生ネズミが。真琴様の眷属だか何だか知らんが、お狐様たるこの俺を前に、そんな風に平然としていられるとは大したやつだな。だが俺は、その気になればお前を踏み殺せるし、捻り殺す事だって出来るんだぞ。ネズミならネズミらしく、コソコソと隅っこで息を潜めて暮らしやがれ。
心の中ではネズミに対する罵詈雑言は湯水のごとく湧き上がっていた。しかしそれらは、もちろん口になどしなかった。イキリ小僧だと思われている源吾郎とて、空気を読む能力や社会妖としての振舞い方はきちんと心得ている。職場の事務所内で、ネズミ相手に激して面罵してはならない事などは、ちゃんと解っていたのだ。
もうこれは、無視してまたいでも問題無かろう。心の中の悪しき言葉が収まると、それと共に興奮も冷めていった。理性的な考えが蘇ったのだが、皮肉にもネズミが動きを見せたのだ。
「どうしたんだい、島崎君」
斜め後ろから声がかかり、ぎょっとして振り返る。声の主は青松丸だった。
青松丸の姿は、普段の源吾郎の見知った姿と変わりない。白衣の皺は前よりも減っているが、それでも薬品の飛び散った痕跡がまだらに残り、長年使っている事を如実に物語っている。母親たる紅藤に似た、柔和で親しみやすそうな表情も源吾郎のよく知るものだった。
だがそれでも、源吾郎は彼の姿に威容を感じずにはいられなかった。紅藤の長男であり頭目の半兄、そして裏切り者たる紫苑と互角以上の激闘を繰り広げた事。それらの事実が、威厳として青松丸に付加されているのだ。あるいは、青松丸自身がそれらを意識し始めたからなのかもしれない。
ともあれ源吾郎がへどもどして突っ立っていると、彼は困ったような笑みを浮かべて首を傾げた。
「さっきから変な音がするから、何だろうって思っていた所なんだ。そうしたら、島崎君が床をドンドン蹴っている姿が見えてね」
そこまで言われ、源吾郎は赤面して視線を落としてしまった。そうした態度が悪手だとは頭では解っている。しかも床に視線を向けたために、未だに滞在するネズミの姿を見てしまった。耳を立て目を見開くネズミが、源吾郎の姿を笑っているように思えた。
あれは島崎君が地団駄を踏んでいたんだね。青松丸がそう言った時には、源吾郎の視線は彼の顔に戻っていた。青松丸は困ったような笑みを浮かべていて、しかし年少者を咎めるような気配も漂わせていた。
「あんまりそう言う事はしないように、ね。そりゃあもちろん、研究センターだって安普請じゃあないから、体重のある君が地団駄を踏んだり跳ねたりしたとしても、床が抜けるなんて事は無いよ。だけど僕たちも驚くし、何よりホコリが舞うと色々と良くないから……」
「はい。申し訳ありません」
源吾郎は素直に頭を下げて謝罪した。相手が誰であれ、そうせざるを得ない事は明白だった。
ただ一つ不満があるとすれば、青松丸が源吾郎を重いと暗に言った事だろうか。青松丸が源吾郎をデブだのとなんだのと揶揄する手合いでは無い事は解っている。しかし体重とか体型について気になってしまうのは、源吾郎の癖のような物だったのだ。
源吾郎の謝罪を受けた青松丸がふいに屈みこむ。灰褐色の影が揺れ、小さくか細い啼き声が上がった。屈みこんだ青松丸は、身を乗り出したかと思うと、源吾郎の傍にいたネズミを捕まえていたのだ。先程聞こえた啼き声はネズミの物だったのだ。
「おや。真琴様のご眷属がやって来て下さったみたいだね。島崎君も気付いていたのかな?」
立ち上がった青松丸は、さも当然のようにネズミを手のひらの上に載せている。急に捕まったにもかかわらず、ネズミは怯えた素振りを見せる事すらない。いや、ネズミが青松丸に捕獲された事を怖がっていない事はとうに解っていた。先程聞こえた啼き声も、悲鳴や恐怖の声などではなく、思う所があったから声を出した、と言う雰囲気だったのだから。もしかしたら「あーあ、捕まっちまったぜ~」みたいな事を、あのネズミは声に出していただけなのかもしれない。
「真琴様のネズミたちって、本当に神出鬼没ですよね」
源吾郎のぼやきは、青松丸の問いへの直截的な答えでは無かった。言い切ってからその事に気付いて少し焦ってしまう。だが青松丸は特に気にする素振りを見せなかった。
それどころか、源吾郎の言葉に頷きつつ、手のひらのネズミにバードケーキの欠片と思しき物を手渡していた。ネズミが乱入しただけではなく、そのネズミに餌を与えて食事をさせる。コンタミに戦々恐々としているまっとうな研究施設の人々が見れば、卒倒しかねない光景であった。
今や研究センターの職員となった源吾郎は、しかしこの光景を無言で眺めるだけだった。真琴の眷属たるネズミたちが出入りする事を、他ならぬ紅藤が容認していたためだ。それに妖怪仙人と名高い彼女の事であるから、ネズミの出入りや職員たちの気ままな飲食が試薬に悪影響を与えないような妖術も、裏で発動しているはずだと思うようにしていた。実際はどうなのか、聞いた事が無いから解らないのだけど。
「この子たちも、あるじたる真琴様から色々な仕事を請け負っているからね」
「ュヒュヒュヒュ……」
言いながら、青松丸はネズミの背を撫でていた。穀類と小麦粉を獣の脂で練り上げたバードケーキは、バードではなくマウスであるネズミもお気に召したらしい。ピンク色の両手で欠片を抱え、夢中でバードケーキの欠片を齧る様は、滑稽でありながら可愛らしくもあった。おにぎりを食べる人間の姿に似ているから、ネズミの姿が滑稽に見えるのだろうと源吾郎は思っていた。
「それに昨夜だって、萩尾丸さんたちは地下街に住む食屍鬼たちと面談をなさったという話だったよね。食屍鬼たちとの案件については、真琴様も出席できなかったけれど気になさっていたから……」
「ああ、はい」
急に食屍鬼たちとの面談の話を振られ、源吾郎は叫ぶように返事をするのがやっとだった。
青松丸の手の上に乗っているネズミは、いつの間にかバードケーキを完食したらしい。小さな手を使って毛づくろいを始めているのだが、その動きもやはり何処かヒトっぽい。
もしかしたら、このネズミたちもドリームランドに渡る事があるのだろうか。そんな疑問が胸の奥から湧き上がるのを、源吾郎は感じてしまった。