萩尾丸たちの話が一段落した所で、青松丸はおずおずと声を上げた。
「萩尾丸さん。研究センターの若い妖《こ》と言えば、少しお伝えしたい事があるんです。その、島崎君の様子が気になりましたので」
「それは確かに気になる話だね」
冷酒の入った徳利から手を離すと、萩尾丸はまっすぐ青松丸を見やった。その眼差しはいつもの仕事妖のそれである。
「と言っても、場所が場所だからね。ここでは
「はい」
話せる範囲、と敢えて萩尾丸が言い足した事に、青松丸は僅かに緊張した。世間話レベルではない、深刻な話になるであろうと萩尾丸が考えている事が伝わったためだ。
それも島崎源吾郎の抱える秘密を思えば無理からぬ事であろう。
現実改変。おのれが知覚した出来事を、おのれの望むままに上書きしてしまう権能を、源吾郎は隠し持っていたのだ。しかもその権能は、高位の邪神たる這い寄る混沌より齎されたものなのだ。若く純朴な妖狐の青年が抱えているとは思えない、とんでもない事柄である。それこそ、源吾郎が玉藻御前の直系の子孫であるという事が霞んでしまうほどに。
源吾郎が現実改変能力を保有している。二か月ほど前にその事が発覚したのだが、雉鶏精一派の上層部のみが知るトップシークレットの一つに相成った。源吾郎の能力を悪用・濫用しようと目論む輩を出さないための対策だった。
もっとも、現実改変能力自体は代償と引き換えに行使されるものなので、源吾郎自身が悪用するつもりが無いのだが。
ともあれ、萩尾丸がここで無理して全てを話さなくてもいいと言ったのは、このような事情があったためである。
今この飲み会に居合わせるのは、何も胡琉安や八頭衆などと言った上層部の者たちばかりではない。幹部の側近などもいるが、中には明らかに若手の鳥妖怪などもチラホラと見受けられる。そうした連中にまで源吾郎の抱える重大な秘密を聞かれてしまうのは、確かに都合が悪い。
「様子が気になったと言っても、そんなに踏み込んだ所まで、僕には解りませんが……それでも大丈夫でしょうか」
予防線めいた前置きを口にしつつ、青松丸は萩尾丸の様子を見やった。自分の勘違いや思い込みを相手に伝えるのはよろしからぬ事であると思ったためだ。ましてや、八頭怪との全面戦争が終わり、それ故に皆ピリピリしている所なのだから。
萩尾丸はしかし、鷹揚な笑みを浮かべて頷くだけだった。
「別に構わないよ。青松丸君、君が気になって違和感を覚えたという事こそが重要なんだからね。君の事だ、しょうもない変化レベルであれば、わざわざ僕に伝えようとは思わないだろう。あるいは、島崎君自身が君に何か相談を持ち掛けたのであれば、ね」
青松丸はその言葉を無言で聞き入っていたが、感謝を示すように頭を下げた。やはり互いに長い付き合いという事もあり、思っている事や考えている事は大体伝わる物だ。
「それに青松丸様。島崎源吾郎の挙動については、我らも気になる所存です」
少し離れた場所で、太く甲高い声が上がった。声の主は、鴉天狗の青年だった。歳の頃は百歳を超えたかどうかと言う所であろうか。彼は確か灰高の子孫か何かで、従って灰高の配下にいる鴉天狗だったはずだ。
チューハイの入ったグラスを置くと、赤らんだ顔で鴉天狗は言葉を続けた。
「雉仙女殿も青松丸様たちも、あの仔狐を寵愛しているようですが、彼があなた方を裏切って謀反を起こさないかどうか。そこも気を付けなければならないと、私どもは思っているのです」
そこまで言うと、若い鴉天狗は甲高い声で笑い始めた。鴉の啼き声めいた笑い声に、青松丸は黙って耳を傾けているだけだった。
源吾郎が紅藤たちを、雉鶏精一派を裏切る。鴉天狗の若者は、その懸念をダイレクトに口にしたのだ。
島崎君が僕たちの事を裏切るなんてありえない。青松丸は声を大にしてそう言いたかった。だが言えなかった。断言したとしても、鴉天狗の若者がそれで納得するとは思えなかったからだ。それにそもそも、雉鶏精一派は紫苑という裏切り者が出たばかりである。彼女とて表向きには、雉鶏精一派の重要妖物《じゅうようじんぶつ》として尽力していた。その事を思うと、源吾郎が腹の底で何を思っているのか解った物ではない。
血縁上は従姉であり、立場的には姉として慕っていたはずのあのメス山鳥の姿が脳裏をちらつき、疑心暗鬼をもたらしていたのだ。彼女は源吾郎とは無関係なはずなのに。
「島崎君が我々を裏切るというお話ですか。小金目君、その心配は要らないよ」
戸惑ってへどもどしている青松丸の代わりに言い放ったのは萩尾丸だった。徳利に手指を這わせ、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、鴉天狗の若者を見つめている。
「島崎君の事は、小金目君たちよりも僕らの方がよく知っているんだ。もちろん、君の曾祖父である灰高様よりもうんと、ね。彼の気質や性格を鑑みれば、裏でコソコソ策略を練って、そして僕たちを裏切るようには思えないんだ」
鴉天狗の小金目は、その言葉で納得した訳ではないようだ。もっとも、それは萩尾丸も気付いていたらしく、一呼吸置くと彼は言葉を続けた。
「よそのしょうもない妖怪や情婦なんかに悪い事を吹き込まれたらその限りではないだろうけどね。しかし、僕の知る限りでは、島崎君もおかしな輩と交流している気配もないからねぇ――青松丸君。君もそう思うだろう?」
萩尾丸に急に話題を振られ、青松丸は目を丸くした。しかしすぐに頷いた。反射的な反応ではなく、きちんと考えた末の事である。
「ええ、ええ。島崎君の交友関係についても、特におかしな所はありませんよ」
源吾郎の直近の交友関係を思い返しつつ、青松丸はそう言った。職場内では再教育の最中である雪羽と親交を深めており、休憩時間などは一緒にいる姿をよく見かけた。その雪羽は萩尾丸の監督下にあるので、悪事を目論む事は不可能だろう。
それ以外で言えば、野狐である米田玲香と交際しているという所であろうか。米田玲香が源吾郎を唆して悪事を行わせる可能性は皆無だ。そもそも彼女は源吾郎の叔父や叔母に、妹分として可愛がられていたような女狐なのだ。源吾郎の叔父たちも、彼女が何かの悪心や下心を持って接触したとなれば、すぐに看破するだろう。それに苅藻達と交流があるのならば、わざわざ源吾郎を籠絡させる必要性すらないのだから。
更に言えば、米田玲香の事は雉鶏精一派の面々も多少は知っている。有能で戦闘力も高い半面、彼女は権力や野望には興味のない存在だ。もし少しでも興味があるのなら、とうに萩尾丸のヘッドハンティングに乗っているだろう。
そんな事を思っていると、笑みを浮かべた萩尾丸が再び口を開いた。
「もっとも、島崎君が密かに悪事を計画していたり、それで僕らに牙を剥いたりする事があったら、彼や彼の関係者が
笑い交じりに放たれた萩尾丸の言葉に、青松丸や双睛鳥たちの表情がにわかに引き攣る。しかし当の小金目は、首をかしげるだけだった。
萩尾丸は呆れたような表情を僅かに見せつつ、言葉を重ねた。
「確かに、紅藤様も折角手に入れた玉藻御前の末裔を喪ったとなると、悲しむだろうって事は僕も解るよ。だけど
「萩尾丸様、あなた方はそこまで――」
赤ら顔もすっかり血の気が引き、青ざめた顔で小金目は萩尾丸を見つめていた。若いゆえに世間知らずの彼も、不慮の事故が何を意味するのか流石に解ったらしい。
雉鶏精一派を、胡琉安を害する者はどんな手段を使ってでも
「ま、まぁ萩尾丸さん。そこまで深刻な内容なのかどうかは、現時点では僕たちには解りませんよ」
そう言ってから、青松丸は源吾郎の様子を説明した。様子が気になると言っても、仕事の最中や休憩中に心ここにあらずと言った態度になっていたというレベルの話である。しかもそれは、今日出社した時に急に気付いた事だった。と言うよりも、昨日までは源吾郎も普段通りだったのだ。
その話を一通り聞くと、萩尾丸は澄ました表情で頷いた。
「取り敢えず、明日は僕も一日研究センターにいるからさ、島崎君に直接話を聞く事にするよ。あの子の事だ。何か企んでいたとしても、僕らが揺さぶりをかければすぐに口を割るだろう。
もし仮に口を割らなかったとしても――術で口を割らせる事も僕には出来るからね。紅藤様はその手の術を嫌っておいでではあるけれど、雉鶏精一派の存亡に関わる事柄だとなれば、そうも言ってはいられないだろうから、さ」
「ああ……やっぱり組織の上層部ってのは恐ろしいもんだなぁ」
小金目が感極まった様子で呟いていた。だが彼の周囲にいるのはそれこそ上層部ばかりなので、同意する声などもちろん無かった。