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異変は唐突に訪れた。
萩尾丸は、峰白と灰高の言い争いに対し、どのように介入すべきなのか思案していた。いや違う。介入しても良いのか介入するべきでは無いのか。どちらの選択肢を取るかを考えていたのだ。
元より雉鶏精一派は寄せ集めの組織に過ぎない。表向きは頭目たる胡琉安を崇拝して団結しているようには見えるが、実質的には結束は緩く、幾つもの派閥が存在している。思惑もマウンティングも丁々発止も飛び交うような組織なのだ。間違っても一枚岩とは言い難い。
八頭怪との全面戦争の折には、共通の敵がいたからこそ団結できただけなのだ。しかしだからと言って、この度の峰白と灰高の口撃は露骨過ぎた。八頭怪と言う脅威が今の所退いた事、あの全面戦争での結果や戦略に互いに思う所があったとしても、だ。
「ふふ……くすくすくす」
緊迫した空気の中で、男の笑い声が低く響く。その笑い声は、この場には、場違いの物のはずだった。
いや――男のその笑い声が、会議室の空気を塗り潰し、塗り替えてしまった。
八頭怪に準じるか、それ以上の存在が、音もなく会議室に姿を現したようにさえ、萩尾丸には感じられた。
尋常ならざる者、その上で強大な力を持つ者の気配に、萩尾丸は慄然とした。そしてそれは、彼の重臣も、他の幹部勢も、峰白と灰高ですら同じだった。この場にいるのは、大妖怪かそれに準じる力量と経験を保持する猛者ばかりであるというのに、だ。
しかも異様な雰囲気は――他ならぬ島崎源吾郎の身体から溢れ出ていたのだ。
「……おやおや。打ち合わせと言う名の意見のぶつかり合いも、面白そうになってきたところで顔を出したというのに、皆黙り込んでしまったか」
島崎源吾郎が、いや源吾郎の身体を借りたナニカが言葉を紡ぐ。
表向きには源吾郎が嗤い、源吾郎が喋っているように見えるだろう。萩尾丸はしかし、一連の動作に源吾郎自身の意志が介在していない事を見抜いていた。表情も、物言いも、身にまとう雰囲気すらも、源吾郎のそれとは全く異なっていた。妖力が普通よりも多いだけの、しかし温順で愛らしさすら感じる独特な雰囲気は、今のそいつからは一切感じられなかった。
「お、おい島崎君! 無視されているからと言ってな、演劇狂いだからと言ってな、ふざけた真似をするのはよさないか! 見ての通り、俺らは真面目に打ち合わせをやっているんだぞ!」
ここで事もあろうに三國が吠えた。自分たちをからかう源吾郎を りつけているつもりなのだろう。しかし実際には、得体の知れないナニカに半ば怯えていた。半獣の様相を示しながらも威嚇している事こそが、彼の怯えの強さを物語っていた。
もちろん、三國の参謀である春嵐も、彼の無鉄砲な言動におろおろしている。第七幹部にして彼の兄貴分でもある双睛鳥もだ。
幸いな事に、ナニカは三國の言葉に気分を害する事は無かった。さもおかしそうに微笑むだけである。そしてその微笑も、源吾郎が浮かべる笑顔とはまるきり異なっていた。顔の造形が、いや肉体そのものが同じであるにも関わらず、だ。
「落ち着きたまえ三國君」
若手幹部の代表として、萩尾丸は口を開く。視線を三國に向けつつも、ナニカの挙動に気を配りながら。
「狼狽える気持ちは解らなくもない。しかし、あれは島崎君の演技でも茶番でもないんだ。君だって解るだろう――あれは島崎君ではない。ナニカが島崎君の肉体を借りて操っているんだ」
「……」
三國は何も言わなかった。しかし表情から、萩尾丸の言わんとしている事を理解したのだと思う事にした。
それにしても。萩尾丸は無言のままに思った。乗り移って肉体を操っているとは、それこそ狐憑きではないか、と。もっとも、今回は狐が取り憑かれている方であるが。
「ナニカだなんてまだるっこしいわね」
冷徹で、決然とした声でもって峰白が言う。雉妖怪ながらも猛禽めいた眼差しでもって、彼女は源吾郎の身体を借りるソレを見据えていた。
「這い寄る混沌。そこの仔狐の身体を借りて私たちの会議に闖入したあんたは、そう呼ばれる存在なのでしょう――」
「這い寄る、混沌だと――」
淀みなく告げる峰白と、たどたどしく這い寄る混沌の名を呼ぶ灰高の物言いは対照的だった。
源吾郎の身体に乗り移ったソレは、ともあれ峰白の言葉を耳にすると満足げに頷いた。
「ご名答。もしかしたら、闇の魔神だと言うかもしれないとも思っていたんだがね。どちらにせよ我は我なのだから、大した違いではないさ」
「そう言えば、闇の魔神も人間の身体に乗り移って顕現するって話だったわね。まぁ、その仔狐は人間とは微妙に違うけれど」
闇の魔人。峰白がこともなげに告げた神格の名を、あるいはその神格にまつわる物語を、萩尾丸も知っていた。這い寄る混沌の千なる化身の中でも、犠牲者に憑依して地上に顕現する事で有名な存在だ。同名の物語の中でも、ある作家に夢を介してコンタクトを取り、彼に乗り移って顕現したという結末ではなかったか。
夢を介してコンタクトを取り、そうして折を見て憑依顕現する――物語の中で闇の魔神が行った事と、島崎源吾郎の身に今まさに起きている事は、まるっきり同じ事ではないか。
その事に気付いた萩尾丸は、額に汗が流れるのを感じた。乗り移った魔神が顕現すると、もはや依り代となった肉体は変質し、元に戻る事は決してないという。源吾郎は純粋な人間とは異なる存在だ。だがそれでも這い寄る混沌の化身にしてみれば、脆弱で卑小な存在に過ぎないだろう。
這い寄る混沌が顕現した事で、源吾郎の心身に不可逆的な損傷や変質が起きるのではないか。それが何より心配だった。
「は、這い寄る混沌だか闇の魔神だか知りませんが」
ここで紅藤が声を上げた。源吾郎の身体を操る這い寄る混沌に対して、隠さずに敵意を露わにしながら。
「あなたが憑依している妖狐の青年に、島崎源吾郎の心身を少しでも損ねでもしたら、承知しませんからね。たとえあなたが神であり守護者だとしても、私は立ち向かいますわ」
紅藤の敵意と怒気が、ここで膨れ上がる。熱風のごとき彼女の妖気に、萩尾丸は僅かに顔をしかめた。この場に雪羽のような弱い妖怪がいれば卒倒していたかもしれない。しかし重役たちの打ち合わせと言う事が幸いし、卒倒するような弱い妖怪は一匹たりともいなかった。
這い寄る混沌に対して怒りをあらわにした紅藤の姿は、妖によってさまざまな考えを搔き立てたに違いない。ある者は紅藤の姿にメンドリの母性を見出したかもしれないし、他の者はお気に入りの玩具を壊されそうになって癇癪を起したのだと捉えたかもしれない。
だが萩尾丸は、紅藤が勇敢だと思っていた。その勇敢さには、途方もない無謀さの裏返しであるのだが。
「ふっふっふ。お前も中々勇敢なメンドリと見える。未だに単なる禽獣であり、神に連なるには未熟な存在であるというのに、真っ先に我に咬みつく気概があるとはな。道ヲ開ケル者の眷属に仕えていた経歴は伊達ではないな」
含み笑いでもって語る這い寄る混沌に対し、紅藤は渋い表情を見せていた。道ヲ開ケル者の眷属、すなわち胡喜媚に仕えていた事を指摘されたためだろう。
紅藤は確かに雉鶏精一派の幹部であり、しかも初代頭目たる胡喜媚に仕えていた過去もある。しかし彼女は、胡喜媚を憎み抜いていた。雉鶏精一派の最高幹部ながらも胡喜媚の事に言及されると何とも言い難い反応を示すのは、そのためだった。
だが安心したまえ。這い寄る混沌は右手を胸に当て、唇を弧のように歪めて笑った。演劇の研鑽を行っていた源吾郎以上に、芝居がかった振る舞いに思えた。
「別に我は、この者の身体を損ねるつもりなど毛頭ないわ。この者は、我を取り込んだ者の血を色濃く受け継いでいるのだぞ。借体形成の術を心得たあの者の血を受け継いでいるのだから、我が多少乗り移ったとしても問題は無かろう。それにこの者は信心深いのだぞ? 我を……我の化身を模した彫像に対しても、毎朝礼拝と供物を欠かさぬのだから、な」
彫像に対して礼拝と供物を欠かさない。這い寄る混沌の言葉に、萩尾丸たちはそっと目配せを交わし合った。彫像と言うのは、若菜から受け継いだ無貌の神の彫像の事であろう。その彫像に供物を用意している。その部分が萩尾丸は気になってしまった。虫を殺すのも嫌うような源吾郎の事だ。供物としてわざわざ生き物を殺してその血肉を捧げるなどと言う事は仕出かしてはいないだろう。しかし折を見てそれとなく確認しておいた方が良さそうだ。萩尾丸は即座にそう思った。他の面々は、萩尾丸よりももっと差し迫った事を考えているかもしれないが。
但し、皆が皆供物の話に意識を向けたわけではないらしい。と言うのも、難しい表情を浮かべた紅藤の口から「借体形成……」と呟くのが聞こえたためである。
「まあ良い。しかし皆の者もそんなに神経質になるな。我とて、お前たちに少し伝えておきたい事があって、わざわざこの者の身体を借りたのだからな――」
伝えたい事。這い寄る混沌の言葉に、萩尾丸は背筋が伸びる思いだった。