源吾郎の身体を借りてまで顕現した這い寄る混沌が、伝えたい事とはいかなる事なのか。それはきっと、途方もない事柄なのではなかろうか。
そう思いつつ、萩尾丸は這い寄る混沌と八頭衆やその重臣たちの様子を注意深く窺っていた。這い寄る混沌の言葉に驚き、誰かが何がしかの質問を放つのではないかと思っていた。しかし萩尾丸の予想に反し、誰も彼も無言のままだった。這い寄る混沌に食って掛かった紅藤も、最年長の灰高も、八頭怪の思惑を何か察していたであろう峰白ですらも。もちろん、頭目にしてまだ若妖怪に分類される胡琉安は、神妙な面持ちで黙り込んでいる。
「恐れながら、伝えたい事とは八頭怪に関わる事でしょうか」
だからと言う訳ではないが、萩尾丸が質問を投げかけた。八頭衆での打ち合わせや会議の折に、滞ったりもめそうになった時に、助け舟を出して話を前進させるのが、萩尾丸の役割だった。担っているだとか命じられているだとか仰々しい物ではない。ただ、そうした方が良いと萩尾丸が自発的に思い、自発的に行っているレベルの話だ。
ともあれ萩尾丸は問いかけた。這い寄る混沌は、含み笑いを浮かべながら頷いてくれた。
「八頭怪か。ああ、この者も八頭怪がどうと言っていたな。この者には、先だってわが領域を訪れた折に、八頭怪とやらの思惑は一通り伝えてやったのだが……それを仲間であるお前らには伝えられなかったようだな。だから我が、この者の代わりに出張る事となったのよ」
そこまで言うと、這い寄る混沌は笑い始めた。豪快さと陰湿さと不気味さの入り混じった、名状しがたい笑い方だ。少なくとも、源吾郎には出来ない笑い方だと萩尾丸は思った。
「とはいえ、こうしてお前たちと会って話すのも悪くはないと思っている所だ。何せこの者はお前たちの仲間なのだからな。それに血筋によって我の力を受け継ぎ、我らの司祭となったこの者が、どのような道を選ぶのかも気になる所だ」
「どのような道って、それはどういう事でしょうか」
這い寄る混沌に問いかけたのは灰高だった。天狗らしい、威風堂々としたすまし顔ではある。しかしその表情の裏に、戸惑いが隠されている事に、萩尾丸は気付いていた。
知れた事よ。這い寄る混沌は笑顔で頷く。
「この地の守護者としての道を選ぶか、混沌の遣いとしての道を選ぶかの二つに一つよ。もっと解りやすく言えば、お前たちの手駒としての暮らしに甘んじるか、八頭怪のような者に与するかのどちらか、と言う事だな」
「そんなっ……!」
誰かが戸惑いの声を上げたが、それが誰であるか確認する気力なんて無かった。大方三國か、そうでなければ八頭衆が連れている重臣の誰かであろう。八頭衆の面々は概ね年かさの妖怪ばかりである。しかし重臣の中には、優秀である事や後進育成の為と言う事もあり、二百を超えたかどうかという若者が紛れ込んでいる事もある。若者が驚いたり感情を露わにするのはそれほど珍しい事では無い。萩尾丸もその辺りは解っている。
僅かにどよめいた座席を鎮めたのは、やはり峰白だった。
「八頭怪の思惑に乗せられただけではなくて、今度はその仔狐が、私たちの敵として牙を剥く可能性もあるって事ね? まぁでも……紅藤に萩尾丸。その時の
「も、勿論ですわ……峰白のお姉様」
「私も覚悟は固めております」
冷徹な眼差しを向けられ、萩尾丸はそう言う他なかった。
仮に源吾郎が悪心を抱き謀反を企てていたとして、それを誅殺する事は、萩尾丸の力をもってすれば特段骨の折れる事では無い。もちろん、何も思わずに淡々と行える訳でも無いが。
一方で、紅藤は既に源吾郎に対して情が移り始めているのだろう。源吾郎を誅する事に思いを馳せ、表情を強張らせていた。
紅藤たちと源吾郎の両者が幸せに過ごすには、やはり源吾郎は妙な野心を持たず、紅藤の飼い狐として過ごす事に満足するのが一番であろう。這い寄る混沌からの言葉を聞きつつ、萩尾丸は心の底から思っていた。
「ひとまず今回は、八頭怪とやらの意図について、お前たちにも話しておこうか。前置きが何かと長くなってしまったがな」
気付けば這い寄る混沌は頬杖をついている。島崎源吾郎がそんな事をしていれば、叱責されたり見下されたりしていた事であろう。しかし中身が這い寄る混沌と言う事もあり、誰も何も言わなかった。這い寄る混沌に対しては、萩尾丸も含め畏怖の眼差ししか向けていなかったのだ。
「元よりあの者は、お前たちが八頭怪と呼ぶ者は、それほど急に物事を進めるのを好む性質では無かったのだ。だってそうであろう? 八頭怪は確かに姉の事を憎み、彼女の一族郎党を亡き者にしようと狙っている。だが実際に事を起こす事を決めているのならば、お前たちがこうして安寧を貪る事も不可能だろうて」
八頭怪がせっかちで短絡的な気質であったならば、雉鶏精一派は早々に打ち滅ぼされていただろう。這い寄る混沌の言わんとしている事に、萩尾丸は頷かざるを得なかった。まさしくその通りだったからだ。
と言うよりも、今回の全面戦争に至るまでの八頭怪の動きが、いつになく性急すぎた気もする。邪神の血を引くイルマがいたから、八頭怪も大きく出たのだろうか。しかしその割には、イルマは実戦で役に立っていたようにも思えない。
「もしかしたら、八頭怪自身も、あのタイミングで我々に全面戦争を仕掛けるのは、不本意だったという事でしょうか」
さよう。緑樹の問いに這い寄る混沌は頷く。
「八頭怪の交流についてはお前たちも知っているだろう。あの者は、少し前からこの地に産み落とされた邪神――それも、かの高名な道ヲ開ケル者だ――の仔と、果敢にも愚かにもそれを産み落とした母親と交流していたのだよ」
「それは、山鳥女郎とイルマの事ですね」
「山鳥女郎の娘で、イルマの胤違いの姉である紫苑もいましたがね」
道ヲ開ケル者の息子と、その母親。紅藤がその言葉に即座に反応し、双睛鳥が何処か忌々しげな口調で告げる。八頭怪たちではなく紫苑と交戦していた双睛鳥の事だ。あのメス山鳥に対しては、彼なりに思う所があるのだろう。
「無論、八頭怪は道ヲ開ケル者の落とし仔を保護し、無事に育つようにと心を砕いていた。道ヲ開ケル者はそこここで落とし仔を造りはするものの、無事に育つ者は存外少ないからな。母親が神格ではないのならなおの事、だ」
「無事に育たないというよりも、途中で敵対勢力に殺されてしまう、と言った方が正しいのではなくて?」
厳密に言えばそちらの方が多いのだろうな。萩尾丸は何も言わなかったが、這い寄る混沌に問いかける峰白の言葉に、心の中で頷いていた。
道ヲ開ケル者は、地上の生物との間に仔を設ける事がしばしばあるという。長じたその仔が、地上に道ヲ開ケル者を召喚できるようになるからだ。その仔にしたら崇拝すべき神であり父親なのかもしれないが、地上の禽獣妖異にしてみれば、道ヲ開ケル者などとんでもない脅威に他ならない。だから道ヲ開ケル者の落とし仔は、往々にして殺されるのだろう。
もし彼が、殺されずに生きていくとすれば、地上の者たちと調和して生きていくほかないのだ。
いずれにせよ、峰白の口にした事は概ね合っていたらしい。這い寄る混沌はやはり満足げな表情で頷いている。
「邪神の落とし仔が疎まれ、生命を狙われるであろう事は、お前たちもよくよく知っているだろう。むしろお前たちは、落とし仔を狙う側であると我は思うのだがな。
いずれにせよ、八頭怪は落とし仔の生命を護り、その上で懐柔して利用する事を目論んだのだ。八頭怪もまた、世代を重ねて外の血が入っていると言えども、道ヲ開ケル者に連なる存在だ。道ヲ開ケル者の実子を重要視するのは自然な事だろうに」
言われてみればその通りだと、萩尾丸は思った。それは何も、這い寄る混沌の理屈づくしの言葉を、無頓着に受け入れただけの話ではない。全面戦争の折での、八頭怪のイルマへの態度を思い出しての事だった。
他者を見下しこちらを畜生視している八頭怪であるが、イルマに対しては若干優しかったのだ。むしろイルマの母である、山鳥女郎を畜生呼ばわりしているほどではなかっただろうか。
「そう思うと、八頭怪がイルマを大切にする事は自然な事だわ。単純に身内だったとしても、邪神の召喚と言う目的に利用できるとしても、ね」
ああそうだ。峰白の言葉に這い寄る混沌は頷いた。先程までとは異なり、何処か複雑な表情を浮かべていたが。
「しかし、いかな落とし仔と言えども、生まれたばかりの個体はすぐには使い物にはならんのだよ。これは当たり前の事だから、わざわざ口にするまでもない事だろうがな。無論、八頭怪もこの事は知っている」
這い寄る混沌が口にしたのはごく当たり前の事ではあった。萩尾丸はしかし、彼の言葉にいたく感心していたのだ。イルマの言動は、まさしく幼子のそれだったからだ。生まれて一年足らずで青年のような姿に成長していたが、精神はそこまで追い付いていなかったという事なのだろう。
「従って、八頭怪が落とし仔を利用して事を動かすにしても、多少の時間は必要だったわけだ。落とし仔の成長は早いから、十年も経てば使い物になるだろうからな」
だが――這い寄る混沌は、ここで冷笑的で、邪悪な笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「その事を理解できぬ者が、理解した上でその事に目をつぶった者が、八頭怪の傍らにいたのよ。他ならぬ、落とし仔の母親なのだがな」
八頭怪はイルマの成長を待ってから事を進めようとしたが、山鳥女郎はそれを承知しなかった。這い寄る混沌の話した事は、およそこのような内容だった。
やはり這い寄る混沌は、全てを知っているのではないか――話を聞くうちに、萩尾丸は腑に落ちつつも名状しがたき恐怖感を抱き始めていた。