最初のうちは、八頭怪もイルマの母である山鳥女郎と手を組むのはやぶさかではないと思っていた。
それは邪神の落とし仔を(厳密には卵であるが)産み落とした母体と言う意味合いだけではない。邪神と交わりつつも正気を保つ強靭さ、そもそも独力で邪神と接触できるほどの知識と狂気を、八頭怪は高く評価していたのだ。
道ヲ開ケル者などと言った邪神たちは、地球上の人間や妖怪などの生物と接触し、仔(母の種族によっては卵だが)を産ませる事が度々ある。しかし邪神の仔を無事に出産ないし産卵できる母体はごくまれだ。正気を失って廃人になるならばまだ良い方であり、仔の強大さに身体が耐え切れず、そのまま生命を落とす事も珍しくないという。
そう言う意味では、山鳥女郎は生半可な妖怪ではない。イルマを産み落とした後も心身の不調に見舞われる事無く、元気にイルマを手駒として利用していたのだから。
……もっとも、紅藤に対して五百年以上敵愾心を抱き、彼女を陥れようと画策している訳だから、初めから正気ではないのかもしれない。しかしそう言う方面で正気を疑うならば、峰白も紅藤も正気とは言い難い存在とも言えるのだが。
更に言えば、山鳥女郎も雉鶏精一派を敵対視しているという事もまた、八頭怪と手を組む事へのメリットとなった。目的や憎悪の対象は微妙に異なれど、雉鶏精一派を潰すという目的そのものは同じだからだ。
その上山鳥女郎は、雉鶏精一派の攪乱および内部分裂による破滅を招くために、手駒にして実の娘たる紫苑を雉鶏精一派に送り込んでもいた。紫苑もまた山鳥女郎の意志によって動いており、八頭怪の手下と見做しても問題ない存在だった。
「そんな訳で、八頭怪も邪神の落とし仔のみならず、その母親や眷属たちも利用できると判断したんだろうなぁ。特に落とし仔の母親は、お前たちに恨みを持ち、八頭怪の計略とは別個に動いていたのだからな。そこに邪神の落とし仔の力も加われば、お前たちを落とせると思ったのだろう」
這い寄る混沌はそう言うと、冒涜的な冷笑を見せた。
「八頭怪の誤算は、落とし仔の母親を御しやすい存在だと思い込んだ事だろうな。邪神と交わったと言えども邪神の系譜とは異なる禽獣であると思って、侮っていた節もあると我は思うぞ。と言っても、そうした気質は何も八頭怪特有の物ではないだろうがな」
そう言いながら、這い寄る混沌は高笑いを始めていた。
這い寄る混沌の話には心当たりがある。重臣や幹部たちと目配せしながら、萩尾丸は思った。八頭怪が山鳥女郎をどう思っているかは言うに及ばず、山鳥女郎が八頭怪をどう思っているかについても、だ。
「邪神の落とし仔が育つにつれて、落とし仔の母親と八頭怪との意見の食い違いが目立つようになったのだろうな。落とし仔の母親は、すぐに落とし仔をけしかけて雉鶏精一派を潰そうと目論んだ。しかし八頭怪は、時期尚早だと思っていたのだよ。それどころか、返り討ちに遭うという懸念もあったのだろうな。
――先の話でも解るだろうが、邪神の落とし仔は中々に得難い存在だ。あっさりと殺されてしまえば、今後似たような手駒を得るのは困難であると、八頭怪は解っていたのだろう」
「まぁ確かに、それもそうよね」
鼻を鳴らし、不敵な笑みを浮かべながら峰白が頷いた。
「ええ。私もイルマの姿を見たから解るわよ。異界からの異形を召喚する所は多少厄介ではあるけれど、でも私たちでどうにもならない相手じゃあないわ。むしろ本気を出さずとも、イルマ単体なら斃せると踏んでいるわ。
と言うよりも、イルマなら双睛鳥が仕留める手前まで追い詰めたんじゃあなかったかしら」
話題を振られた双睛鳥は、驚いて目を瞬かせていた。しかし頷くでもなく首を振るでもなく、曖昧に首を揺らした。それから彼は、イルマに手傷を負わせたのは事実だが、それはあくまでも紫苑を狙って行った事に過ぎず、偶発的な出来事であると語った。妙に律義な奴だと思いながら、萩尾丸はそれを聞いていた。
「そうだ。邪神の落とし仔も、今はまだその程度の存在なのだよ。八頭怪と魔術妖術に詳しい母親の許で育っているために、魔力と強さは十分にあるかもしれない。しかしそれでも落とし仔の幼さは払拭できぬ。そしてお前たちとて、脅威は小さなうちに潰しておこうと考えるだろう?
――だからこそ、八頭怪は自分たちが封じられるようにお前たちを仕向けたのだ」
封印作戦も八頭怪が仕向けたものだった。ここで今一度、会議室が僅かにどよめく。どよめきの間から、「やはりそうだったのね」と言う峰白の呟きも聞こえた。そんなに大きな声ではなかったはずなのに、峰白の呟きはどよめきに紛れる事は無かった。
「封じられるという事は、特定の場所から逃れられぬ事ではある。しかし八頭怪はその事を逆手に取り、邪神の落とし仔が育ち切るまで身を隠す事が出来ると考えたのだよ。それに、苦心惨憺して封じたとあれば、それでもう因果は終わると思うだろうからな」
「あ、ああ……」
「言われてみれば……」
「確かに、確かにそうかもしれない」
萩尾丸もまた、仲間たちと共に驚嘆の声を上げてしまっていた。封印自体が八頭怪の目論見である。その事の真意をはっきりと理解してしまったからだ。
だが、八頭衆たちもただただ無邪気に納得しただけではない。疑問を呈する妖怪たちの姿もあった。
「あ、あの、ご説明していただいた事は僕も理解できました。ですが、疑問に思う所もあるのです」
「私もよ」
畏まった態度と表情でもって緑樹が告げ、それに峰白も乗っかっている。
初めに口を開いたのは緑樹だった。しかし峰白に気兼ねしているのか、這い寄る混沌に真っ先に質問を投げかける事は無かった。その代わりとばかりに、峰白がまず口を開いた。
「山鳥女郎が、八頭怪の思い通りにならない存在だという事は解ったわ。それならばなぜ、その事が解った時点で八頭怪は彼女をぶち殺さなかったのかしら? 私が八頭怪の立場ならばそうしていたのに……理解に苦しむわ」
「実は僕も、峰白様と似たような疑問を抱いていたのです」
いえ、厳密には微妙に違いますが。そう言いながら、引き続き緑樹が疑問を口にした。
「そもそも論として、何故八頭怪は山鳥女郎を意のままに操る事が出来なかったのでしょうか。確かに、山鳥女郎も生半可な力の妖怪ではありません。しかし邪神の末裔であり、妖怪仙人に匹敵する八頭怪であれば、彼女を力ずくで従える事も出来たのではないかと、僕は思うのですが」
「いやはや緑樹君。いかにも気ままで寂しい独り者らしい質問ですね」
さも愉快そうにそう言ったのは這い寄る混沌ではない。隣に妻を侍らせた、鴉天狗の灰高だった。
「良いですか、峰白さんに緑樹君。男は女に、夫婦ならば夫は妻に逆らえないもの、男が自分の意のままに振舞っていると思っていても、女に手綱を握られているに過ぎないものなのですよ」
「あー、男が女に逆らえないってのは解るぜ。俺もさ、女房には頭が上がらないもん。雪羽の事とかもあるけれど、それを抜きにしてもさ……」
ここで灰高の言葉に賛同したのは三國だった。砕けた口調であるものの、彼が心底そう思っているであろう事は萩尾丸にも解った。八頭衆の中では最年少の三國だが、これでも立派な妻子持ちである。特に妻との結婚生活は三十年以上続いているのだから、夫婦が如何なるものかはよく理解しているのだろう。
もちろん、三國の妻である月華が聡明な妖物である事、そもそも妖怪たちの強さや権力は性別に左右されない事もあるのだが。
「更に言えば、邪神の血を引いていると言えども、親と子の繋がりはある物なのだよ。特に、親を思う仔の気持ちは強固なものだ。思い通りにならぬからと言って落とし仔の母親を殺してみろ。八頭怪は落とし仔の親代わりになるどころか、親の仇となって憎まれるだけだ。彼奴も、その事が解っていたからこそ、落とし仔の母親や半姉をそのままにしておいたのだろう」
それにな。這い寄る混沌は何を思ったのか、にたりと笑った。
「八頭怪ももしかしたら、思い通りにならなかった落とし仔の母親に対して、煮え湯を飲まされたような思いを抱いているのかもしれん。そんな相手を、あっさりと殺してしまったら、溜飲が下がらないだろう?」
禍々しい這い寄る混沌の言葉と表情に、八頭衆たちは固まってしまった。
見た目と肉体は島崎源吾郎のそれであっても、裡に宿る人格や性格が異なるだけでも相当変わるものなのだ。そんな事を、萩尾丸はついつい思っていたのだった。
「――さて、我の話もそろそろ終わりだ。と言うよりも、この者の肉体をこの者に戻してやらねば、お前たちも色々と困るのだろう?」
這い寄る混沌はそこまで言うと、今一度高笑いを上げた。笑い声が不自然なタイミングで止まった時には、這い寄る混沌が漂わせていた異様な雰囲気は、霧散していたのだ。
今や島崎源吾郎は、ぐったりと椅子に腰かけている。初めのうちは目も半開きで表情も虚ろだったが、数秒と待たぬうちに目の焦点が定まり、表情も心持ちしっかりとしたものになっていた。
島崎君が