源吾郎が紅藤たちに連れられて本部を後にしたのは、打ち合わせが終わってから小一時間後の事だった。
打ち合わせそのものは、源吾郎の身体から這い寄る混沌が抜けた所で終わってはいた。しかしその後、紅藤と萩尾丸を除く八頭衆の面々は源吾郎を取り囲み、あれやこれやと質問を投げかけたり、一方的におのれの意見を述べたりしたのだ。
もしかしたら、正式な打ち合わせよりも源吾郎を取り囲み質問攻めしていた方が時間的には長かったのかもしれない。誠に皮肉な話であるが。
質問内容は概ね這い寄る混沌の事だった。そして源吾郎は、質問にある程度答える事が出来た。這い寄る混沌に身体を乗っ取られてはいたものの、島崎源吾郎自身の意識も覚醒していたからだ。
いずれにせよ、源吾郎は今回の打ち合わせにて疲労困憊となってしまった。午前中なのにこの体たらくとは情けない。だがそれも這い寄る混沌のせいなのだ。だけどどうやってあいつに落とし前を付ければ良いのだろうか。
取り留めもない事を考えながら、源吾郎は社用車の後部座席にぐったりと身を預けた。紅藤がさも当然のように助手席に腰を下ろしたのがありがたかった。今の源吾郎は、座席に座るというよりも、むしろ陸に打ち上げられた軟体動物のような有様だったのだから。
「島崎君。やっぱり疲れ切っているみたいだね。這い寄る混沌に身体を使われていたのだから、そりゃあ当然の事だよね」
運転席から声がかかり、源吾郎は居住まいを正す。ハンドルを握る萩尾丸から、だらしない格好をしている所をバックミラー越しに見られたようだ。四月の下旬に差し掛かったところで、車内もそれほど暑くはない。それでも源吾郎の頬は、早くも火照り始めていた。
研究センターに到着したら起こすから、車の中で寝ていても構わない。萩尾丸はそんな事まで言ってのけた。その話を聞いた源吾郎は、ますます姿勢を正して前のめりになった。萩尾丸がニヤニヤ笑いを浮かべていたのが気に入らなかった。
「大丈夫ですよ、萩尾丸先輩。別に俺は、這い寄る混沌に乗り移られた事で疲れたんじゃあありません。
ただ、峰白様や灰高さんたちに、あれこれ質問責めにされた方がしんどかっただけですよ」
「島崎君も大変な思いをしたでしょうけれど、それも致し方ない事だったのよ」
峰白たちの質問責めがしんどかった。今まで黙っていた紅藤が、ここで口を開いた。ある種の冷徹さと、源吾郎の身を案じる優しさと申し訳なさ。彼女の声には、相反するものが絶妙に共存していた。
「這い寄る混沌から八頭怪の情報を聞かされて、皆気が立っていたのよ。それに島崎君の許に這い寄る混沌が乗り移ったから、その後どんな感じなのかも気になっていた訳ですし。島崎君がそのまま戻ってこないのではないか、這い寄る混沌が乗り移った事で何がしかの悪影響がないか……懸念事項は色々とあるわ」
その懸念事項とやらは、果たして本当に源吾郎の身を案じたものなのか。どちらかと言えば、源吾郎を媒体として顕現した這い寄る混沌が、雉鶏精一派に危害を加えるであろう事だけを上層部は懸念しているのではないか。そんな考えが脳裏に浮かび、源吾郎は気が滅入ってしまった。それはもしかすると、文字通りバケモノを見るかのような眼差しを向けられた事を、思い出したからなのかもしれない。
「まぁしかし、思っていたよりも回復が早くて安心しているよ。今の君のやり取りも、普段の君のそれと変わらないみたいだからね」
またしても萩尾丸が告げ、忍び笑いが聞こえてきた。だが先程とは異なり、萩尾丸の声には源吾郎をからかうような気配は無かった。それどころかむしろ、源吾郎の身を案じる雰囲気さえあった。
「君ももう知ってると思うけれど、這い寄る混沌に乗り移られると、依り代になった人間の肉体は、不可逆的に変化してしまうそうなんだ」
「峰白様も、闇の魔神がどうって仰ってましたもんね」
闇の魔神の物語についても、源吾郎は一通り知っていた。幸運な事に、その話が収録された本が、近くの図書館にあったためだ。這い寄る混沌の一化身とも言える闇の魔神に乗り移られた青年は、確か黒々とした獣毛に覆われ、豚めいた顔つきの異形に変貌したとあった。
肉体そのものが変質するのは恐ろしい事だと、源吾郎は素直に思っていた。彼は変化術の名手であるが、それでも肉体そのものの変質には太刀打ちできないのだ。
「肉体の変質も恐ろしいが、それより僕が怖いのは、精神的な負担の方だよ」
と、思い出したように萩尾丸が告げる。
「這い寄る混沌であれ何であれ、何者かが乗り移って身体を操ったとなれば、依り代の脳や精神への負担も見過ごせないからね」
「はい。それはそうですよね」
頷きつつも、源吾郎の言葉は他人事めいた響きだった。自分の事では無く、自分以外の事例を頭に思い浮かべていたためだ。芦屋川何某と言う男の事だ。
この男には犬神が憑いていた。犬神が抜けて退治された後で、そいつに喰われていた心の均衡が崩れて、そのまま昏倒してしまったのだ。最悪廃人になる可能性もあると苅藻が言っていたが、芦屋川何某が結局どうなったのか、源吾郎は知らない。特に知りたいとも思っていない。
ああしかし。胸の悪くなる事件を思い返し、源吾郎は渋面を浮かべる。あの男は犬神に憑かれていたが、別に身体を乗っ取られたり操られたりしていた訳でもない。だから這い寄る混沌に身体を操られた自身の案件と重ねるのは、そもそもおかしな話だったのだ。その事に気付き、源吾郎は密かに歯噛みした。
萩尾丸の言葉が続き、源吾郎の鼓膜を震わせる。
「しかし島崎君は、目覚めた後も意識がしっかりしているみたいだね。いや、這い寄る混沌が君の口を通じて僕たちに語り掛けていた時も、君自身の意識はあったんだってね?」
「ええあります。ありましたとも」
萩尾丸に問われ、源吾郎は力強く応じた。這い寄る混沌に乗り移られて身体を操られている間、自分の意識はきちんとあった。それは頭目である胡琉安や、峰白たちに殊更強調して伝えた事だった。
「喋る内容とか身振り手振りとか、そんなのは全部這い寄る混沌に掌握されてはいました。ですが僕は、その間意識が無くて眠っている状態なんかじゃあなかったんです。表現は難しいですが、モニター越しに自分がやっている事を見聞きしているような感じですかね」
もしかしたら、解離性同一性障害の人も――俗にいう多重人格の人も、他の人格が動いている時はあんな感じなのかもしれない。そう思いはしたものの、源吾郎はそこまでは敢えて口にしなかった。この手の内容の話はセンシティブなものであるから、迂闊に話すべきではない。その事くらいは心得ていたのだ。
「短時間とはいえ、這い寄る混沌の依り代になりつつも、島崎君が無事でいられるのは、あなた自身の素質がある。私はそんな風に思ったの」
「ええ、ええ。それは僕も思いましたよ」
再び紅藤が口を開き、萩尾丸が彼女の意見に同調する。
源吾郎もまた、その通りだと頷いた。その目を喜色に輝かせながら。
「そうですね。這い寄る混沌も、僕の事は新たな司祭だって言ってましたからね。やっぱり玉藻御前の末裔だからでしょうね。這い寄る混沌と一番縁が深かったのは曾祖母ですし」
熱弁するも、紅藤と萩尾丸の反応は薄かった。玉藻御前が這い寄る混沌を取り込んだ事、それにより這い寄る混沌の権能と因縁を受け継いだ事を、二人とも知っているからなのかもしれない。
まぁこの辺りは紅藤様たちにしてみても、特段目新しい話でもないか。気を取り直した源吾郎は言葉を続ける。
「それに、他の話とかと違って、俺は玉藻御前の末裔ですよ。ああ、玉藻御前の末裔って事はさっきも言いましたけれど、今は意味が違います。ひ弱な人間とは違うって意味です。だからその……這い寄る混沌みたいなモノに乗り移られても、無事だったのかもしれません」
「その仮説は合っているんじゃあないかな。半分だけね」
大妖怪の血を引いているから、人間よりも頑健な存在である。源吾郎のこの仮説について、萩尾丸は半分だけ同意した。何故半分なのか。そう思っている間にも、ハンドルを握る萩尾丸の肩が小刻みに揺れる。何と彼は、事ここにきて笑っていたのだ。
「しかしね島崎君。這い寄る混沌の依り代になった君が無事だからと言って、すなわち優れた頑健な肉体の持ち主であると結論付けるのは短絡的だと思うなぁ。
そもそも這い寄る混沌は邪神に連なる存在なんだ。人間であれ大妖怪であれ、彼らにしてみれば誤差の範囲内なんじゃあないかな。だから君が無事だったのも、這い寄る混沌が手心を加えてくれた事も大きいだろうね。どうやら君も、あの彫像を賜ってからというもの、毎日供物を供えて礼拝しているそうじゃないか」
つらつらと語る萩尾丸に対し、源吾郎は何一つ反駁できなかった。こんな時でさえ、彼の舌鋒は鋭いのだと思っただけだった。
「島崎君。僕が口にした素質と言うのは、君の肉体の頑健さの事では無いんだ。むしろ
「せ、精神的な、部分ですって」
思いがけぬ言葉に、源吾郎は言葉を詰まらせた。何故か一瞬末の兄の姿が脳裏に浮かび、疑問符と共に掻き消える。
問いかけるまでもなく、萩尾丸はそのまま解説を行ってくれた。
「中学生、高校生だった頃の君は、演劇部に所属していたそうじゃないか。そこで演劇に血道を上げ研鑽していたからこそ、依り代として這い寄る混沌に乗り移られても、おのれの自我を護る事が出来たんだろうね。演劇を行う役者は、まさしくおのれと異なる者になりきり、演じているんだから」
「そ、そんな、馬鹿馬鹿しい事を仰るんですか!」
前のめりになった源吾郎は、おのれの顔面と肚に、熱い血が溜まっていくのを感じていた。演劇の心得があるから、外部の存在に乗り移られても、源吾郎は十分自我を護る事が出来た。荒唐無稽で非科学的な事を、まさか萩尾丸が堂々と言ってのけるとは!
それに、だ。萩尾丸の物言いも癪に障った。源吾郎は心底演劇が好きで、その道を究めんとしていた。萩尾丸がそう言っているように思えて、我慢ならなかったのだ。
外部からの評価や考えはさておき、源吾郎は別に演劇などを好んでいる訳ではない。ただ、自分は妖狐の血を引いており、その能力を伸ばすためには演劇部に入るのが最適だと判断したまでに過ぎない。源吾郎にとっての演劇は、所詮はおのれの能力を伸ばすための道具でしかない。
更に言えば、源吾郎は演劇に、いや芸術全般に血道を上げる行為や、血道を上げている存在を
だからこそ、源吾郎は演劇を好いているなどと言われる事は、実の所腹立たしい事でもあったのだ。もちろん、対外的には演劇に熱心な生徒として振舞っていたから、そうした本心は隠していた。
「馬鹿馬鹿しくなどはないさ。演劇こそが憑依される事に耐性をもたらし、依り代としての能力に一役を買っている。これは冗談でも何でもなくて、真面目に僕はそう思っているんだよ」
それなら論理だった説明をしてくださいよ。源吾郎が促すまでもなく、萩尾丸は解説に入っていた。
「演劇もまた、自分とは違うものになるという点では、憑依されるという事との共通点もあるんだよ。現に能楽では、面を被る時には能面を掛けるというんだ。これは能面そのものが
「言われてみれば……そうかもしれません」
源吾郎はそう言う他なかった。萩尾丸の言葉の圧に、ただただ圧倒されたからと言うだけではない。能楽の話も多少は知っていたからだ。演劇や芸術を嫌悪してはいるものの、知識として収集する事は惜しまなかった。自他ともに明らかな事であるが、源吾郎は凝り性な一面もあるのだ。親兄姉や親族らも、多かれ少なかれそのような部分はあるのだが。
納得してしまいしおらしくなった源吾郎に思う所があったのか、今度は静かに紅藤がおのれの意見を口にした。玉藻御前もとい金毛九尾が得意としていた借体形成についての、興味深い考察だった。
借体形成は、金毛九尾が相手の肉体に憑依して操る術ではない。金毛九尾自体が喰い殺し取り込んだ相手の魂の依り代となり、その魂の記憶や考えを継承していたのではないか。
それこそ荒唐無稽な考えだと思ってしまった。しかし、末裔たる源吾郎が這い寄る混沌に憑依されて依り代になった事を思うと、あながちその通りだったのかもしれないとも思えてしまうのだった。