さて十数分ほど水鳥たちを眺めていた源吾郎と米田さんであったが、そろそろ昼食を摂ろうという事になった。時刻は十一時半を回った所である。昼食を摂るにはやや早い時間ではあるものの、源吾郎も米田さんも異存はなかった。十二時過ぎに昼食を摂る時であっても、十一時ごろからお腹は空き始めているからだ。
「何か水鳥たちを眺めていたらお腹が空いてきたのよ」
米田さんはそう言うと、悪戯っぽく微笑んだ。彼女の笑顔は、これまでにも何度も見た事がある。しかし今回の笑顔は子供っぽい無邪気なもので、源吾郎はどぎまぎしてしまった。米田さんの笑顔は大人びたものだと思い込んでいたためだ。
米田さんは尚も言葉を続ける。
「お腹が空いてきたからなのか、気が付いたらカモメたちまで丸々として美味しそうだなって思い始めちゃってね。そんな事を思いながら見てたら、鳥たちに可哀想な気もしてきたの」
「あ、ああ、そうだったんですね。カモは鴨肉で有名ですし、鷺も江戸時代までは食べたって記録もありますもんね。ですが米田さん。カモメって美味しんでしょうか……?」
水鳥たちが美味しそうに見えてしまった。米田さんの言葉を受けて、源吾郎は素直に疑問を口にした。米田さんもまた、冗談などの類ではなく、本気で水鳥が――水鳥の肉が美味しそうだと思って発言していたからだ。水鳥が丸っこくてフワフワしているかな、などと言うフワフワした気持ちでの発言などでは、無い。
源吾郎はだから、真剣に水鳥の肉について思いを馳せていた。
鴨肉については、鶏肉ほどではないにしろ多少出回っている。かくいう源吾郎も、中学の初めにあった合宿にて鴨のローストか何かを口にした事があった。
次に鷺肉であるが、こちらは近年口にしたという話は聞かない。しかし江戸時代までは鶴と同じく公家や大名が口にしていたという話は何処かで聞いた事があった。
だがカモメの肉についてはどうか。人間が食べただとか肉が美味であるという話を源吾郎は知らない。強いて言うならば、北極圏近辺でアザラシの腹にカモメを詰めて発酵させた料理があるというくらいだろうか。そもそもカモメは肉食性の鳥だから、肉も美味しくないのかもしれない。
あるいは――カモメの肉がまずいと言うのは、人間の判断に過ぎず、妖狐や他の獣妖怪では異なっているのかもしれない。動物の味覚はそれぞれ種によって異なり、人間のそれとは大きく異なっている事は言うまでもない。猫が糖類の甘みを感じないというのは有名な話であろう。
そして味覚云々の話は、獣妖怪にも当てはまる。変化術を会得して人間の姿に擬態できるようになったとしても、彼らの本質は元になった獣なのだ。
「確かに、カモメや鷺の肉はそんなに美味しい物じゃあないかもしれないわ。どちらも肉食と言うか魚が主食だから、どうしても生臭くなっちゃうのよね。だけど、食べる物が美味しいかどうかとか、そんな事を考えている場合じゃない時も、生きていれば往々にしてあるのよ」
何処か遠くを眺めるような眼差しで語る米田さんの姿に、源吾郎は言葉が出てこなかった。
隣にいる彼女が、自分とは本質的に異なる存在である事を、まざまざと突き付けられたかのようだった。
源吾郎は、実家を出るまでの十八年間は人間として、それも半ば甘やかされて育ってきた。
一方、米田さんは純然たる野良妖怪である。しかもごく短い期間とはいえ、単なる獣だった時期すら彼女にはあるのだ。生き物の生き死ににシビアな事、食べる事を楽しみつつも重視している事も、身一つの野性時代を過ごしていたからなのだろう。米田さんは、それこそ野良犬に擬態して野良犬のように振舞った事すらあるという。
あらゆる意味でヒトの手で育てられた、ナレギツネたる源吾郎とは違うのだ。
「あら、ごめんなさい」
思案する源吾郎に対し、米田さんは軽く謝罪した。その際に僅かに首をかしげていたのだが、動きの優美さに、源吾郎はついつい見とれてしまった。
「やっぱり急にあんな事を言ったら驚くし、引いてしまうわよね? 私、どうしてもケダモノだった頃の名残が抜けないみたいなの。今だって……」
「引くだなんて、滅相も無いです!」
ケダモノ。淀みなく放たれた米田さんの言葉に驚きつつも、源吾郎は食い気味に否定の言葉を口にした。
本当の事を言えば、人の姿であれ狐の姿であれ、米田さんから獣性を感じた事は何度もあった。しかしそれは、蒙昧で愚かな畜生や唾棄すべき忌まわしいケダモノめいた獣性などでは決してない。
狼や虎に通じる獰猛さや気高さ、自然美や神々しさに繋がるような獣性を、源吾郎は彼女の中に見出していた。温室育ちのナレギツネたる源吾郎は、もちろんそんな獣性を持ち合わせてなどはいない。
「むしろ僕の方が、温室育ちのお坊ちゃまみたいな物なんです。と言っても、流石に切り身が泳いでいるなんて戯言を信じるほど世間知らずではありませんけどね」
取り留めもないジョークを口にし、源吾郎は笑った。照れ隠しの笑いだったのだが、それを見て米田さんも笑ってくれた。
「それは島崎君のご家族が、島崎君を大切に育ててくれた証拠なのよ。だから私も、島崎君が温室育ちとか世間知らずとか、そんな風には思わないわ。安心して」
のみならず、米田さんはそんな優しい言葉まで口にしてくれたのだ。
――いつの日か米田さんと一緒になる日が来たら、その時は彼女に辛い思いはさせたくはない。美味しい物を、俺が食べさせてあげるんだ
源吾郎は静かに頷いただけであった。しかし心の中では、米田さんを幸せにさせるのだと、今一度決意を固めてもいた。
一瞬の後には、自分がそうして決意を固めている事自体が、何とも滑稽に思えてしまった。と言うよりも、そもそも今日の源吾郎のテンションは自分でもおかしいと感じていた。米田さんと一緒にいて楽しいはずなのに、頭の中ではあれやこれやと考えを巡らせ、感傷的な気分になってしまっている。
元より源吾郎は多少メランコリックな気質はあるにはあるのだが、それにしても自分でも自分の考えがまとまらないなんて。
源吾郎はそこまで考え切ってから、おのれの裡で蠢く思考を打ち切った。米田さんの顔をじっと見つめてから口を開く。
「話は変わりますが、お昼ご飯楽しみですね」
考え込み過ぎていたからなのか、思っていた事が直截的に言葉として飛び出してしまった。米田さんに訝られないように、源吾郎は慌てて付け足す。
「いえその、天気も良いですしのどかで平和な感じなので……何処で食べましょうか」
「雨が降る感じでもないから、外の広場か藤棚の休憩所のどっちでもいいと思うわ。それこそ、ペンギンを見ながらお昼って言うのも良いかもしれないわね」
「流石に水鳥はさんざん見たので大丈夫ですよ……ともあれ、近くの休憩所に生きましょうか」
先程源吾郎はお昼が楽しみだと米田さんに言ったのだが、それにはきちんとした理由があった。これまでのデートと異なり、昼食をそれぞれお弁当として持ってきていたためだ。それまでは手ごろな喫茶店や食堂などで昼食を摂っていたのだが、それだと出費もかさむという事で、弁当持参の形と相成った訳だ。
と言っても、源吾郎が米田さんの分までお弁当を作った訳ではない。あくまでも、それぞれ自分で自分の分の弁当を作って持参しているという所である。
付き合っている者同士なのに、それぞれ自分の弁当を作って用意しているという事について、源吾郎は不満は無かった。付き合って数か月と日が浅いのだから、そう言う形に落ち着くのも自然な事だろうと思っていたのだ。
それに今回は、米田さんがどのような料理を持参しているのかも気になる所であった。確かに米田さんとは、過去にも何度か一緒に食事をした事がある。しかし今回は、彼女の食の好みを明確に知る事が出来るチャンスになるとも思っていたのだ。