源吾郎が壁と同化したような扉を開くと、店主の眞宮氏が奥に控えているのが見えた。それ以外にも、店員や客と思しき妖物《じんぶつ》の姿も見られた。人型にある程度変化してはいるが、今回も来ているのは妖怪だけであるらしい。
米田さんに目配せしつつ、源吾郎は眞宮氏の許へと向かった。無言だったが、頭の中では眞宮氏にどのように挨拶をしようかと言葉を考えていた。
「あ、誰かと思うたら三花ちゃん所の源吾郎君やないか。しばらくぶりやなぁ」
眞宮氏はすぐに、源吾郎たちの接近に気が付いた。源吾郎たちと自分の距離とがまだ数メートルある段階で、立ち上がって声を掛けてきたのだ。声のボリュームはそこそこある。他の妖怪たちも、驚くそぶりはないものの、源吾郎と眞宮氏とを交互に見やっていた。
先手を打たれた源吾郎はまごついた。しかし手を挙げて微笑み、たどたどしいながらも言葉を紡ぐ。
「お久しぶりです眞宮、店長。少し遅くなりましたが、近況報告がてらこちらにお邪魔しました」
「ええで、ええで。源吾郎君。そんなに畏まらんでええんやで。昔から、お客様は神様って言葉があるやろう。それに源吾郎君は三花ちゃんの息子やし、うちにとったら知り合い同然やもん。若い頃の幸四郎君にもそっくりやし」
「そこまで言って頂けると嬉しい限りです」
幸四郎君にそっくりと言う事は、父とも面識があるのだな。源吾郎は少しだけ驚いたが、それもそうかとすぐに思い直した。父は人間ではあるが妖怪の存在は知っている。話を聞く限りでは、母方の親族以外の妖怪たちとも接触したり交流したりした事もあるだろう。して思えば、母が父を伴ってこの店にやって来ていたとしてもおかしくはない。何より夫婦なのだし。
あれこれと思案している間に、眞宮氏の視線が源吾郎の横にスライドする。
「それにしても、今日は三花ちゃんたちやのうて女の子を連れて来とるねんなぁ。あらまぁ、えらい別嬪さんやないの」
朗らかかつ遠慮のない眞宮氏の言葉に、源吾郎は一瞬目が点になってしまった。年齢を重ねたご婦人らしい闊達な物言いは、若狐たる源吾郎には少し刺激が強い時もままあるのだ。端的に言えば、米田さんを若い子扱いしている事に驚いてしまったのだ。もちろん、米田さんは百歳ほどであり、妖怪的には若者である事は解っているのだが。
「初めまして。私は米田玲香と申します」
若い子とか別嬪さんと評された米田さんは、しかし落ち着いた調子で自己紹介を行っていた。珍しくロング丈のワンピース姿の彼女は、胸元に手を置いて話していると、本当に美人のお姉さんと言った雰囲気に見える。
もちろん、米田さんの魅力は美人と言うだけではないのだが。
「普段は大阪を中心として
清掃業。その言葉に眞宮氏の眼光が一瞬鋭くなったのを源吾郎は見た。陽気なおばちゃんから、年数と経験を重ねた老獪かつ戦闘慣れした妖怪としての眼差しを、米田さんに向けたのである。
米田さんもきっと、眞宮氏の眼差しには気付いているだろう。しかし彼女は柔和な表情を崩さぬままに言葉を続ける。
「ですが、知り合いの同業者には姫路近辺に住んでいる妖《ひと》もおりますので、眞宮様の所は紹介しておきますね」
流れるように、米田さんは自分が源吾郎だけではなく苅藻達とも交流がある事――厳密に言えば、苅藻達との交流の方が、源吾郎と付き合うよりもうんと前から行っているのだが――をも眞宮氏に伝えた。母の存在を知っている彼女の事であるから、源吾郎の叔父叔母についても眞宮氏はもちろん知っている。だから源吾郎が特に補足しなくとも、話はスムーズに通じていた。
「同業者の妖《ひと》にもうちの店を紹介してくれるとは、ほんまにありがとうな。やっぱり、大阪に住んではるって事やから、商売上手なんやねぇ。本職は
「いえいえ。私も修行中の身ですし、やはり持ちつ持たれつは大切ですから……」
化け狸と妖狐。二人の女妖怪が顔を合わせて笑い合う様を、源吾郎は静かに見守るだけだった。
眞宮氏は明るく闊達なご婦人として振舞っているが、実の所相当な手練れなのだ。いや、そんな事は母の知り合いであるという事から明らかではないか。源吾郎はそんな事を思っていた。
彼もまた、相手の妖怪の力量を、妖力の保有量と言う単純なものではなく実勢経験や胆力などを含めた力量を、ある程度は推し量れるようになっていたのだ。
なお、米田さんが口にした「清掃業」や眞宮氏の「害獣駆除」と言う言葉は、文字通りの意味などでは
※
「そう言えば源吾郎君に米田さん。阪神地区の一角で、邪神の遣いやら何やらがきな臭い動きをしとったけれど、あれもようよう落ち着いたみたいやね」
今回購入する小物を選んでいると、眞宮氏が思い出したように告げた。
手にしていたペンダントを買い物かごに入れてから、源吾郎は弾かれたように顔を上げる。返答とも頷きとも吐息ともつかぬ音が、口から漏れてしまった。
「三花ちゃんも、その事を心配して気を揉んどったようやけど……落ち着いたから肩の荷が下りた気持ちやろうね。源吾郎君だけやのうて、三花ちゃんの弟さんや妹さんも、そっちの方にいてはるから」
「ええ。はい。そうですね……」
ゆっくりとした口調で、眞宮氏の言葉に同意するのがやっとだった。
阪神地区の一角にてきな臭いうごきを取っていた邪神の遣い。それが八頭怪やイルマの事を示しているのは明白だ。
八頭怪たちとの闘いは既に終わった。憂いなく、無邪気にそういう事が出来れば、どんなに良かっただろうか。しかし実際には違う。違う事を、源吾郎は不幸にも知っている。おのれに這い寄る混沌が宿り、いつ何時乗っ取られるか解らないという事実と共に。
結局のところ、あの闘いは徹頭徹尾八頭怪の計略通りだったのだ。むしろ、雉鶏精一派やそれに加勢した妖怪たちの中から犠牲も出ているので、余計に性質が悪い。
「八頭怪、と呼ばれる鳥妖怪の一味との抗争ならば、先月の末に集結しました」
思案し懊悩する源吾郎の隣で米田さんが告げる。八頭怪の計略などつゆほども知らぬ彼女の言葉は、何の憂いもなく真っすぐなものだった。
「仕事柄、私も八頭怪の一味を討つべく力添えをいたしました。そうでなくとも、雉鶏精一派とは前々より関りがありましたからね。ですが、八頭怪の脅威を退ける事が出来たのは、他ならぬ雉鶏精一派の功績であると、私は思っております」
「そうかそうか。確かに米田さんの言う通りよなぁ。雉鶏精一派は大きな組織やし、強い妖怪もようけいてはるもん」
何の憂いも屈託もない米田さんの言葉に対し、眞宮氏も素直に頷いている。そんな二人の姿を、ただ源吾郎は眺めているだけだった。いくばくかの羨ましさと、後ろめたさを感じながら。
――八頭怪との闘いは、まだ終わっていない。這い寄る混沌が口にした、呪いじみた言葉が、源吾郎の頭の中で何度も反響している。
真実を二人にぶちまける事が出来れば、どれだけ気が楽になるだろう。源吾郎は切実に思った。しかしそれは叶わない事だ。八頭怪の計略の事は、雉鶏精一派において口外禁止の機密事項だった。何となれば、幹部とその側近しか知らぬトップシークレットでもあった。もしかしたら、その事を喋れないように源吾郎に何がしかの術が施されている可能性もあった。
出費はかさむけれど、心を落ち着かせる護符も買っておこう。眞宮さんなら、良い物を知っているだろうから。源吾郎は買い物かごにふと視線を落とした。ペンダントに彫り込まれた北斗七星の紋様が、光を反射してきらりと輝いたように見えたのだった。