夕方六時過ぎ。日中は源吾郎と共に白鷺城界隈の観光や散策を行っていた玲香たちは、電車に揺られて互いの帰路に向かっていた。上り電車は大阪や京都だけではなく、滋賀まで通っている。だから途中で乗り換える事無く、目的の駅がアナウンスされるのを待てば良かった。源吾郎は参之宮で、玲香は尼崎で下車する予定だ。
デートの際は、ざっくりとした計画しか立てていないのだが、夕方の四時から六時になると解散、と言うのが大まかな流れだった。状況によっては、夜になったら二人で何処かに泊まるという事もありうるのは、勿論玲香も知っている。そこで何をするかも込みで。
デートは朝から日中にかけて行い、夜になったら解散する。この一連の流れは、そうしようと提案したり、そうすべきだと決めたりしたという訳でも無い。強いて言うならば、暗黙の了解のような物が、二人の間にはあった。と言うよりも、源吾郎が「夜になったら家に帰るべき」と思っている節が滲んでいたのだが。
もっとも、源吾郎はまだ十九歳の若者であり、実家を出てから一年ほどしか経っていない。であれば、実家にいた頃の習慣やルールが未だに染みついていても何らおかしくはない。何度目かのデートの折にも、「夜に出歩く事は無かったし、仮にそうしていたら親兄姉に見つかって咎められていただろう」と言っていたのだから。
また、源吾郎が現在暮らしているのは、研究センターの居住区である。職場で管理している住居と言う点では、社員寮や社宅とほぼ同じであろう。それどころか、居住区には紅藤や青松丸も暮らしているという事であるから、上司の監視下である事は言うまでもない。居住区で暮らすうえで、紅藤たちから何がしかのルールや門限を設けられていたとしても、何もおかしな事は無い位だ。
いずれにせよ、夜になったらデートはお開きで解散するという現状に対して、玲香は特に不満は無かった。彼女自体、人肌が恋しいだとか、男に抱かれたり男を抱いたりしたいと切望している訳でも無い。源吾郎の方から何がしかのアクションを出した時に応じる位で良いか、と思っていた。
現時点では、源吾郎が玲香に対して色欲を見せる事は無い。彼にその手の欲求が皆無であるとは思えなかった。過去にハーレムを構築するなどと公言していた事を思えば、むしろその手の欲求は強い可能性とてある。
それでも源吾郎は、玲香に対して生々しい側面を見せることは無かった。猥談や下世話な話すらも口にしなかったし、その手の話が持ち上がりそうになるのを回避していた節もある。
女や色事には関心はあるものの、それをおくびに出さずに振舞う所に、そこはかとない彼らしさを玲香は感じていた。育ちの良さや、色事に対するある種のストイックさである。あるいは、源吾郎自身がまだ若いために、未知の経験に対して尻込みしているだけなのかもしれないが。
もっとも、玲香にしてみれば、源吾郎の若さやそれゆえの未熟さも愛おしかった。それはどちらかと言うと、愛する男と言うよりも弟分に対する感情に近かったが。いや違う。源吾郎は玲香にとって愛する男であり、そして弟分のようでもあった。玲香は確かに源吾郎を愛し始めていた。彼女なりの方法で。
「米田さん。本日もありがとうございました」
電車は赤石を過ぎ、港町や参之宮に向かっていた。そろそろ下車する時間が迫っているからだろう。源吾郎は玲香の方に向き直り、改めて礼を述べた。顔には笑みが浮かんでいたが、緊張したような気配も纏っている。
畏まらなくても良いのよ。玲香がそう言う前に、源吾郎は言葉を重ねる。緊張したような表情が強まり、今は申し訳なさそうな表情になってしまっている。そんな顔をしなくて良いのに。そんな顔をしないでほしい。心の中で思っていたのに、玲香は口に出せずにいた。
「そして申し訳ありません。今回のデートも、その、何というか、気の利いたものにならなくて……」
「良いのよ気にしなくて」
玲香の言葉は本心からの物だった。罰を受ける事を望んでいるかのような源吾郎の表情は、見ていていたたまれなかった。彼は何も、罰を受けるような事などやってはいない。本当の罪と罰を知っている身からすれば、明白な事だ。
「でもね島崎君」
とはいえ、源吾郎が何故思いつめてしまうのか、玲香は気になっていた。そもそも源吾郎が、こうしてデートの折に考え込んだり思いつめたりするのは、何も今回だけではない。程度の差はあれど、毎回何か思い悩んでいるようだった。
「何で気の利いたものじゃあないなんて思ったのか、それだけは教えてちょうだい? そこだけが、私は気になるの。島崎君はいつも、私に会う時は申し訳なさそうだったり、ひどく気を遣っているみたいだから……」
あまりにも踏み込んで質問してしまっただろうか。玲香の懸念とは裏腹に、源吾郎は何度か瞬きを繰り返すと、決心したように言葉を吐き出した。
「前半は白鷺城の観光を行いましたけれど……お昼以降は下町をぶらついただけになってしまいましたからね。しかも半分は、僕の用事に付き合わせる形になりましたし。いかにも野暮なデートだと、我ながら思いましたよ」
「野暮だろうと別に構わないわ。私は楽しかったんだから」
普段よりも強い口調で玲香は言った。源吾郎の身体が震え、一重の切れ長な瞳が大きく見開かれる。玲香には解っていた。源吾郎が怯えてしまった事、怯えたのは玲香が怒っていると解釈したためである事を。
源吾郎に対しては申し訳ないと思っていた。怒りで相手をコントロールする事が悪手である事も解っている。しかし玲香が、源吾郎の言葉に怒りを覚えてしまった事もまた、まごうなき事実である。
玲香はだから、意識的に表情を和らげて言葉を続けた。
「島崎君にしてみれば、今回のデートは野暮に見えたり物珍しくなかったりしたのかもしれないわ。もしかしたら……島崎君が思い描いているような、スマートでカッコいいデートとは違っていたのかもしれない。でも良いの。それが良いの。私はむしろ、ありのままの島崎君の姿が好きなんだから」
源吾郎の瞳に、怯えとは異なる光が灯る。それは歓喜であり興奮であり安堵でもあった。幾つもの感情が入り混じり、強い光として表出していたのだ。
「だからね島崎君。今よりもカッコよくなりたい、良い男になりたいって気持ちは、島崎君がそう思っているって事は解るわ。だけどあんまり無理をしないで。私の前では、気を張って取り繕う必要は無いのよ。今の島崎君の姿も、私にとっては魅力的なんだから」
今の源吾郎が魅力的な存在である。これもまた、玲香の本心からの言葉だった。但し、世間で思われている源吾郎の魅力とは異なっているし、無関係な部分もあるが。
玲香が源吾郎に惹かれたのは、何も玉藻御前の末裔であるという肩書ではない。
若妖怪で、しかも人間の血を引く半妖でありながら、抜きんでた才能を持ち合わせているからではない。
玲香が愛し、大切にしたいと思っているのは、源吾郎が未熟である種の危うさを持ち合わせているからだった。彼の言動には、放っておけない物があった。おのれが未熟であると知っていて、それ故に理想に向けて研鑽する姿が、好ましく感じられた。
だからこそ、せめて自分の前では気を張らないでほしい。玲香はそんな風に思っていたのだ。
「だから島崎君。私に会う時くらいは、あんまり難しい事は考えないで、何も気にせず楽しんでほしいの。普段の島崎君が、頑張って努力している事も、私は知っているから、ね」
そう言うと、玲香はそっと源吾郎の手を握った。またしても源吾郎の身体が震えた。手を引っ込めようともしていたが、結局は成すがままだった。観念したような、それでいて何処か嬉しそうな、複雑な表情を源吾郎は浮かべていた。
「多少私にワガママを言うくらいで丁度良いんじゃあないかしら」
「それじゃあ、俺は……」
目を白黒させながらも、源吾郎は言葉を紡ぐ。しかし最後まで聞く事は叶わなかった。参之宮に向かうというアナウンスが聞こえたからだ。玲香は握っていた手を放した。体温の低い――あくまでも妖狐の基準だが――ひんやりとした源吾郎の手の感触が、玲香の手の平に余韻として残っていた。
「す、すみません。参之宮なので、俺はここで降りますね。改めて、ありがとうございました!」
「こちらこそありがとうね島崎君。また今度ね。帰り道も気を付けてね」
「米田さんもお気をつけて!」
電車は参之宮に到着した。源吾郎は名残惜しそうな様子を見せつつ下車していた。荷物を提げて歩く中で、さりげなく手を撫でているのが、窓越しに見えていた。