クリーム色の毛並みを誇る兎たちは、自分を見て騒いでいた連中が、何事か啼き声を上げて立ち去っていったことに、きちんと気付いていた。
二本足で直立歩行し、失った毛皮の代わりに人工的な衣服を身に着けている愚鈍な生物が、地上では「ヒト」ないし「ニンゲン」と呼ばれている存在である事も含めて。
「……あいつら、我々の姿を見るや、驚いて逃げて行きましたね」
口許にべっとりとこびりついた血を拭いつつ、相棒はそんな事を言っていた。ホームグラウンドではないはずなのに、全くもって呑気な兎だ。そう思いながら、長い耳を立てて相手をたしなめる。
「そりゃあ驚くだろう。我々は兎に似た姿だし、この地に棲む兎は、鳥を襲って喰い殺す事なんて無いんだからさ」
「だけど我々は、地上の連中と違って草ばっかり食べている訳じゃあないですよ。
事もなげに言ってのける相棒を前に、思わずため息が漏れた。
確かに玉兎ないし月の兎は――自分たちは地上の兎とは食性や生態が異なっている。月面と地球上だから異なっていてもおかしくは無いのだろうが、顕著なのは食性であろう。地上の兎はほぼ草食性であるというが、玉兎は違う。無論地上の兎のように――比喩と言うよりも擬態する上での話だが――草や木の皮なども口にはする。しかしそれ以外の物、特に穀類や肉類の類とて食べる事が出来る。ありていに言えば雑食性なのだ。
また玉兎は、地上の兎に較べて好戦的な気質をも具えている。敵と認識したり、向こうが襲い掛かってきたりしたら、即座に返り討ちにする。大抵は後足で蹴り殺す事が多いが、杵を持っていたらそれで殴り斃す事とてある。
そうした性質も、玉兎の生息地である月面で培われたものだ。月面にいるのは玉兎だけではない。月の女神たる嫦娥や、彼女に仕える仙女たちも暮らしている。実のところ、玉兎は嫦娥や仙女たちの管理下、もとい庇護下にある種族でもあった。
しかし女神の庇護があるからと言って、玉兎たちは安楽に暮らせるとは言い難い。月面には嫦娥に従わない者、残忍な気質を持つ者がそこここにのさばっているからだ。玉兎たちも、そうした手合いにまざまざと狩りつくされないように、敵と認識したモノへの容赦のなさと、敵に勝るとも劣らぬ攻撃性を具えるように進化したのだ。
なお、嫦娥や仙女たちは怪物が玉兎たちを狙っている事を認識しているが、余程の事がない限り怪物と闘うことは無い。むしろ闘うのは玉兎の役目であると思っている節すらある。なればこそ、玉兎は逞しくならざるを得なかったのだ。
とはいえ、地上では月面と同じように大暴れしてはならないと思ってはいる。月面と同じような気持ちで振舞っていたら悪目立ちしてしまうのは、地上に堕ちた先達たちの悪評からも明らかだ。
勇猛な騎士の首を落とす首狩り兎に、一角を有す肉食兎のアルミラージ。月面から地上に降り立った玉兎の中でも、特に残忍な振る舞いを見せてしまった者こそが、首狩り兎やアルミラージの正体なのだ。
「それにさ、先に仕掛けてきたのはこのクソ鳥の方ですよ。私はただ返り討ちにしただけなんですからぁ、大目に見て欲しいっす」
言いながらも、相棒は仕留めた鳥の肉を喰い続けている。消化できない羽毛や小骨は即座に吐き散らし、細長い紐状の臓物をゆっくりゆっくり口に含んでいた。
「……まぁ確かに、この鳥は極めて好戦的だったな。私はその時少し離れた所にいたから、君が闘っている瞬間には立ち会えなかったが」
ヨタカと呼ばれるこの鳥が、何故相棒を襲ったのか。その瞬間を見ていない玉兎には解らぬ事であった。
「しかもこいつ、クソ忌々しい邪神や怪物を信仰しているクチなんすよ。だからぶっ殺して肉を喰らっても問題は無いんす」
「……そうか」
「くたばる前に、ハットウカイがどうだの道ヲ開ケル者がどうだのって言ってましたからね。ハットウカイはさておき、道ヲ開ケル者は聞き捨てならないやつっすよ」
言いながら、相棒は鼻を鳴らした。呑気で調子に乗りやすい彼だが、洞察力の高さもきちんと兼ね備えている。仲間としては頼もしいが、敵に回れば厄介な存在に成り果てる。中々に油断ならない兎であると、玉兎は思っていた。
「いや、厳密には信仰して
「ここにはいないという事は、ここから立ち去ったか、他の者にやられたという事なのか?」
「……やつの話からして、やられたという方が濃厚でしょうね」
そうか。玉兎は短く呟くと、目を閉じて思案し始めた。既にヨタカは相棒が喰い殺してしまっているから、情報を聞き出す事は叶わない。ヨタカが信仰していたモノが、どのような邪神ないし怪物だったのかは現時点では解らぬだろう。
しかし、だ。今自分たちがいる場所には、まだ邪神やその眷属がいた時の名残のような物が、しっかりと遺されていた。
玉兎も相棒も、生後五十年を過ぎた程度の若い個体ではある。しかし玉兎の血や遺伝子には、長らく闘ってきた記憶が宿っている。拷問と奴隷を愛好する月棲獣《ムーンビースト》や惑星を移動する猫どもと殺し合ってきたためであろう、玉兎たちは邪神やその眷属の気配には敏感だった。
「ただでさえ、邪神共は厄介だというのに、それを斃した者がいるとは……これは恐ろしい話だぞ」
月棲獣や惑星猫を屠るほどの戦闘能力を見せる事があると言えども、玉兎も抜きんでて強い訳ではない。せいぜいが妖怪の範疇に収まる程度の強さである。嫦娥や仙女の力添えが無ければ、邪神などと渡り合うのは難しい。ましてや、自分たちは玉兎としても若い個体なのだから尚更だ。
だからこそ彼らは、戦闘ではなく調査のために、地上に派遣されているのだ。血腥く下劣な月棲獣とは別のやり方で、玉兎は地上の者と交流し、交易を行う事すらある。
それに月に棲む化け物どもとの抗争以外にも、玉兎には気になる事があった。這い寄る混沌の新たな化身、あるいは若き司祭が誕生した。地上で偵察活動している際に、そんな噂を小耳に挟んだのだ。それがドリームランドでも目撃されたという証言もあり、単なるデマだと一蹴する事は出来なかった。
玉兎たちには、そいつを調査しろと言う命令は下されてはいない。しかし個兎的《こじんてき》には、そいつの動向は探っておいた方が良いとは思っている。
何しろ這い寄る混沌は、玉兎たちが関心を持つ邪神の一柱なのだ。玉兎たちが大々的に信仰しているという訳ではない。(中には信仰している玉兎もいるそうだが、それは少数派だ)不倶戴天の怨敵たる月棲獣が、這い寄る混沌を熱心に信仰しているためだ。
新たな化身ないし司祭は、既にドリームランドにて目撃されているという。であれば、玉兎たちの怨敵と接触し、味方になる可能性とて大いにあった。様子見などと言う悠長な事は行わず、危険分子を排除するという形で動くべきなのだろうか。
玉兎特有の見敵必殺の思考が脳裏を巡る。と、相棒が顔を上げる。鳥はもうあらかた食べ終わった所だった。前足の先にあるのは羽毛の塊と乳白色の小骨だけだ。
「ふと思ったんだけどさ、今の兎の姿で、こうやって鳥を襲うのがまずいのなら、我々も変化して過ごした方が良いんじゃないっすか?」
相棒の言葉と眼差しには、先程までの呑気さはなりを潜めていた。こちらに決断を求めるような物言いだった。
玉兎はしばし考え、それから首を振った。
「言いたい事は解るけれど、変化を使うのは余り賢明じゃあないな。故郷ならいざ知らず、重力も空気も違う所ならば無駄に体力を消耗するだけだ」
相棒は困ったように耳を垂らしていたが、思う所があったらしく頷いた。
地上に降り立った玉兎の多くは、兎本来の姿で行動する事が多い。月面以外の場所でも活動できると言えども、重力や空気が全く異なる場所では、普段以上に体力も妖力も消耗してしまう。その上妖力を消耗する変化術を行使していたら、有事の際に身を護る事も出来ないだろう。
逆に言えば、地上でも人型に変化できる玉兎は、強大な力を持つ個体ともいえるのだ。
いずれにせよ、二羽の玉兎は鳥の残骸をそのままに、雑草の奥へと跳ねていった。ニンゲンに見つかったのだから別の場所に潜伏した方が良いだろうか。上機嫌な様子の相棒を横目で見ながら、玉兎はやはり思案していた。