さて荷物を運んでいた源吾郎であったが、メメトの嗅ぎ慣れぬ臭いという発言と、かすかとはいえ饐えた臭いを嗅ぎ取った事もあり歩みを止めてしまった。
意識が、謎の臭いを放つ蔵と、荷物を置く目的地である母屋との二つに分かれてしまったのだ。猫でもそうした事が起きるというのは聞いた事があるが、狐でも起こりうるのだ。
「おやおや。どうしたんだい島崎君。荷物を持ったまま、ぼうっとしちゃっているみたいだけど」
傍らで呼びかけてきたのは、応援要員として駆り出されていた鴉天狗だった。
源吾郎は我に返って周囲を確認する。メメトは既に、源吾郎など気にせずすたすたと荷運びを続けている。
ぼんやりとして、サボっているように思われただろうか。気まずさを覚えた源吾郎は、ひとつ咳払いをすると言葉を紡いだ。
「あ、いえ。何やら嗅ぎ慣れない臭いを嗅ぎ取りましたので」
「嗅ぎ慣れない、臭いか。島崎君は狐だから、臭いを嗅ぎ取る事も出来るもんなぁ」
鴉ながらも、相手は源吾郎の言葉をオウム返しした。何処か茫洋とした物言いであるのは、やはり彼が鳥妖怪だからだろう。
鳥たちの多くは嗅覚が鈍いという。無論例外はあるが、鴉は特に嗅覚が鈍い種族であるらしい。鳥妖怪もまた、そうした特徴を受け継いでいるのだ。
鴉天狗はしかし、何かを思いついたのかニヤリと笑った。灰高が、紅藤たちに見せる笑みに似ている。それこそ、彼が灰高の子孫か縁者かと思ってしまうほどに。
「しかし島崎君。君にしてみれば、古びた蔵の中の臭い自体が、そもそも嗅ぎ慣れない臭いになるんじゃあないのかな?」
「……?」
「いやさ、君ってお坊ちゃま育ちでしょ。しかも白鷺城の城下町だから実家は街中にあるみたいだし。そんな所なら、気軽に蔵に入るって経験も無いだろうしさ」
彼が口にしているのは、単なる皮肉の類なのだ。鴉天狗の笑みが深まっている所で、源吾郎は唐突に悟った。灰高は未だに紅藤の事を敵視し、事あるごとに反目している。しかしまさか、そうした思いが配下にも継承されているとは。いや、社会性が高く、序列のはっきりとした、鴉らしい特徴であるともいえるのだろうか。
源吾郎は気を悪くした。だがここで目くじらを立ててもどうにもならぬと思い直した。メメトが臭い云々の話をしたのは冗談ではない。彼女の眼差しや、口調をその場で見聞きしているのだから断言できる。
「ですが、臭いに関しては気のせいや思い違いじゃあないと断言できます。何せ僕だけが感じ取った事じゃあないんですからね。それどころか、真っ先に臭いに気付いたのはメメトさんだったんです」
「ほう……」
鞍本氏が招いた管狐の名を聞くや、鴉天狗の片眉が上下に動いた。管狐に対する嫌悪感は、天狗ゆえの事なのだろうか。そんな事を思いつつも、源吾郎はしめたと思った。そのまま言葉を続ける。普段の癖が出て、少し上目遣い気味になってしまったが、今更そんな事は気にしない。
「確かに僕は、蔵とか古い倉庫の臭いとは馴染みが薄いかもしれません。ですが、メメトさんはそうとも言い切れないと僕は思うんです。何せ彼女は、便利屋として色々な所で働いてらっしゃる訳ですから」
「そうかそうか。君の言いたい事はよぉく解ったよ」
鴉天狗は目を閉じて、両腕を左右に広げながら告げた。彼の手の動きは、人間のボディランゲージよりも、むしろ鴉が羽ばたく様のように見えた。鴉天狗だから羽ばたく様そのものかもしれない。
「残念ながら、僕には臭いはよく解らない。だけど君がそう言っていた事は心に留めておくよ。本当の事を言っているだろうとね。取り敢えず、第七事業所の鳥にも言っておいた方が良いだろうね。今回のこの場での指揮官は彼女なんだし」
後は狗賓たちにも話してみたら? 鴉天狗の言葉に、源吾郎は素直に頷いた。鴉天狗に言われずとも、蔵掃除の指揮を執るハルピュイアには報告するつもりだったのだが、その事は敢えて口にはしなかった。
ともあれ素直に頷いた事に満足したらしい。鴉天狗は更に言葉を続けた。
「それに俺たちは、まだ何度か蔵と母屋を往復するだろう。その時に臭いの元を探ってみた方が良いんじゃないかな。だから今は、あれこれ考えずに荷物を運ぼうぜ」
「あ、はい」
鴉天狗に指摘され、源吾郎は慌てて歩を進めた。この時ばかりはメメトと嗅ぎ合った生臭い臭気の事を忘れ、ただただ両手に掛かる荷物の重さだけに意識が向いていた。焦っているからなのか、慌てているからなのか、荷物は先程よりも重たく感じられた。
※
「うひゃっ、ひぃっ!」
荷物を母屋の指定されたスペースに置き、とんぼ返りして蔵に戻る。そう言えばハルピュイアの部長や狗賓天狗の二人はまだ蔵の中にいる所だろうか。母屋にはいなかったし。そんな事を思っていた丁度その時、野太くも何処か間の抜けた悲鳴が、蔵の中で迸った。
「どうしたんです、一体何があったんですか?」
叫び声に驚いた源吾郎は、慌ててそちらに向かおうとした。向かう事が出来なかった。二、三歩も駆けださないうちに、源吾郎の身体はぐっと後ろに引き留められたからだ。
そうだ。源吾郎は狗賓天狗の青年に肩を掴まれていた。やはり相手は天狗、しかも狼から変じた狗賓天狗である。手を置いているだけにも拘わらず、源吾郎は前進できなかった。
「ちょっと……何をするんです伏原さん」
直後、橙色の光の下で、黒くて四角い塊が勢いよく倒れ込んだ。それと共に、鈍い音や金属が硬いものにぶつかるような鋭い音、果ては何かが割れるかのような音が鼓膜を震わせた。
「危なかったぞ。そのまま進んでいたら」
伏原はここで口を開いた。肩に添えられていた手は、いつの間にか離れていた。源吾郎は、伏原と倒れ込んだ荷物とを交互に眺めていた。倒れ込んだ荷物たちと、源吾郎が進もうとしていた軌道は綺麗に重なっていた。
源吾郎は振り返り、伏原を見つめた。彼に礼を述べようと思っていたのだが、思うように言葉が出てこなかった。しかも、だ。生臭い臭気がやにわに立ち上るのを感じてしまった。しかし臭気の発生源は、荷物たちが倒れ込んだ場所ではない。
「一体、何が……」
やっとの思いで、源吾郎が口に出来たのはそれだけだった。
まぁ落ち着け。伏原が源吾郎の背を叩く。それから屈みこみ、崩れた箱や書物などを拾い上げていった。それを見ているうちに、不思議と落ち着きを取り戻す事が出来た。
ひとまず源吾郎も、伏原に倣って箱を拾ったり抱えたりする事にした。瀬戸物やガラス類が割れているかもしれないから気を付けろと伏原は言った。源吾郎もまた、生臭い臭気が漂っている事、それをハルピュイアに報告するつもりだと告げた。
「いずれにせよ、曰く付きの蔵と言うのは本当の事だったようだな」
源吾郎の言葉を聞くや、伏原はぽつりと呟いた。眼差しは鋭く、やはり狼である事を嫌でも思い知らされる。いつかの昼に、源吾郎に気さくに語り掛けていた時と、まるきり雰囲気が異なっていた。
「と言っても島崎君。ここには君の言う臭気の主とやら以外にも、何やら潜んでいるみたいだぞ」
言いながら、彼は斜め前を指し示した。
「実を言えば、先程荷物が倒れ込んできただろう。それを行ったやつの影が、俺にはちらと見えたんだ。匂いの方は……ちと薄くて嗅ぎ取りにくかったんだけど。と言うよりも、他の臭いが混じり合ってるからな」
「……」
伏原の言葉を耳にした源吾郎は、静かに考えを巡らせていた。謎の臭気を伴ったモノと、先程箱や本を倒したモノとは別個の存在と言う事なのだろうか。
「と言うか、さっきの悲鳴ですけれど、あれ本当に大丈夫でしょうか? 僕たちも駆けつけた方が……」
「そちらの方は大丈夫ですよぅ」
やはり異形が出たとなれば、荷運び作業などは二の次だろう。箱を脇に置いて蔵の奥へ向かおうとした源吾郎であるが、そんな彼の許に、呑気な声と共に姿を現した者がいた。声の主はメメトだった。彼女は何故か、頬と言わず服と言わず煤めいた黒いホコリに塗れていた。淡く輝く金髪も、心なしかくすんで見える。
だがそんな事は、彼女の胸元を見れば些事のような物だった。縄、それも市販の縛妖索で拘束した小さな獣を、彼女は両腕で抱え込んでいたのだ。
もぞもぞと蠢く獣を見た源吾郎は、それが一瞬何であるか解らなかった。仔猫か仔犬ほどの大きさのそれは、犬とも猫とも狐とも狸ともつかぬ姿だった。耳は尖っているのだが頭の中央には角があり、頭部から首にかけて鬣が生えている。鬣もライオンが持つようなものではない。パンチパーマのようにきつく巻き上がっていた。
「おい放せ、下賤な女狐が! 我を拘束するとは罰当たりだぞ!」
当然獣はご立腹だった。縛妖索で拘束されれば逃れられないのだが、それでも声を上げて手足を振り回し、メメトの腕の中で抵抗を続けている。
「私が下賤である事も、いずれは罰を受ける事も、全て受け入れましょう。ですが、だからと言って訳もなく他人様のおいどに咬みついてはいけないと思いますよ――高貴なる狛犬殿」
狛犬。気負いなく放たれたメメトの言葉に、源吾郎は目を丸くした。言われてみると、その小さな獣は狛犬にも見えるではないか。もちろん、何故狛犬などがいるのかは解らないが。