はからずとも白龍と見つめ合う形になった源吾郎は、おのれの拍動が速まっているのを感じずにはいられなかった。俗にいう胸がドキドキするという状況だ。但し、恋心やときめきではなく、緊張や恐怖を胸に抱いているだけなのだが。
「くふふ……面白い、実に面白いぞ」
白龍がゆらりと頭を動かし、笑った。首からぶら下げた宝珠が、白龍の頭の動きに合わせて左右に揺れている。揺れる宝珠から放たれる妖気を、源吾郎ははっきりと感じていた。それは禍々しいはずなのに、何故か馴染みがあるように思えて仕方がなかった。そしてそう思った事に対して戸惑いもしていた。
何が面白いんだ。源吾郎が叫ぶ前に、白龍は言葉を続ける。
「大いなる神、混沌神の力を得たのはこの私だけかと思っていたが、よもやこの局面にて、
粘っこい哄笑と共に放たれた白龍の言葉に、源吾郎は絶句した。混沌神が何を示すのか、それは嫌と言うほど解っていた。ややあってから、源吾郎は納得する部分もあった。何故白龍がぶら下げた宝珠から、今や馴染みのある妖気を感じたのか。這い寄る混沌の力が宿った呪物であれば、致し方ない事ではないか、と。
いずれにせよ、源吾郎の心中は大いに乱れていた。自分が這い寄る混沌の加護を受けてしまった存在だと見抜かれた事のショックも大きい。だがそれ以上に、自分と同じく這い寄る混沌と縁のある存在に出会ってしまった事が衝撃的だった。
混沌神。その言葉に驚いているのは、何も源吾郎だけではない。
「混沌神だと? 蔵の中でずっとしょぼくれていたやつが何を言っているんだか」
「強いとは思っていたけれど、まさか神の力を借りていたなんて。だからあんなにも禍々しかったんだわ」
「皆様方。もしかしたら混沌神というものは……」
「はっはっは」
あれやこれやと口々に言い募る妖怪たちを尻目に、白龍が笑う。
「狐の若者よ。他の有象無象など棄ておいて、私と組まないか。同じ混沌神に仕え、その加護を受けている身ではないか。そうであれば――」
「黙れ!」
白龍の言葉を遮り、源吾郎は叫んだ。それだけではない。狐火を二つその場で練り上げ、白龍に向かって投げつけたのだ。
「交渉決裂か」
白龍めがけて放ったはずの狐火が、源吾郎の頬を掠めた。頬は火であぶられたように熱を帯び、背後では小さいものの爆ぜるような音が響いた。白龍が弾き返したのだと源吾郎は悟った。
「くそっ。島崎のやつ、頭に血が上って後先考えずに攻撃しやがったな。これだから気短なやつは駄目なんだ」
「ちょっと伏原君。今そんな事を言っても駄目でしょう?」
「これ以上巻き添えが増えないうちに、さっさと白龍を仕留めるんだ」
「……フン」
ざわめく妖怪たちを、白龍は鼻で笑う。それから彼は、源吾郎に向かって躍りかかってきた。
「私と組まぬというのなら、殺して肉を喰らい力を奪うまでだ! 覚悟しろ小童が!」
白龍の声は雷鳴のごとき大音声であり、それでいて湿地めいた粘り気をも具えていた。声にも気配にも凄味があったし、彼の身体からはより一層強い異臭が撒き散らされていた。
その様を眺めていた源吾郎は、白龍から距離を取りなどしなかった。むしろ躍りかかって来る白龍の前に、おのれの身を躍らせたほどである。
少し前に、ハルピュイアが白龍と共に取っ組み合いの戦闘を行っていた。今度は源吾郎がそれを行おうとしていたのだ。戦略も無ければ戦法もない。ただあるのは決意のみ。這い寄る混沌と縁のある者として、自分が立ち向かわねばならない。理屈ではなく、本能が源吾郎に訴えかけていたのだ。
「ぐぅっ!」
「ガアッ!」
白龍と正面から向き合いつつ取っ組み合う。きちんと白龍と取っ組み合いの形になった事に、源吾郎は内心驚きを感じてもいた。白龍がハルピュイアと相争っていた時は、彼の方が明らかに優勢であるように見えたからだ。
とはいえ、均衡が保てたのは数秒間だけに過ぎない。
白龍が一旦身を引いたかと思うと、退いた分以上に長く勢いよく前進したのだ。この動きに、源吾郎はもんどりを打って倒れてしまった。
倒れた源吾郎の視界が目まぐるしく回転する。源吾郎の体勢を崩しただけでは飽き足らず、白龍は畳みかけていたのだ。すなわち、源吾郎の身体におのれの細長い胴を巻き付け、動きを封じていたのである。丁度、蛇が小鳥やネズミを捕食するかのように。
咄嗟の事ゆえに、源吾郎の反応は遅れた。もっと言えば、実戦経験が少なすぎる事も大きいであろう。それでも源吾郎なりに抵抗はした。向こうが絡みつくならばと四尾を巻きつかせてみたり、自分の顔や首めがけて伸ばされた白龍の牙に、拳で応じたりしたのである。
「助太刀するぞ、島崎君!」
「私たちだって、ぼうっとしている場合じゃないわ」
視界の端で、灰色と褐色の塊が白龍めがけて躍りかかる。狗賓天狗の伏原と犬山だった。
源吾郎の身体を締め付けていた圧力が、にわかに緩む。疑問に思う間もなく、鈍く湿った打撃音が二度、源吾郎の周囲で響き渡った。一拍遅れて、怒った犬の吠え声と、甲高い悲鳴も。
白龍に躍りかかった狗賓天狗の二頭は、白龍の尾の一撃によって返り討ちに遭ったらしい。先程の打撃音と、犬の吠え声ないし悲鳴はそのために起こったものだった。
「有象無象はすっこんでろ! いや、まだ闘い足りぬだけかい?」
白龍の尾が再び翻る。今度は粘液を滴らせながら地面を叩いた。滴り落ちた体液と地面の土が混ざり合い、蛙や蛇、半魚人や蟹のようなモノが顕現していった。
「宝珠の力が強まっているんだわ!」
誰かが甲高い声で叫んだようだった。源吾郎はしかし、その叫びが誰のものなのか、何処から聞こえてきたものなのか、特に気にしなかった。源吾郎は、やられっぱなしでいるような手合いでは無い。
「よそ見してるんじゃあねぇよこのダボ! イトミミズ野郎!」
白龍の注意がおのれから逸れた瞬間を狙い、彼の頭めがけて頭突きを繰り出した。それだけではない。闇雲ではあるものの、腕を振り回して相手を殴ろうと奮起もしたのだ。
実際に拳が当たったのは一、二回ほどだ。腐ったこんにゃくに触れる様な、名状しがたい感触だった。龍だからある程度の硬さがあるだろうと思っていたから、これもまた意外だった。
それでも形成を変える事は出来た。不意打ちに白龍がたじろぎ、ついで源吾郎の動きに引きずられる形になったからだ。その巨躯とは裏腹に、白龍の体重は相当軽いようだ。そうなれば、自分の重みを活かして押し切る事が出来るかもしれない。
そう思った源吾郎は、白龍の胴を掴まんと腕を伸ばした。しかし向こうも身体をくねらせて抵抗し、のみならず爪を突き立ててきた。作業着の生地が裂け、皮膚にも鋭い痛みが走る。
結局のところ、両者は異臭と粘液と体液と泥にまみれてながら転げまわり、勢いよく庭の中ほどにあった池に仲良く転がり込んでしまった。
池は錦鯉や金魚が元気に過ごせるが、綺麗好きの若者が気持ちよく泳げるような水質ではない。魚と植物性プランクトンの臭いが入り混じった水を、源吾郎は勢いよく吐き出した。白龍の放つ悪臭よりもマシであるが、気分の良い飲み物とは言い難い。半ば溺れかけた所で勝手に口に入ってきたような物なのだから尚更だ。
「くふ、くふふっ。やはり水の中の方が私には都合がいい!」
水面下で錦鯉たちが逃げ惑う中で、白龍は笑っていた。白龍の周囲の水が、妙な塩梅に盛り上がっている。自分たちが水しぶきを上げているからではない。白龍が、何がしかの力でもって水を操っているのだとすぐに思った。ともすれば、水の中に触手めいた者すら見える気さえし始めた。
やはり龍は水の中でこそ強さを発揮する存在だ。成り行きとはいえ水の中に入り込んだのは悪手だったか。源吾郎はそう思いつつ、白龍を睨んだ。逃げ惑う魚たちが、源吾郎の足許を通り過ぎていく。
「島崎さん! これを……」
その時、何処か切羽詰まった声と共に何かが源吾郎の許に投げつけられた。声の主はメメトで、彼女がこちらに放り投げたのは羽箒のような物だった。
とはいえただの羽箒とは違うのは一目瞭然だ。と言うのも、山鳥の尾、それも斑紋が十三個以上ある尾のみを纏めて束ねてあったのだから。
丁度良い塩梅に羽箒は源吾郎の手に収まった。メメトは何をすべきかは言っていない。しかし何をすべきなのか源吾郎には解っていた。羽箒が、羽箒に使われた山鳥の尾が、それを伝えてくれていたのだから。