木製の羽箒の柄をしっかりと握りしめながら、源吾郎は白龍を睨みつけた。羽箒の、羽毛の部分で白龍を殴りつければ良い。そうすれば勝負が終わる――メメトから羽箒を渡された時に、源吾郎はその事を悟った。直感に近かった。あるいは、山鳥の尾が魔除けになりうる事を知っていたからそう思えたのかもしれないが。
「来いよ」
羽箒をかざして源吾郎は告げる。白龍はニヤニヤと笑いながら頭を揺らしているようだった。
もたげていた白龍の頭が、こちらに向かってきた。そう思っていた時には、既に源吾郎の身体は動いていた。源吾郎も羽箒をかざし、白龍の頭部を殴りつけたのだ。もっとも、相手は羽毛を束ねているに過ぎないから、拳や鈍器のような物理的な威力は伴っていないが。
だが、効果は絶大だった。
柔らかな羽箒の先が触れるや否や、白龍は殴られた野良犬のように身をすくめ、平衡感覚がおかしくなったかのようにふらつき始めたのだ。そして力なく倒れ込んだかと思うと、みるみるうちに全身が縮んでいった。
源吾郎は言葉もなく、白龍と羽箒を交互に眺めるだけだった。強大な力を誇っていたはずの白龍が、あっという間に倒れたことに驚いていた。しかし山鳥の尾を束ねた羽箒からは、ただならぬ気配が漂っており、その効力によるものなのかもしれないとも思っていた。
その間に白龍は縮み切っていき、最終的には龍の姿ですらなくなっていた。白龍がいた所には、擦り切れて所々汚れの残った手拭いが浮かんでいるだけだったのだ。白系統の色合いであるという事以外に、白龍と手ぬぐいには共通点は無い。
ただ、白龍が首からぶら下げていた宝珠は、白く薄汚れた手拭いの中ほどに絡まっていた。それこそが、手拭いが先程まで白龍として暴れ回っていた事の、かすかな証拠となっているように思えた。
呆然と手拭いと羽箒を眺めていた源吾郎だったが、ややあってから我に返った。まず彼は池から出た。落ち着いていれば足が付かずに溺れるという恐れはない。しかし水深は太ももの付け根ほどはあった。錦鯉を育てている池なのだから、それだけの深さがあってもおかしくなどないだろう。
宝珠もろとも白龍だった手拭いを回収したのは、池から上がった後の事だ。手拭いは水気を含んでおり布とは思えぬほどにずっしりと重たい。その上表面はぬるぬるしていた。お世辞にも気持ちいい感触とは言い難い代物だ。
「それにしても、手拭いが白龍なんかに化けていたとは」
「あの白龍は白うねりというモノだったんですよ」
呟きに律義に応じたのはメメトだった。フェレットめいた本来の姿ではなく、作業着を着込み黒い手袋を両腕に嵌めた、人間の女性の姿でもって源吾郎の傍らに佇んでいる。
メメトの背後は、と言うよりも庭全体はしんとして静まり返っていた。不自然だと感じるほどに。他の仲間が、敵と闘っている気配はもはやない。
源吾郎はだから、メメトに話しかける事が出来た。
「白うねり、ですか。聞いた事があるような、無いような名前ですね」
「白うねりとは九十九神の一種です。使い古された雑巾や手拭いなどの類が九十九神になる場合、ああして龍のような姿になるそうですよ。何故龍の姿なのか、私にも解りかねますが」
白うねり。雑巾や手拭いの九十九神。その姿は龍に似る。メメトの簡単な説明を聞いた源吾郎は、納得の声を上げていた。異臭を放っていたのも、粘液に塗れた異様な感触も、雑巾が変化したが故の特徴なのだと思ったためだ。
「雑巾の九十九神だったのか。道理で変な臭いをプンプンさせていると思ったぜ。その割には、龍なんて大層な姿だったよなぁ」
「強かったのは、あいつの言う通り宝珠の影響じゃあないかしら。今もまだ、宝珠の影響なのか妙な気配が残っているもの」
「それにしても、島崎君があいつを倒したのか……」
気が付いた時には、源吾郎とメメトの間に妖だかりが出来ていた。妖だかりの正体は、言うまでもなく狗賓天狗たちや鳥妖怪たちだった。ハルピュイアは、源吾郎とメメトを取り囲む輪の中にはいない。彼女は、輪から少し離れた所で全貌を俯瞰しているように見えた。
狗賓天狗たちに対して白龍が繰り出した異形たちは、姿どころか気配すら感じられなかった。源吾郎が白龍と闘っている間に、ハルピュイアたちが全て片付けたのだろう。あるいは、白龍が古びた手拭いに戻った時点で、消えてしまったのかもしれない。術者が斃れた時点で行使していた術が消失してしまうのは、何も珍しい現象では無いのだ。
「お、俺、いや僕にも、どうやってこの白龍をやっつけたのか、正直な所よく解らないのです」
状況を皆に説明しなければならない。その思いが源吾郎を突き動かした。もっとも、思いとは裏腹に実際に出てきた言葉は、何とも頼りないものだったのだが。
しかし幸いな事に、妖怪たちは源吾郎の言葉を糾弾しなかった。むしろ納得した雰囲気さえ漂っている。あいつならそう言いかねないという、諦念を含んだ納得ではあったけれど。
「島崎さんが白龍を倒せたのは、その羽箒の権能によるものなのです」
またしても、ここでメメトが口を開いた。
「こちらの羽箒は、見ての通りただの羽箒ではありません。わざわざ山鳥の尾羽を、それも斑紋が十三以上あるものばかりを集めて束ねているのですからね。この羽箒に秘められた権能こそが、白龍をただの手拭いに戻したのでしょう」
「それじゃあ、島崎君の働きと言うよりも、彼の持っている羽箒こそが重要だったという事になるのかい?」
何とも直截的な問いかけが、鳥妖怪の中から上がる。自分の力ではないと、源吾郎も薄々解っていた。それでも言葉として突きつけられると、何とも言い難い気持ちになるものだ。
メメトは曖昧な表情で、源吾郎と質問の主を見比べた。
「白龍をただの手拭いに戻せたのは、島崎さんと羽箒の力が互いに協力し合ったからできた事でございます。もちろん、羽箒の権能も重要ですが、その権能を増幅させ、十全に引き出したのは、島崎君の仕事なのですから」
メメトの言葉に、妖怪たちの視線が源吾郎に集中する。羽箒の権能を増幅させた。ぼんやりとした風貌の若狐が、そんな大それたことをしでかしたのか。彼らが心の中でそう言っているであろう事は想像がついた。
とはいえ、源吾郎も半ば本能的に動いていただけなので、羽箒の権能を増幅したという意識は無い。そもそも羽箒の権能が何なのかさえ解らない。
しかし無意識下で起きたという事は、それはそれで厄介な話ではないか。何せ源吾郎の背後には、這い寄る混沌が憑いている。少し前に源吾郎の肉体を乗っ取って顕現していたのだが、アレは源吾郎の意識しない所で動く可能性もあるのだ。
恐ろしい考えを脇に押しやりつつ、源吾郎は羽箒を指先で弄んだ。
「それにしても、羽箒の権能とは一体何でしょうか。やはり山鳥の尾を使っているから、退魔や魔除けの権能ですかね」
メメトは、源吾郎の問いに対して首を振った。
「いえ、その羽箒の本質的な権能は、退魔や魔除けではありません。時間を巻き戻し、あるいは自在に操る。これこそが、羽箒に宿った本質的な権能なのですよぅ」
時間を巻き戻す。時間を自在に操る。この言葉に、源吾郎は息を詰まらせた。絶句しているのは何も源吾郎だけではない。他の妖怪たちもまた、同じ事だった。
羽箒に宿った権能に、何故皆がここまで驚いているのか。時間を操作するという途方もない能力に、ただ驚いているだけではない。時間を操る能力と、怨敵だった八頭怪の姿が重なり合ったからだ。九頭雉鶏精の胡喜媚や八頭怪が、時間を操る権能を具えている。この事実は、雉鶏精一派の妖怪ならば誰もが知っている事だった。
「それにしても、時間を巻き戻す権能がある羽箒が、こんな人間の蔵にあるなんてね。私や双睛鳥様も予想だにしない事ですわ」
涼しげな、しかし警戒心を孕んだ声が近づいて来る。声の主はハルピュイアだった。遠巻きに様子を眺めていた彼女もまた、時間を操る権能を持った羽箒に興味を持ったようだ。特に彼女は双睛鳥の側近であるから、八頭怪の時間操作術をその目で目の当たりにしたのかもしれない。
「この羽箒は、我々雉鶏精一派でもらい受けて、管理せねばなりませんわね。双睛鳥様や、雉天狗様たちがこの場にいらっしゃったら、必ずそう仰ると思いますわ」
「え」
羽箒を雉鶏精一派の方で回収せねばならない。ハルピュイアの言葉に、源吾郎は動揺してしまった。羽箒は鞍本氏の蔵から出てきたのだから、彼女の物であろう、と。ふと見ると、メメトが手をこすり合わせながら言葉を紡いでいる。
「そうですか、そうですか。思えば雉鶏精一派も、時間操作術とは縁があるという噂ですものねぇ。そちらの方で気になる物品があるのならば、私もその羽箒が欲しいなどと申したりはしませんよぅ。そうでなくとも、私には巻き戻したい過去などはありませんからねぇ」
飄々とした、聞きようによっては媚を含んだような物言いだった。しかしそれは、メメトが落ち着きを取り戻した証左であるようにも何故か感じられた。
メメトは真面目な表情を作り、更に言葉を続ける。
「まぁ、元の持ち主である鞍本様には、曰く付きだとか一般人が持つには危険すぎるだとか言って、手放していただくように誘導いたしましょう。彼女も私どもに関する知識は具えておいでなのです。曰く付きである物品を、そのまま抱え込むような事はしないでしょうから」
「メメちゃんの言う通りですわ。ふふふっ、やはりあなたは頭が切れるわね。若いのにしっかりしていて凄いわ」
そこまで言うと、ハルピュイアはやにわに源吾郎の方に向き直った。さも当然のように、羽箒の方に手を伸ばしている。
「島崎君。そういう事だから、私たちの方でこの羽箒は回収したいの。手渡してくれるかしら」
ハルピュイアに言われた時、源吾郎の視線は彼女から逸れていた。源吾郎は、半壊した蔵や荒れた庭に視線を走らせていた。時間を巻き戻す権能を用いれば、蔵も庭も綺麗になるのではないか。そうするだけの力が、源吾郎にはあるのだから。
「少しだけ、待っていただけますか」
源吾郎はだから、手渡す代わりに告げた。俺はまだ羽箒を使って、なすべき事があるのだから、と。
だがメメトが首を振った。切なげな、そして何かに怯えたような表情を、彼女は源吾郎に向けていた。
「時間操作を多用してはなりませんよぅ。イヌが、恐ろしいイヌが島崎さんの存在に気付いてしまいますからね」
「メメトさん、僕はイヌなんぞは怖くありませんよ」
「それが鋭角から出現する犬だったとしても、ですか?」
鋭角から出現する犬。そう言われた源吾郎は、もはや黙って羽箒を手渡すほかなかった。鋭角の猟犬が恐ろしい存在である事は、源吾郎も聞き及んで知っていたためだ。