九月十日。双睛鳥の許での研修は十月中頃までとの事であったが、この日は一度研究センターに顔を出す日であると、前もって連絡があった。
急遽研究センターで勤務する日が出来たことについて、源吾郎は驚かなかった。双睛鳥の許で研修中と言えども、源吾郎の身柄は紅藤が預かっているのだ。研修を続けるか自分の許に呼び寄せるかなども、紅藤の考え一つで左右されるという事だろう。
それに実を言えば、紅藤に急遽呼び戻された理由についても、聞かされずとも何となく解っていた。やはり先週の白うねりの騒動が関与しているのであろう、と。
源吾郎はだから、特に狼狽えたり戸惑ったりすることなく、研究センターへと向かった。工場棟で働いている人妖たちが不思議そうな眼差しでこちらを見つめたり、久しぶりに袖を通した白衣に違和感を覚えたりしたが、そんなものは誤差の範囲内である。
「久しぶりね島崎君。双睛鳥君の許で研修中という事もあって、島崎君の姿はここ一か月ほど見る事が出来なかったけれど、元気そうで何よりだわ」
「いやいや紅藤様。研修中でも、僕は島崎君の姿は何度か見かけましたけどね。何せ彼は、研究センターの敷地に居を構えているんですから」
おっとりとした紅藤の言葉に、萩尾丸がそれとなくツッコミを入れる。眼前で展開されるやり取りは普段通りの物であり、源吾郎の心を和ませた。やり取りそのものは他愛のないものに過ぎず、話の本題に触れていないというのに。
源吾郎たちは現在、事務所ではなく小会議室にいた。話があるから会議室に来て欲しいと、紅藤から直々に言われたためである。毎週月曜日の朝に行う、全体ミーティングが終わった後の事だった。
呼び出されたのは源吾郎だったが、萩尾丸も当然のようにこの場に居合わせる。これもまた、普段通りである事を物語っていた。紅藤は部下たちの中でも萩尾丸の事を有能で信頼できる存在であると見做しているためだ。一方の萩尾丸も、側近として紅藤に意見を述べる事こそがおのれの仕事であり責務だと考えている節がある。
ともあれ源吾郎は、さほど緊張せずに紅藤たちと向き合っていた。すると、萩尾丸が意味深な笑みを浮かべながら口を開いた。
「さて、世間話はこれくらいにしておこうか。今日、僕たちが島崎君を呼び戻したのも、君に話したい事があるからなんだよね」
「それって、先週の白うねりの件ですよね」
「その通りよ」
半ば食い気味に放った源吾郎の言葉に、紅藤もやや食い気味に応じた。
少し驚いているようにも見える紅藤に対し、落ち着いた口調でもって萩尾丸が続ける。
「解っているなら話が早いよ。君たちが遭遇した白うねりの件は、僕たち八頭衆でも話題に上っていたからね」
「確かに、双睛鳥様も……」
双睛鳥も、白うねりの件で何かと気に病んでいた。源吾郎は途中まで言いかけたものの、そのまま言葉尻を濁らせるだけに留まった。その手の話は、本妖がいない所でするのは、野暮だし失礼だと思ったからだ。
源吾郎が何を言おうとしていたのか、萩尾丸も感じ取ったのだろう。ふわりとした笑みを浮かべると、彼は二、三度頷いて言葉を紡いだ。
「何、島崎君は双睛鳥君の事は気にしなくて良いんだ。いかんせん、生真面目で神経質な性質だから、何かあるとどうしても思いつめてしまう節があるからね。だがそれは、双睛鳥君自身の問題だし、そもそも彼も彼で、良い方向に物後を戸を進めようとしているから、島崎君は何も心配する必要はないんだよ」
「話が脱線しているわ、萩尾丸」
話が逸れた事よりも、むしろ双睛鳥の事など気にしなくて良い、という物言いが気になったのだろうか。紅藤はわざわざ咳払いまで行ってから、そんな事を告げた。萩尾丸を見やるその眼差しも、心持ち鋭かった。
「萩尾丸の話はさておき、私たちは白うねりという怪物の正体と、そいつをどうやって討伐したかについて先週議論したの。現場にいた妖たちから当時の状況を聞き出していると、どうにも看過できない話が出てきたから、ね」
「看過できない話というのは、白うねりの事ですよね」
紫の瞳を輝かせる紅藤に気圧されつつも、源吾郎は口を開いた。
「確かあいつは、這い寄る混沌の権能を受け継いでいたと豪語していたんです。もう既に打ち合わせなさっているとの事なので、その件はもうご存じかと思うのですが。ええ、白うねりは既にやっつけましたけれど、やはり看過できない話ですよね」
「それもあるよ」
源吾郎の、幾分ぼんやりとした問いかけに、萩尾丸は即答した。源吾郎を見据える表情がにわかに鋭くなった気がして、思わず身を縮めた。
「這い寄る混沌の権能を受け継いでいた輩の話は、僕たちの議論の中で、二番目の話題になっているかな。それよりも、もっと気になる案件があるからね」
島崎君。紅藤がここで源吾郎に呼びかけてきた。こちらを見つめるその顔には、緊張の色がありありと浮かんでいた。
「今回の件で、私たちが一番気にしているのは、白うねりそのものよりも彼を討伐するために使った魔道具の方なの。時間を操る権能を宿した羽箒だったかしら。確か島崎君が振るったのよね」
「ええ、その通りです。紅藤様が仰る通りです」
紅藤の言葉に、源吾郎は何度も頷いた。時間を操る権能を宿した羽箒。紅藤が、この部分を殊更強調していた事にも、源吾郎は気付いた。
だからこそ、源吾郎はただ頷くだけではなく、言葉を続けたのだ。
「紅藤様。もしかして、あの羽箒には胡喜媚様や八頭怪の羽根が使われていたのでしょうか」
「流石にそんな事はないわ」
時間を操る権能と言えば、胡喜媚や八頭怪が具えている能力である。だから彼らの羽根が使われているのかとついつい思ってしまった。紅藤は首を振り、即座に源吾郎の考えを否定したのだが。
「だけどあの羽箒には、胡張安様の羽が使われていたわ」
「胡張安様、ですって」
思いがけぬ妖物の名に、源吾郎はただただ目を丸くして呟くのがやっとだった。紅藤は萩尾丸と顔を見合わせ、それから頷いて言葉を続ける。
「ええ、あの羽箒の羽根は、胡張安様のものに違いないわ。私もちゃんと、妖気の質を確認しましたからね。島崎君も胡張安様の事はご存じでしょう。雉鶏精一派初代頭目だった胡喜媚様のご子息よ。だからあのお方にも、時間を巻き戻す権能があったの。母親や、叔父と同じようにね」
だからあの羽箒にも、時間を操る権能があったのか。無言のままに源吾郎は納得していた。脳裏では、白龍を気取った白うねりが暴れ回る姿が鮮明に浮かんでいる。
「その胡張安様の尾羽を使っていたからこそ、あの羽箒にも時間を操る権能があったんですね」
「島崎君の力に呼応して、能力が多少は増幅されていたというのもあるけれど、概ねそうなるかな。羽箒が作られてから、胡張安様の本体から離れてから、それほど歳月も経っていないからね」
萩尾丸は言うと、物憂げな眼差しを源吾郎に向けながら言葉を続けた。
「繰り返すけれど、僕たちはあくまでも胡張安様の羽箒を見つけて入手しただけであり、胡張安様そのものを目撃したり見つけ出したわけじゃあないんだ。それでも、胡張安様の存在や影響を重く受け止めて、八頭衆の皆は戸惑ったり議論を交わしたりして忙しくなってしまったという事さ」
さもありなん、と源吾郎は思っていた。二百年前の取り決めにより、雉鶏精一派と胡張安は互いに不干渉を貫くという事になってはいる。とはいえそれはビジネス上での話に過ぎず、雉鶏精一派サイドでは、彼の動向を気にしているであろう事は源吾郎も薄々感じていた。
「萩尾丸先輩。ちなみにその羽箒は最近作られたという話ですけれど、何カ月くらい前に作られたものなのでしょうか」
「そうね。ざっと二十五年から三十年ほど前かしら。簡易的な調査ですから、厳密な時間までは解らないけどね」
萩尾丸に対して向けた問いに対して、紅藤が返答する。
二十五年から三十年前ならば、最近とは言い難いのではないか。脳裏にそんなツッコミが浮かんだが、ふとある事に思い至ってその言葉を飲み込んだ。
源吾郎と話しているのは、数百年単位の歳月を生きてきた妖怪たちである。そんな存在にしてみれば、二、三十年などと言うのは最近の範疇になるのかもしれない。