何気ない体を装って街中の食堂に入った源吾郎だったが、それでも店員たちや客の注目を引いてしまった。店内にいるヒトたちの大半が、わざわざ首を巡らせて源吾郎の顔に視線を向けたのだから。大半というのがほぼ全員なのか、五割程度なのかは判らない。引き戸を開ける音が大きかったから注目したのではないかとすら思っていた。
「いらっしゃい兄ちゃん。よく見れば、あんた玉藻御前の末裔だね?」
店に入って一分と経たぬうちに、店主と思しき妖物に素性を聞かれてしまった。
源吾郎は一瞬面食らったが、結局のところ素直に頷いた。妖怪というものは、人間ほど個人情報の類を気にしない事を思い出したためだ。
「あ、はい。そうです店長」
応じる源吾郎の言葉はおずおずとしたものだった。店主に対してどのように呼びかければ良いのかと悩んでいたためだ。店内の、親しみやすい雰囲気を鑑みると、対象とかおやっさんと呼びかけても良かったのかもしれない。しかしあんまり馴れ馴れしい物言いも良くないだろうという考えに至り、店長と彼を呼んだのだ。
店主はなおも、源吾郎を見つめて言葉を続ける。
「ははは。驚いているみたいだけどさ、兄ちゃんはここいらでも有名だぜ? 何せ最近はおっかねぇ怪物を相手に闘ったんだろう。そうでなくとも、桐谷の兄妹は時たまうちにも立ち寄ってくれるしさ」
「そうですね、そうだったんですね」
自分の事を知っていたのは、叔父たちがこの店を利用していたからなのか。源吾郎はたどたどしいものの納得の念を口にしていた。源吾郎と異なり、苅藻といちかは阪神地区を拠点として活動している。港町の中にあるこの店に足を踏み入れる事があっても自然な事だと思っていたのだ。
店主とはふたことみこと言葉を交わし、それから空いている座席へと腰を下ろした。
「へぇ、玉藻御前の末裔かぁ。言われてみれば、顔立ちからしてそんな感じがするよな」
「どっちかと言うと父親似らしいって聞いたけど」
「九尾の狐だから縁起が良いじゃない」
「えー、でもあの子はまだ流石に九尾じゃあないでしょ」
客たちは相変わらず、同じテーブルを囲むツレと顔を突き合わせながら、源吾郎の事をあれやこれやと評していた。やはり普通の妖怪たちにしてみれば、玉藻御前の末裔は興味を引く存在になるのだろう。もしかしたら、大妖怪の子孫である源吾郎が、庶民的極まりないこの店に立ち寄った事に彼らは驚いているのかもしれない。
実際には、源吾郎は庶民の味を好んで口にする手合いである。その血筋とは無関係に、親兄姉と共に一般市民らしい暮らしを営んできたためだ。
ややあってから、店員がグラスを載せた盆を携えて源吾郎の許に歩み寄る。いまだに話し声の上がるテーブルを一瞥した後、彼は口を開いた。
「いやはや。うちはお上品な妖たちばかりが来るというわけでは無いのですが……それにしても騒々しいですよね。もしも気に障るのならば、僕らの方で黙らせておきましょうかね」
「いえ、いえ。滅相もないです」
源吾郎は面食らい、手の平を相手に見せながら首を振った。黙らせるという店員の言葉に、そこはかとない物騒さを感じてしまったのだ。件の申し出を、小声で告げられたから余計にそう思ったのかもしれなかった。
「べ、別に僕は大丈夫ですよ。他の妖にあれこれ噂されるのは慣れていますし。なんとなれば、噂されるのは良い事だとすら思っているんです」
そこまで言うと、源吾郎は笑みを作って何度も頷いた。店員は源吾郎の顔を見て微妙な表情を浮かべつつも、言葉を続けた。
「そうですか。君も若いのにしっかりしているねぇ。それでは改めてご注文を窺いましょう」
「唐揚げ定食でお願いします」
「折角なので、何か二品ほどサービスしましょうか?」
「いえいえ、お気持ちだけで大丈夫ですってば」
注文を聞くと、店員はグラスを源吾郎の許に置いて厨房へと引き戻った。空腹と、新しい店に入ったというワクワク感を胸に抱きながら、源吾郎は店内に視線をさっと巡らせる。相変わらず客たちは世間話や雑談に花を咲かせていた。源吾郎の事についてあれこれ言及する声は少なくなっていたけれど。
それでも源吾郎は、自分が注目される事を知っている若者らしく、他人の会話に耳を傾けてしまった。源吾郎が雉鶏精一派に所属している事、特に雉妖怪に仕えている事を知っている者の発言を耳にしたのだからなおさらだ。
その話者は、妖狐たる源吾郎が雉妖怪に仕えている事に驚いているらしかった。確かに食物連鎖的にはあまり起こりえない話ではある。しかも源吾郎は、今まさに鶏の唐揚げを頼んだばかりですらあった。
だがすぐに、そんな事は驚くに値しないと言及する声も、先の声のすぐ傍で上がったのだ。
「大陸では、虎の妖怪仙人の許に、鹿と羊の妖怪仙人が弟分として共に活動していた事例だってあるんですよ。それでも虎は鹿と羊を獲物とは見做さずに、自分たちの魔術を、いや仙術を極める仲間として大切にしていたと聞いた事があります。
ですから、我々の世界では元の鳥獣だった頃の食物連鎖はそれほど当てはまりはしないのでしょうね。強い相手に従うという、ごく自然なルールがあるだけなのです」
その発言は誰のものなのか、源吾郎には解らない。しかし彼は、確かにその通りだと深く感心していた。西遊記の中盤ほどに、虎と鹿と羊の妖怪仙人が登場することを、源吾郎は知っていたためである。
※
食事を済ませた源吾郎は、早々に店を出た。昼休憩は油断していたらあっという間に過ぎてしまう事を知っていたためだ。ましてや今は研究センターではなく双晴鳥の事業所で研修を行っている身だ。油断して昼の業務に遅刻してはならないと気を引き締めていたのだ。
源吾郎はだから、まっすぐ事業所に戻ろうと思っていた――歩き始めた当初は。
「……!」
四歩も歩かぬうちに、源吾郎は声なき声を上げつつ立ち止まった。尋常ならざる光景を見聞きしたからだ。
いや、尋常ならざる光景というのはいささか大げさな表現だったかもしれない。源吾郎がいた数メートル先の場所で、鴉どもが獲物を狩ろうとしていただけなのだから。それも彼らの標的は兎だったのだ。
騒ぎ立てる鴉たちの、黒々とした嘴や翼の間から、丸まって震える兎の姿が見え隠れしている。仔兎らしく小柄で、クリーム色の毛並みが何処か神秘的だった。
鴉を追い払って兎を助けるべきなのか。だがそれにしても、何故兎などがこんな所にいるのだろうか。源吾郎の脳裏には様々な考えが浮かんでは消えていき、結局行動に移す事が出来なかった。
「あっ」
そうこうしている間に、鴉の一羽が舞い上がった。その両脚には、憐れな仔兎が鷲掴みにされていた。
源吾郎は鴉に向かって手を伸ばしてはいたが、それでも何も出来なかった。こうなるともはや自然の摂理に過ぎず、放っておくほかないという考えが首をもたげたのだ。
ところが、である。ここで更に思いがけぬ事が起きた。仔兎を掴んで舞い上がっていたはずの鴉が、突然バランスを崩して地面へと落下したのだ。これには鴉自身も驚いたような啼き声を上げている。
鴉が急に落ちたのは、仔兎が重すぎたからという訳では無さそうだ。何故かはわからないが、一部始終を目の当たりにしていた源吾郎は静かにそんな事を思っていた。獲物が重かったのであれば、まず持ち上げる事すらできないだろう、と。
解放された兎が、地面に落ちた鴉の爪からそそくさと逃げ出している。仔兎は他の鴉に鷲掴みにされる事は無かった。三、四羽ほどいる鴉たちは皆、地面に落ちた鴉を取り囲んでいたからだ。
――これは一体何が起きているんだ?
鴉と兎を眺めながら源吾郎は首をひねった。何者かが源吾郎のすぐ傍に近づいている事に気付いたのは、丁度その時だった。
気配の主は、若い男の姿を取った獣妖怪だった。源吾郎よりも頭一つ分背が高く、パンチパーマに近い巻き毛と片手に携えた短い杖が特徴的だ。源吾郎は男よりも杖に注目していた。杖は長さにして三、四十センチほどの代物であり、今しがた折り取ったかのように青々としている。単なる草木の枝などではなく、何がしかの力が杖に宿っているかのように源吾郎には思えた。
「おや、君は……」
柔らかな声が聞こえ、源吾郎は視線を杖から男の顔へとスライドさせた。源吾郎が杖を見つめている間中、男は源吾郎に視線を向けていたらしい。目が合うと、彼は静かに微笑んだ。穏やかな笑みは、何故か牧場にいる羊を連想させた。
「さっきの食堂にいた狐の子だね」
「え、ああ。はい」
源吾郎がもごもごとした返事をしているうちに、男は自己紹介を続けた。彼は伯洋児《はくようじ》と名乗り、正体は羊の妖怪ないし魔族であるらしい。
羊の妖怪ないし魔族。それを耳にした源吾郎は、少しばかり緊張した。十二支に収まってはいるものの、日本では羊の異形は極端に少ない。だが大陸には羊の異形は幾種類か伝わっており、そのいずれもがとんでもない力を持つ者たちばかりなのだ。それこそ、虎の妖怪仙人と行動を共にしたという羊の妖怪仙人のように。
源吾郎ははじめ、伯洋児がそうした存在ではないかと思ったのだ。しかし陽気さと物憂げな気配を同時に漂わせる彼は、威圧的な雰囲気を具えているようには感じられなかった。
と、鴉のけたたましい羽ばたきがすぐ傍で聞こえた。羊妖怪はそちらに視線を向け、それから源吾郎を見やる。いつの間にか、彼の足元にはあの仔兎がすり寄っていた。
「この兎ちゃんは、野良の兎じゃあなくてちゃんとした飼い主がいるらしいからね。だから僕は、風狸杖《ふうりじょう》を使って不埒な鴉からこの仔を助けたんだ。風狸杖の事は知ってるかな?」
「ええ。確か飛ぶ鳥を落とす権能があるんですよね」
鴉が急に落下したのは、風狸杖の権能によるものだったのか。源吾郎が一人納得している間にも、鴉は仲間と共に飛び去っていた。彼らはもう、怪羊の傍らに侍る仔兎を襲う事は無かったのだった。