源吾郎が研究センターに戻って来た初日に、雪羽との戦闘訓練があった。
月曜日に戦闘訓練があるのは珍しい事だった。週の初めという事で打ち合わせが立て込んでいたり、萩尾丸などが外出する事が多いためだ。
しかしそう言った事情でも、敢えて戦闘訓練を行ったのは、源吾郎が研修を終えたからなのかもしれない。研究センターに戻って来た事を祝い、ついで身体の鈍り具合を確認すると言った理由があるのだろう。
やめ。戦闘訓練の終了を告げる号令が、萩尾丸の口から放たれた。鋭く素早く反応したのは雪羽の方だ。猛獣よろしく源吾郎に組み付いていた彼は、即座に動きを止めて居住まいを正した。訓練の最中に見せていた闘志すらもなりを潜めているのだから、その変わりようは見事という他なかった。
一方の源吾郎は、ひどくのろのろした動きで起き上がるのがやっとだった。興奮。緊張。焦りに後悔。戦闘訓練がもたらした強い感情たちが、未だに源吾郎の脳内に居座っていた。
「もしかしたら、身体も鈍っちまったかもな」
呟きが口から零れ落ちる。身体が鈍ったから、戦闘訓練で後れを取ってしまった。自身を正当化するような、みっともない言葉である事は百も承知だ。しかし先の言葉は事実だった。研修の最中は戦闘訓練を行わなかったのだから。それに源吾郎自身も、妖術の練習は欠かさないが、体術や武術の練習をおろそかにしてしまっていた部分はある。
「おいおい島崎先輩。若いのに鈍ったとかいうのはまずいっすよ」
雪羽が笑顔を浮かべながら、源吾郎の肩に手を置いた。先の呟きは、誰にも聞かれなければよかったのに。そう思いはしたものの、所詮は儚い願望に過ぎなかった。妖怪たちの聴覚は、人間や半妖よりも遥かに優れているのだ。
困ったような笑みを向けていると、雪羽が笑みを消し真顔になった。
「先輩。鈍ったとか何なのか解らないけれど、くれぐれも弱くならないでくれよな。俺はちゃんと、島崎先輩の強さを評価しているんだぜ? だから、弱くなって俺の前でみっともない姿を晒して欲しくないんだ。そんな事したら承知しないからな」
まぁまぁ落ち着いて。雪羽と源吾郎の間に割って入ったのは青松丸だった。人の好さそうなその顔には、戸惑い混じりの笑みが貼り付いている。
「雷園寺君。島崎君はね、先週まで双睛鳥君の所へ研修へ行っていたんだ。だから、普段やっている鍛錬が出来なかったとしても、仕方ない事だと僕たちは思うんだ」
穏やかに、しかし正論で諭され、雪羽は気まずそうな表情で黙り込んだ。やっぱり青松丸先輩は仲介役にうってつけだな。人心地ついた源吾郎は静かに思った。
「それに雷園寺君は、いつでも鍛錬を欠かさないからね」
雪羽の鍛錬について言及したのは萩尾丸だ。何故か知らないが、妙に淡々とした物言いだった。彼らしくないなと、源吾郎はすぐに思った。
実は出勤前や夕食後などの自由時間に、雪羽の妖術や闘い方の手ほどきを行っているのだと、萩尾丸はそのまま明かした。
「流石に、毎日必ず雷園寺君を稽古付けている訳じゃあないよ。僕もどうしても手が離せない時もあるし、雷園寺君も疲れ切ってそれどころじゃあない時もあるからね」
「そうですか。そうだったんですか……」
またしても、源吾郎の口から言葉がまろび出た。雪羽が萩尾丸にせっついて鍛錬している。この件については特に驚いてはいない。雪羽ならばやっていてもおかしくないと思ったためだ。負けず嫌いで強さを欲し、しかも闘う事に躊躇が無いのだから。
源吾郎はただ、自分の怠慢さを暗に責められたような気分に陥っていた。雷園寺君はほぼ毎日闘うための鍛錬を行っているのに、島崎君はそうでは無いんだね、と。
少し離れた所で、三國や双睛鳥、そして萩尾丸などが何やら話し込んでいるのが聞こえる。雪羽はやっぱり身体を動かすのが好きだからな。雷園寺君の闘いのセンスは、三國君から直々に受け継いだものだもんね……聞こえてくるのは、雪羽に関する話だった。
なお、今回の戦闘訓練では、双睛鳥と三國がしれっと見学者として居合わせている。元より紅藤たちと打ち合わせがあり、そのついでに戦闘訓練を見学したという流れであろうが。
萩尾丸は今回は自分の配下を連れてこなかったので、余計に三國たちの存在感が際立っていた。
雪羽が、再び源吾郎の肩に手を添えた。
「ふふふっ。島崎先輩もさ、俺と一緒に萩尾丸先輩の個人レッスンを受けたら良いんですよ。そうしたら、今以上に強くなれるんじゃないんですかね。先輩としても強くなったら嬉しいだろうし、俺だって嬉しいよ」
「個人レッスンって……習い事とかゴルフみたいな言い方やね」
乾いた笑みと共に告げたものの、それ以降は言葉が出てこなかった。雪羽が受けているという個人レッスンとやらを受けるべきなのか否か。その事で戸惑っていたのだ。受けたくないというか、受けても良いのかという気持ちの方が強かったが。
当の萩尾丸はと言うと、源吾郎たちに視線を向けながらあっけらかんと笑った。
「僕個人としては、島崎君にも個人レッスンとやらを行うのはやぶさかではないよ。だけど、そのためだけに島崎君が出向くのは大変だろうね。研究センターの居住区から、僕の家までは距離もあるし」
萩尾丸の言葉に、無言ながらも源吾郎は頷いてしまった。ここから萩尾丸の屋敷までは、車で四十分程度の距離である。仕事終わりなどに気軽に出向こうという距離ではない。ましてや、源吾郎は車を持っていないのだから尚更だ。
だからさ。萩尾丸は源吾郎たちから青松丸に視線をスライドさせた。
「島崎君。もしも術や闘いの鍛錬を行いたいというのなら、青松丸君を頼れば良いんじゃあないかな。青松丸君も居住区で暮らしているんだから、仕事終わりとかでもすぐに出向く事が出来るだろうし」
「……」
良い事を思いついたと言わんばかりに告げる萩尾丸の姿を、源吾郎はただただ眺めているだけだった。そう言う事は、青松丸先輩に一言断った方が良いのではなかろうか。萩尾丸先輩は青松丸先輩の兄貴分だから、ああいう物言いは大丈夫なのかもしれない。元より少し強引な所もあるし。
あれこれ考えていた源吾郎だったが、青松丸も朗らかな笑みを見せて頷いた。
「うん。僕も萩尾丸さんの言う通りだと思うな」
笑みを深めた青松丸は、源吾郎に親しげな眼差しを向けながら言葉を続ける。
「と言っても、僕は萩尾丸さんみたいに実際に闘うのは苦手なんだ。ただ妖術とかについては得意だから、そっち方面のレクチャーになっちゃうかな」
青松丸はここで一度口をつぐんだ。それから良い事を思いついたと言わんばかりの表情で言葉を続ける。
「あ、だけど島崎君。攻撃を受ける的としての役割なら出来るかな。僕って紅藤様の息子でしょう。だから再生能力には自信があるんだ」
「青松丸君。滅多な事を言うのはやめたまえ」
萩尾丸が険しい表情で言い放つ。少し気まずそうな眼差しを向ける青松丸に対し、何処か呆れた表情で言葉を続ける。
「確かに君は再生能力が高いけれど……島崎君への訓練で、それを活かすような内容を考えるのは不健全だと僕は思うんだ。仮にも君は島崎君の上司に当たるんだ。攻撃の的になるだなんて事をすれば、君の威厳が落ちる可能性とてあるだろうに。
そうでなくとも、島崎君はグロ耐性も低いんだからさ」
萩尾丸の指摘に、青松丸も気まずそうな表情を浮かべていた。青松丸としては、良かれと思って申し出てくれたのだろう。しかし萩尾丸の言う事も正しい。再生能力云々と言っている時点で、かなり過激な内容だろうと思っていたのだから。
「あ、青松丸先輩。僕、妖術とかの訓練だけでも大丈夫ですよ。むしろそっちの方が嬉しいかもしれないです」
源吾郎が告げると、青松丸はホッとしたような笑みを浮かべた。
「という事は、仕事終わりに僕の許で術の訓練をやりたいと思っているって解釈しても大丈夫かな。また後で、訓練が出来そうな日を教えるね。流石に今日は、色々と用事があるから無理だけど」
用事があるという部分で、やり取りを黙って聞いていた紅藤が頷いている。
かくて源吾郎は、青松丸の許で術の訓練を新たに行う事と相成った。
青松丸に、紅藤の息子に術を教えてもらう。その事を思うと、心が期待に打ち震えるのだった。