結局のところ、青松丸からの術の指南は毎週木曜日の七時半から行われる事と相成った。
当初は週二回ほど行わないかという話も持ち上がりはした。しかし青松丸も源吾郎も勤め妖《にん》の身分である。術の鍛錬を行うにあたり、本業がおろそかになっては本末転倒だ。
だからこそ、最初の何回かは週に一回だけ個人レッスンを開き、その頻度で行う事で支障が無いか否かを確認するという事に落ち着いたのだ。もちろん、青松丸や源吾郎の都合が最優先されるから、鍛錬が行えない日も今後は出てくる可能性もあるのだが。
「やぁ島崎君。仕事終わりでしんどくないかい」
出迎えた青松丸は、にこやかな笑みをたたえながら源吾郎に問いかける。穏やかにしかし細やかに相手を気遣う様は、いかにも彼らしい物だ。
「いえ大丈夫です。術の指南をしていただけるって言うお話なので、ワクワクしているくらいなんですから」
それなら良かった。青松丸は言いつつも、夕食は摂ったのかとかホップは大丈夫かなどと質問を重ねてきた。どちらも大丈夫だと源吾郎は答えた。夕食と言っても時間がある時に作り置きしているので、作ると言っても時間はさほどかからない。
ホップに関しても問題は無かった。最近は彼も融通が利く(?)ようになったらしく、放鳥タイムが普段と異なった時間であっても、嫌がったり憤慨したりする事もなくなったのだ。
「それにしても、ホップの事まで気にかけて下さっているんですね」
「そりゃあ気になるよ。ホップちゃんの事は島崎君に頼まれて何度か面倒を見ているし、やっぱり鳥妖怪だもん。いずれは僕ら雉鶏精一派に関わるようになるだろうしね」
軽いやり取りの後に、青松丸に案内されて部屋の奥へと進む。部屋は思いのほか広く、青松丸が進む道はやけに長く感じられた。もしかすると、紅藤か青松丸のどちらかが、術によって空間を広げているのかもしれない。
あれこれ思案しているうちに、奥まった所に通された。源吾郎にしてみれば、勿論初めて足を踏み入れる場所だった。
袋小路のような空間の、壁の三方に視線を走らせるや、源吾郎は思わずため息を漏らした。
橙色の柔らかな光に照らされたそこは、幻想的で神秘的な一角だった。妖怪仙人の住み家と言っても過言ではないほどに。
向かって正面の壁には、背の高い本棚が二つばかり据え付けられている。そこには古文書と思しき本たちがぎっしりと収められていた。のみならず、本棚の近くに置かれた籐の籠には、豆本や巻物の類も入れられてある。博物館のようにきちんと収められているのではなく、無造作に置かれている部分もまた、実際に使っているという雰囲気を醸し出していた。
左右の壁にも棚が配置されていたが、こちらは本棚ではない。
向かって右手は、小さな抽斗が格子状に配置された箪笥だった。所謂小箪笥と呼ばれるものなのだろう。何が入っているのかは解らない。但し取っ手の上には「甲子-ろ」「乙丑-ほ」などといった記号の記されたラベルが貼られてある。
何かは解らないが、何か重要な物が入っているのだと、源吾郎は思った。
反対側の左手には、大小さまざまな瓶が収納されていた。こちらも瓶の大小は特にこだわらずに並べられている。
瓶の中に詰められているのは、いわゆる標本の類だった。ホルマリンと思しき液体に漬かった動物の遺骸や臓物などは言うに及ばず、バーバリウムらしく仕立てあげられた植物標本、果ては結晶か鉱石か解りかねる物すら収納されていた。
こちらもまた、瓶の大小で分けられている訳でも無い。雑然とした統一性の無さこそが、これらの試料を紅藤や青松丸が日頃より使っているであろう事が伺えたのだ。
「さて」
青松丸が足を止めて振り返る。源吾郎はこの時大蛇の液浸標本に釘付けになっていた。視線に気づくと、気まずさと気恥ずかしさで顔が引きつってしまった。
「そろそろ術の説明を始めようか。島崎君は妖術の指南をして欲しいって話だったけれど、初回からガンガンやっていくのも何か違うなと思ってね。それに島崎君が、どういう術を覚えたいのか、それもきちんと把握しておかないといけないし」
思案顔の青松丸に言われ、源吾郎もまた思案顔となってしまった。元より雪羽の戦闘訓練にて優位に立ちたいからという事で術の指南を受ける事になっただけだ。それに源吾郎もある程度は術を心得ている。
現時点で得意な術を伸ばすべきなのか、苦手な術を克服すべきなのか、源吾郎には解らなかった。
ううむ。思わず源吾郎の口から唸り声が漏れる。青松丸は僅かに首を傾げ、源吾郎をじっと見つめていた。
「どういう術と言われましても、面と向かって考えてみると難しいんです。僕はただ、戦闘訓練で後れを取らないようにとだけ思っていましたので。よくよく考えたら、雷園寺のやつに焚きつけられただけかもしれませんね」
「ざっくりと言えば、闘いに使う事が出来る術を習得したいって事だね」
青松丸の言葉は、大雑把ながらも本質を捉えていた。大局的に考えれば、戦闘訓練で雪羽に対して白星を付けられるだけならば、あまり意味は無い。自分は――雪羽や萩尾丸の配下たちだけではなく、敵とも闘わねばならない事もある。その時に使える術が多い方が良い。頷いてから、源吾郎はそんな事を思っていた。
「まぁその……僕自身既に使える術は幾つかあるんですけどね。狐火とか結界術とか幻術とかは得意です」
「ひとまずは、島崎君が使える術についても見直した方が良いかな。今でも弱い妖怪たちを圧倒するほどの力はあるけれど、もっと妖力の消費面で効率の良い使い方があるからね。
そこから派生して、似たような術を覚えていくとレパートリーも増えるしね」
源吾郎は頷き、視線を落とした。自分が扱う術の多くが、我流である事は十二分に解っていた。源吾郎が妖怪としての自我と素養を持っていた事を知りつつも、母や母の親族たちは、源吾郎に術を殆ど教えなかったからだ。
従って、源吾郎が今狐火や結界術を使えるのは、戦闘訓練を始めてからと言う事になる。変化術は、学生時代から多少使えたけれど。
「そうですね。自分では得意だと思っている術でも、青松丸先輩たちから見れば不十分な所もあるでしょうし、その辺りを洗い直すのが良いかもしれませんよね」
ともあれどのような術を勉強していくかについての方針は定まった。話が一通り終わった所で、青松丸は安心したような表情を見せていた。術の類は様々な種類が存在するから、そのうちのどれを行うか、指針を定めるのは大切な事なのだ。
ひとまず初回という事もあり、今回は座学めいた事のみを行うだけだった。術の心得についての話を聞いたり、紅藤と青松丸が所蔵する書物の一部を見せて貰ったりしているうちに、夜の九時を迎えていた。源吾郎も興味津々で喰いついていたので、時間が経つのも忘れていた。
九時過ぎまで座学に熱中していた源吾郎が我に返ったのは、紅藤が声を掛けたからだった。無論驚いた。穴倉の様な書斎の中で、青松丸と二人きりだと思い込んでいたからだ。
「べ、紅藤様?」
「あ、母様。もう仕事は終わられたんですね」
ええそうよ。驚く源吾郎をよそに、紅藤は青松丸の問いに答えていた。彼女の笑みは気だるげで、八時間勤務と残業をこなしたがゆえの疲労感がのしかかっているのを感じた。よく見れば白衣姿ではなく、薄手のコートを羽織っている。
紅藤と青松丸のやり取りを眺めているうちに、源吾郎も落ち着いてきた。紅藤は仕事を終わらせて帰って来ただけなのだ、と。そもそもここは彼女の自宅ではないか。
「萩尾丸がね、あんまり上が残業し過ぎていても若い妖《こ》に良くないからって言われて帰ってきたのよ」
「萩尾丸さんはコンプライアンスとか気にされますもんね」
少しうんざりしたような紅藤の言葉に、青松丸がにこやかな調子で応じている。そうは言いつつも、萩尾丸だって今も仕事を行っているのではないか。源吾郎はそう思いはしたものの、敢えて口には出さなかった。
そう言えば青松丸。紅藤は青松丸に近付くと、近付いて手にしていた郵便物を差し出した。
「さっきポストを確認したら、手紙とかチラシとかが入っていたわ」
「ああ、ポストを見るのを忘れてました」
言いながら、青松丸は封筒やらチラシやらを紅藤から受け取っていた。
封筒などは個妖的《こじんてき》なものが多いだろうから、源吾郎も直視はしない。しかし視界の端に一枚のチラシが入り込んだ。極彩色のけばけばしい色使いの中に、ゲームセンターと言う文言が添えられていた事に源吾郎は気付いた。