伯洋児サイドの妖怪も雉鶏精一派サイドの妖怪たちも、しばしの間誰も何も言わなかった。
それも無理からぬ話だ。何しろ、羽箒の羽部分に触れた伯洋児が、瞬く間に灰に変化するのを目の当たりにしてしまったのだから。
「伝え忘れておりましたが」
物憂げな表情で告げたのは、胡琉安に化けた朱衿だった。伯洋児だったものに憐れむような眼差しを向けつつ、羽箒の先を撫でている。
「九頭雉鶏精こと胡喜媚やその眷属の羽毛には、時間を操り巻き戻す権能が宿っているのです。そしてこの権能は、羽毛が本体から離れていても生きています。伯洋児どのも、時間を操る権能にあてられて、巻き戻ってしまったのでしょう」
「そ、そんな事は見て解っとるわ!」
玄三羊の口から、憤りに塗れた叫びが迸る。額や首筋には青筋が浮かび、今にも血管が弾け飛びそうな気配すら見せていた。
「このクソガキが、よくも、よくも俺の伯洋児を……あいつは、羊力大仙の生まれ変わりでもあったんだぞ……!」
「玄三羊どの。私たちとて、好き好んで伯洋児を亡き者にしようと思った訳ではありませんわ」
濃密な殺気と怒気が玄三羊から放たれる。妖怪仙人であるという彼の肩書は見掛け倒しでは無かったのだ。そんな中で、峰白は平然とした物言いで返した。
明確な侮蔑と敵意の入り混じった眼差しを向けながら、彼女は尚も言葉を重ねる。
「ただ、伯洋児とかいうジンギスカンに成り損なった羊はね、私たち雉鶏精一派を強引に配下にしようとしていたのよ。私たちにとって公平な取引ならばいざ知らず、一方的な恫喝すら辞さないような態度だったと聞いているわ。
そんな野暮な振る舞いに対して、何故私たちが、大人しく頭を下げると思って? ましてや相手は、地べたを這いずり回るような畜生風情だというのに」
「峰白様……」
「いやまぁ、確かに峰白殿の言う事も一理ありますが……」
得意気に言い放った峰白の言葉に対して、八頭衆やその側近たちからも戸惑いの声が上がっていた。源吾郎ももちろん戸惑っていた。相手が恫喝してきたなどと言っているが、峰白自身もまた、お上品に取引を進めるタイプとは言い難い。
しかも相手が山羊である事を踏まえて畜生呼ばわりする始末だ。峰白は哺乳類を下賤な畜生と見做していると言えども、いくら何でも言い過ぎだ。源吾郎自身が妖狐(哺乳類・食肉目)であるから、余計にそう思ってしまうのだ。
言うまでもなく、玄三羊は怒り心頭と言った雰囲気でこちらを睨んでいる。
だがその程度の事で、峰白が、いや八頭衆の面々が怯んだり怖気付いたりする事は無い。おろおろしているのは源吾郎や他の若妖怪だけだった。ついでに言えば、胡琉安を演じる朱衿もまた、奇妙なほどに落ち着き払っているではないか。
峰白が何か言うよりも早く、胡琉安の影武者が口を開いた。
「私どもを屈服させたいのならば、直接立ち向かって頂いても構いませんよ? もっとも、私の手中には未だにこの羽箒がございます。とはいえ、あなた方も妖怪としてある程度年月を重ねているでしょうから、伯洋児どののように巻き戻りきって灰になる事は無いでしょうが」
どうされます? 言いながら、羽箒を玄三羊の鼻先に突きつける。玄三羊は忌々しそうな表情で羽箒を睨んでいた。貴様らには一歩も退かぬ。その気概が伝わって来た。
しかし、玄三羊の背後にいる妖怪たちは別だ。彼らには殺意どころか敵意や怒りの念すらない。ただただ怯え切り、それでも何を成すべきか解らないでいるようだ。仲間内で「どうするんだよ」「伯洋児様がやられたんじゃあ無理だよ」「つーか無理くり付き合っていただけなのに」などと言い合っているだけだ。
胡琉安の影武者に、他の雉鶏精一派の者たちに立ち向かってきそうな妖怪は、一匹たりともいなかった。
「お、俺は何も関係ねぇ! 伯洋児とかいうイカサマ羊になだめすかされただけだかんな!」
伯洋児の隣にいたはずの化けアナグマが、破れかぶれの叫びをあげた。そのまま彼は、もつれる足をどうにか動かして、広間から逃亡した。
化けアナグマが逃げ出したのは、誰の目にも明らかだった。しかし雉鶏精一派の面々は、特に何もしなかった。強いて言うならば、偏光眼鏡の曇りをハンカチで拭いながら、双睛鳥が「お帰りはあちらの出口になります」と言ったくらいだろうか。
化けアナグマの大胆な行為、そして
伯洋児の部下として出席していた有象無象どもは、流れるような動きでもって全て広間から逃げ出していった――化けアナグマの反対側にいた、利発そうな表情の猫又を除いて。
玄三羊は、伯洋児の仲間の裏切りを見ても、眉一つ動かさなかった。
「伯洋児が斃れた事はショックだが、あいつの部下が裏切ったからと言って、この俺がショックを受けるとでも思うなよ。所詮は寄せ集めの雑魚どもだ。俺にしてみれば、いてもいなくても問題の無いやつらに過ぎん」
冷徹な玄三羊の言葉に、源吾郎は何故か安心していた。互いに利用しあう、無機質で合理的な関係性がこの世にはある事を、源吾郎は徐々に理解しつつあった。それが良いとは微塵も思っていないけれど。
むしろ――声のトーンを落とし、玄三羊が猫又に視線を向ける。先程までの冷徹さとは打って変わり、戸惑った様子で猫又を見つめていた。
「虎鉄だったか。まさかお前がこの場に残るなんてな。俺や伯洋児に何度も意見して反発していたお前の事だから、他の連中と同じく逃げるかと思っていたよ」
「逃げるだなんて……そんな事をするつもりはありません」
源吾郎はここで、この場にいる猫又が、かつて双睛鳥と面談を行った時に、伯洋児が連れていた存在である事に気付いた。虎鉄は唇をかみしめ、伯洋児だったものを見つめながら言葉を紡ぐ。
「もちろん、玄三羊様や伯洋児さんには僕も色々言いましたよ。ですがそれは、組織やあなた方の事を思っていたからこそなのです。それに僕は、伯洋児さんの事は仲間だと思っていたので……」
「仲間だったら何だ? 伯洋児の仇討ちか、弔い合戦でも行うつもりかね」
冷ややかな口調で玄三羊が問う。虎鉄が何か言いかける前に、更に言葉を続けた。
「
「羊のおっさん、良い所もあるじゃあないか……」
三國が嘆息したような声を上げていたが、そんな事は勿論誰も気にしなかった。幹部たちと胡琉安の影武者は、玄三羊がどう出るかを見定めるべく、神経をとがらせていたのだから。
「玄三羊どの。片を付けるとの事ですが、たった一人で何をなさるおつもりですか」
質問を投げかけたのは灰高だった。柔和な表所を作り口調も丁寧な物だったが、天狗特有の尊大さがそこはかとなく漂っていた。
「あなたも羊力小仙どのの弟分と言う事で、力を持ち術を心得た妖怪仙人である事は私どもも解っております。ですが流石に、やり合うとなればあなたは不利な状況に置かれているのではありませんか」
灰高の言葉もまた、明確な挑発に過ぎなかった。今向き合っているのは玄三羊だけであるが、そもそもからして伯洋児たちと闘う事すら想定していたのだと、今更ながら気が付いた。
敢えて胡琉安の影武者を用意したのも――仮に後で謀殺するとしても――大切な頭目が巻き込まれて生命を落とすリスクを考慮したからなのかもしれないとすら思えてしまう。
「まぁ、本気の殺し合いなんかをしなくても良いんですけどね。あなたが敬愛している虎力大仙たちは、斬首や切腹みたいな術を会得していたって言うじゃない。玄三羊どのも我慢比べをやりたいというのなら、受けて立つのもやぶさかではないわ。煮えたぎる油の中に飛び込んだくらいじゃあ、私は死なないわよ?」
余裕綽綽と言った形で峰白が言い添える。虎力大仙たちが、斬首や切腹をしても死なず、煮えた油の中に飛び込んでも涼しい顔でいられたという逸話は源吾郎も知っていた。もっとも、彼らは不死ではなかったため、斉天大聖孫悟空とこの術比べを行った際に、三名ともことごとく生命を落としたのだが。
虎力大仙たちの事はさておき、峰白の発言に源吾郎は思わず渋い表情を浮かべた。玄三羊の返事次第では、我慢比べを行って、沸騰した油の中に飛び込みかねないと思ったためだ。大昔、漏れ出た重油にて羽が汚染された海鳥たちが連想された。
玄三羊は目をぎょろぎょろと動かし、それから鼻を鳴らした。
「虎力大仙様たちの我慢比べか。懐かしい話だな。まぁ、貴様らがやりたいというのならば、乗ってやるのもやぶさかではない。
しかしまぁ――貴様らの図々しさを、ここで再確認できるとはなぁ」
玄三羊はそう言うと、胡琉安を指し示しながら声高に吠えた。
「そもそも貴様らは、わが姉たる羊力小仙から禁術を会得し、その術によって自分たちの頭目を……九頭雉鶏精の子孫を
「雉鶏精の子孫を捏造……? それって一体……?」
三國の怪訝そうな声が広間に響いた。峰白は忌々しそうに舌打ちし、紅藤は戸惑ったように胡琉安の影武者や萩尾丸を見つめるだけだった。
玄三羊を追い詰めたと思っていたが、その判断は浅はかな早計に過ぎなかったのかもしれない。