僕はあなた方に殺される事などない。淡々と言い放った胡張安に、峰白は鋭い眼差しを向けていた。いや、八頭衆の面々が、胡張安の姿を凝視していると言った方が正しいだろうか。
源吾郎にはしかし、峰白が胡張安を即座に殺そうとしているようには見えなかった。そもそも殺すつもりならば、既に胡張安は骸になっているのではなかろうか。
「一つだけ教えて頂戴」
どれだけの時間が経っただろうか。峰白が胡張安を見据え、重々しい口調で問いかけた。
「胡張安。あんたには雉鶏精一派に舞い戻る気持ちはあるのかしら。雉鶏精一派に舞い戻って、初代頭目の息子としての地位と権限を、存分に振舞おうというつもりなのかしら」
問いかけは胡張安に対するものだった。しかし、声を上げたのは八頭衆とその重臣たちだった。例によって、近くに居合わせる者と顔を突き合わせ、ひそひそと話し合っている。
三國や重臣たちの中でも若い者などは、峰白が胡張安を幹部として採用するのではないか、その時は八頭衆はどうなるのだろうかと囁き合っていた。
その話を耳にした年嵩の妖怪たちは、そんな訳無かろうと笑い飛ばしている。ただでさえ、雉鶏精一派は組織改編を行ったばかりなのだ。急に現れた胡張安を幹部に据えれば混乱必至であろう、と。
中には、会話に加わらず無言を貫く者もいた。紅藤や灰高と言った上位幹部三名、そして萩尾丸やミツコなどと言った雉鶏精一派の中でも古参の面々である。彼らはただ、緊張した面持ちで胡張安と峰白を交互に見つめるだけだった。
そして胡張安は、困ったような笑みを浮かべて首を振った。
「いいえ。僕には雉鶏精一派に介入する意図は羽の先程もございません。そもそも僕たちは、互いに介入しないという協定を打ち立てておりましたもの。ええ、今回僕がそれを打ち破ったと咎め立てされても仕方ないですが。
それに――今更僕が雉鶏精一派に入ったとしても、峰白殿たちや弟、いえ息子をいたずらに困らせるだけでしょうし」
「そう。実に賢明な判断だわ」
胡張安の言葉に、峰白はまず簡潔な言葉でもって応じた。先程までの冷徹な気配が薄れ、顔には笑みさえ浮かんでいる。
峰白は笑顔のまま言葉を続けた。
「賢明な判断だけど、個妖的《こじんてき》には
「それは恐ろしいですね」
峰白の言葉に、胡張安は肩をすくめただけだった。おのれの返答一つで生命の危機が迫っているというのに、恐怖の念を抱いている気配は見受けられない。むしろ峰白の言葉に恐怖を覚え震え上がったのは、雉鶏精一派の若妖怪たちだ。その中には、勿論源吾郎や雪羽も含まれていた。
「ですが、僕も二つほど頂きたいものがあるんです。今回の給料と、この羽箒です」
「ああそうね。お金は渡さないといけないものね」
気のない様子で峰白は言うと、手招きして萩尾丸を呼び寄せた。隣に来た段階で何事か耳打ちしている。それが終わると、萩尾丸は澄ました表情で財布を取り出し、流れるような動作でもって抜き取った紙幣を胡張安に差し出した。
紙幣は明らかに一万円札だった。しかも、数枚などという枚数ではない事は、遠目からも明らかだった。札束と言っても遜色ないほどの厚みを具えていた。
現に受け取った胡張安自身も、目を丸くして札束と萩尾丸とを交互に見つめている。正体が明らかになってから、一番驚いた表情を見せているようにすら思えた。
「え、峰白殿に萩尾丸殿。僕は小一時間ほど影武者のバイトをしただけですよ。それなのに、こんなに頂いても……」
「それでも足りないって言うのなら、もう少し給料を弾んであげても良いのよ」
半ば遮るようにして放たれた峰白の言葉に、胡張安は口を閉ざした。
彼はそれから、何処からともなく封筒を取り出すと、萩尾丸から受け取った札束をその中に収めた。
「いえ、滅相もありません。僕も今やしがない野良妖怪の身分ですからね。仕事はあると言えども、やはりお金が無いと大変なんですよ」
「ああ全く、無欲なのか俗物なのか解りかねるわ」
落ち着きを取り戻した胡張安を見やり、峰白がため息をついた。胡張安は、声を上げずに微笑むだけだ。
周囲の空気がにわかに緩む。それを見計らっていたかのように、双睛鳥が胡張安たちの方に二歩ほど進み出た。
「胡張安様。そちらの羽箒はどうされるのですか。ご存じの通り、その羽箒には時間を巻き戻す権能がある訳ですが……」
「ああこれね」
気のない様子で胡張安が羽箒に視線を落とす。
次の瞬間、羽箒が何の脈絡もなく焔に包まれた。音もなく燃え上がる羽箒に、皆釘付けだった。妖術でこしらえた焔であるらしい事は、羽箒のみを舐めるように燃やし、それでいて他の場所に焔が移らない事からも明らかだ。
もっとも、焔からは白い煙とタンパク質の焼け焦げる独特の臭気が立ち上ってはいたのだが。
「こんなものは、あっても碌な事になりませんからね。早々に処分するのが一番だと、僕は思ったのです」
胡張安が言い放ったその時には、羽箒は既に燃え尽きていた。彼の足許には灰の塊が、燃え尽きた残滓として残っているだけだった。
その塊たちも、胡張安が一瞥し手を振り上げると、渦を巻いて何処へともなく消え去った。それこそ時間を操る権能を使ったのではないか、と源吾郎は思ってしまった。それを面と向かって問いただす事は無かったけれど。
「それでは、僕もこれで失礼します。皆様ごきげんよう」
そしてそのまま、胡張安は峰白たちに背を向け、立ち去った。術を使って姿を消すなどと言う派手な事は行っていない。彼はただ、自分の足で歩き、広間の出口を潜り抜けたのだ。
胡張安が広間から出ていくまでの間、誰も何も言わなかった。
※
「ああ、途中から何が起きたかよく解らん所もあったけれど、それにしても疲れたぜ」
胡張安が去った事で緩んだ空気の中で、三國が声を張り上げた。陽気さに満ち満ちた顔には疲れの色は薄い。それでも疲れている事をアピールしたいのか、あからさまにため息までついている。
「三國君。君は末席と言えども雉鶏精一派の幹部なんだよ。しかもこの場には、僕らだけではなく若い妖――君の息子である雷園寺君もだ――も居合わせているんだ。言動を慎みたまえ」
渋面を浮かべながら、萩尾丸は三國を嗜めていた。言葉は普段以上に刺々しく、表情もいつになく険しい。普段の萩尾丸ならば、皮肉っぽい笑みを浮かべていてもおかしくないはずだ。
ぼんやりと眺めているうちに、源吾郎は気が付いた。萩尾丸の顔が険しいのは、三國に対する怒りではなく、極度の緊張によるものなのだ、と。そして萩尾丸が緊張したのは、胡張安と相対したからなのだ。
「とはいえ萩尾丸さん。僕らが緊張するのも仕方ない事だと思うのです。あのお方は、胡張安様は胡喜媚様のご子息なのですから。ええ、ええ。僕も大分緊張しました」
三國を庇うためなのか、双睛鳥が萩尾丸に進言する。緊張したという彼の言葉が真実なのは、彼の周囲を見れば明らかだ。双睛鳥の足許には、蛍光マーカーを想起させる黄色い羽毛があちこちに落ちていたのだから。鳥妖怪や鳥魔族たちは、極度の緊張に晒されると、羽毛が抜け落ちてしまう。特に神経質だったり臆病だったりするとその傾向は強まるという。
よく見れば、羽毛を落としていたのは双睛鳥だけではない。彼の配下である若い鳥妖怪たちは言うに及ばず、灰高の縁者や峰白の足許にも、大なり小なり羽毛が落ちていた。化鳥の羽毛を採取しようとしていた伯洋児が見れば、狂喜乱舞するかもしれない。今となっては詮無い考えが、源吾郎の脳裏にぼんやりと浮かんだ。
その間にも、八頭衆や彼らの側近たちは顔を突き合わせ互いに言葉を交わし合っていた。話題に上るのはやはり胡張安の事である。厳密に言えば、彼がどれほどの強さを具えているのかについてだ。
「……正直な話、胡張安殿がどれほどの強さを具えておいでなのか、僕にもよく解らないんだ」
一連の会話の中で印象的だったのは、やはり萩尾丸の一言だった。難しい難問に直面したかのような表情を浮かべているのは、ひどく珍しい事だった。きっぱりと断言しない事も。
「胡張安殿を強いとは断言できませんが……実力を具えておいでである事は確実ですわ。そうでなければ、私たちの監視をかいくぐって自由気ままに暮らす事も出来ないでしょうから」
「あら紅藤。胡張安殿に対しては、中々甘い評価を下すじゃない」
「それも無理からぬ話でしょうな。何せ雉仙女殿にしてみれば、胡張安殿は伴侶とほぼ同じ存在なのでしょうから」
幹部陣はしばらく胡張安の事についてあれやこれやと語っていた。しかし胡張安について語るべき事が無くなると、思い出したように「今回この場で見聞きした出来事は他言無用である」とアナウンスしたのだ。うっかり吹聴すれば、悲惨な
胡琉安が人工的に作られた妖怪であるという秘密は、この広間にいる妖怪たちに知れ渡ってしまった。しかも幹部勢だけではなく、末端に近い若妖怪も見受けられる。彼らがうっかり口を滑らせないようにと釘を刺したのだろう。
もっとも、胡琉安の父である胡張安の登場が衝撃的すぎて、胡琉安の出自の秘密についてのインパクトは、大分薄れてしまったかもしれないけれど。