全くの無が広がる空間と言うのは、実の所殆ど存在しない。たとえそれが、定命の者たちが辿り着く事すら叶わぬ、いびつな次元の狭間だったとしても、だ。
神が全ての生き物を創り出したという伝承があるが、果たしてそれは本当なのだろうか。神などおらずとも、生き物はきっかけさえあれば発生するというのに。かつて読んだ書物を思い返しながら、イルマは思った。
今はもう、読書に耽溺する事も出来ない。彼がいる空間ないし次元には、本などと言う気の利いたものはない。ここに来る際に、持ってくる余裕すらなかった。
そもそもからして、この空間は仄暗く、時に玉虫色の影が揺らぐ程度だ。昼なのか夜なのかも解らないし、ここに来てからどれだけの時間が経ったのかすら解らない。そんな事はもはやどうでも良いのかもしれない。
ついでに言えば、書物が無くともイルマは特段困っていなかった。いずれ書物どころかどんなものにも不自由しない時が来ると、八頭怪に言い含められていたためだ。
それに何より、この場には書物などよりも面白いものがいくらでも転がっている。暇つぶしには事欠かなかった。
「……、※※――!」
イルマの二つある瞳が、正面から逸れる。名状しがたき啼き声が、彼の耳に届いたのだ。案の定、そこには声の主がいた。触手と呼ばれる器官と、かつて見かけた昆虫や獣を混ぜ合わせたかのような姿の異形がのたうっている。大きさは犬の仔ほどであろうか。
それは、イルマの弟妹か異父弟妹に当たるそいつもまた、イルマの存在に気付いたらしい。一層甲高い声を上げて、こちらに近付いてきた。触手の先端が花開くように裂けて、乱杭歯が露わになる。敵意ないし捕食の意思を示しているのは明らかだ。
「ギッ――」
イルマと小さな触手の異形。両者の闘いは一瞬で終わった。イルマが、具えていた触手で相手を刺し貫けば全てが終わったのだから。異形はしばらく啼いていた。悲鳴を上げ、泣いていたのかもしれない。そこはかとない悲哀を感じはした。そのまま捕食した事には変わりはないが。
「おやおやぁ」
再び耳元で声が聞こえた。先程の触手が放った、名状しがたい声とは異なっている。聞き慣れた声であるし、何より禍々しくも理性と知性を具えた声音だったのだ。
今回の声の主が誰なのか、振り返って顔を見ずとも明らかだ。八頭怪だ。イルマの師であり忠実な従者であり、そしてイルマの父たる道ヲ開ケル者の眷属である男だ。
今やこの空間のあるじともいえる彼は、イルマに近寄るや満面の笑みを浮かべていた。
「ねぇねぇイルマ君。キミがいま捕食した触手ちゃんがいるでしょ。アレはね、あの仔はキミの弟だったんだよ?」
「そうか、弟だったのか」
目を細め、八頭怪の言葉を反芻する。弟であると八頭怪が言うのならば、その通りなのだろう。イルマは何の疑いもなくそう思った。八頭怪の言う事は正しいし、彼の八つある頭――そのうちの七つは冗談めかしたアクセサリーのように縮めているが――には、この世の真理に辿り着く知識が凝集されている。イルマはそう信じて疑わなかった。
八頭怪もまた、目を細めてイルマの様子を観察していた。
しかし何か思う所があったのだろう。にたりと笑みを深め、言葉を紡いだ。
「弟って言うのはね、母親が同じって事さ! つ、ま、り、キミの母親が産み落とした卵から孵ったという事でもあるんだよ」
「母親、か……」
イルマはぼんやりと、八頭怪の言葉をオウム返しした。と言ってもイルマはオウムではない。むしろ山鳥に近い存在である。母親が山鳥だったからだ。
そしてその母親は、何やら触手に絡みつかれている最中だった。苦しげでもあり、恨めしそうでもある。彼女の足許には、既に卵が二つ三つ落ちていた。玉虫色の色彩を放つ卵もあれば、この空間と同じく黒々とした卵もある。後に彼女自身が暖めて孵すか、八頭怪が手ずから孵すかのどちらかであろう。
もっとも、孵化した仔の大半は、先程の「弟」のようにイルマの餌になる運命をたどるのだが。優秀そうな個体は、手駒として使うのだと八頭怪は言っていた気がする。
イルマの視線は「母親」に向けられていた。ここに来てからずっと、彼女は交接と産卵を続けている。この場にいる異形のモノ、道ヲ開ケル者の眷属か子孫と思しきモノとだ。この次元に封じられる前に、八頭怪がどさくさに紛れて呼び込んでいた。
「母親」が、山鳥女郎が異形の仔を生み続けているのは、それが彼女の新たな任務であり、罰でもあった。元々彼女は八頭怪に従わず、独断専横で動いていた。そんな事を起こさないようにと、八頭怪は新たな任務を科したらしい。全くもって山鳥女郎は愚かしいし、八頭怪のやっている事は正しいと、イルマは思っている。
山鳥女郎は元気そうだった。怒りと憎悪に満ち満ちた表情は、彼女の心が折れていない事を如実に示している。それどころか、以前よりも八頭怪への反抗心を燃やしているようにすら思えた。それがいつまでもつのかは解らないと、八頭怪は言っていたけれど。
「ねぇイルマ君。キミは確かにあのメンドリの息子だけどさ、あいつの事はどう思うのかな? あとあのメンドリの娘でキミの姉に当たるメス山鳥についても教えて貰えれば嬉しいな」
問いかけられ、イルマは再び八頭怪に視線を向けた。山鳥女郎の罵声と苦痛の声は、顔をそむけても聞こえてきた。心はもはや痛まないが。
「どう思うと言っても、メンドリは所詮メンドリじゃあないですかぁ。まぁ確かに、母親として、俺を産み落としてくれたんでしょうけれど」
「ふふふ、そうこなくっちゃあ」
腹は借り物と言う言葉もあるしなぁ。イルマの考えが解ったのか、八頭怪も満面の笑みを浮かべていた。
かつてとは異なり、イルマの今の世話係は八頭怪である。元の世界にいた時に較べて、大きく変化した事をイルマ自身も感じていた。強さを得て冷徹さを得たのだから。それと共に、不必要だと八頭怪が言ったもの――身内や仲間への情――は捨て去った。そんなものがあったら、身動きが付かないと八頭怪に教えられたからだ。
そうして次元の狭間に潜み、名状しがたきビオトープの中で君臨しながら、イルマは八頭怪と共に待っていた。いずれ元の世界に戻り、邪魔な連中を一掃する時を。
八頭怪にイルマ、生きとったんかワレェ!