新人として入店した古月蓉子の源氏名はミクになった。
実を言えば、源氏名が決まるまでには、多少の一悶着があったのだ。蓉子は当初、源氏名としてタマモを使いたいと申し出たのだ。悟と瑠月は古臭いからと言って却下した。それならばミクズはどうかと言いだしたのだが、それもやはり却下した。
そして三度目に蓉子が申し出た名前がミクだったのだ。ミクズから最後の一文字を抜いてミクにしたであろう事は解っていた。しかしタマモやミクズに較べれば、ミクと言うのは源氏名としては自然な名前ではなかろうか。
ともあれ悟は安堵のため息をついていた。蓉子の源氏名が決まった事で少しほっとしたのだ。見れば他の女の子たちに囲まれながら、彼女らと会話に花を咲かせているようだし。女の子同士ですぐに馴染めるか否かも、ガールズバーのスタッフとしての素質の一つになるのだ。
「ミクって名前、可愛いよね」
「ほんとほんと。何かアニメのキャラみたいだし」
「あはは、私はミクって聞いてパチ屋を連想しちゃったかも」
「ちょっとー、それはいくら何でも言い過ぎじゃん」
ノリが良くテンションの高い女の子たちは、黄色い声を上げて早速はしゃいでいる。そこまではしゃぐほどの事だろうか。そんな事を思ってしまった悟だが、女の子たちがわいわいはしゃいでいる姿を見るのは悪くない。
と、ふいに女の子たちの歓声が止んだ。瑠月が思案顔を浮かべ、蓉子や他の女の子たちを一瞥したからだった。
「あたしはミクって聞いて、那須野ミクを思い出したかな。確かウィーチューバーか何かだったかと思うけれど」
那須野ミク、か。目を瞠りつつ悟は問いかけた。
「瑠月ちゃん。そんな名前のウィーチューバーがいるんだな。初めて知ったよ。それで彼女はどんな配信をやってるんだい」
「那須野ミクは配信者と言うよりも、ネットドラマの方で有名なんだよ!」
悟の問いに応じたのは、瑠月ではなく別の女の子だった。仲間内でも特にテンションの高い彼女は、悟と蓉子とを交互に見やりながら言葉を続ける。
彼女の話によると、那須野ミクは妖怪が登場する学園もののドラマをネット上で配信しているそうだ。物語の中ではごく普通に妖怪たちも人間と共存しており、人妖混合の学園の中で起きる騒動を、新人教師や編入生である雷獣の少女の視点から描いたものであるとの事。
「……成程。あやかし学園ってそんな話なのか。でもけったいと言うか、何とも個性的な話だよな。妖怪ものと言えば、妖怪退治とかバトルとかそっち方面に流れがちな気がするんだけどさ」
悟がぼやくと、真凛や彼女の友達から軽く小突かれてしまった。
「やだなぁオーナー。妖怪ものだからって、妖怪退治したり妖怪と闘ったりするだなんて決めつけないで下さいよぅ」
「まぁだけど、そう言う話って少年漫画だったら多いかもね。升田さん、結構少年漫画とか好きそうだし」
悟を小突くのを終えると、女の子たちはまたしても思い思いの意見を述べていた。日常系で悪いやつが殆ど出てこないから安心して視聴できるだとか、男装の麗人である京子ちゃんがカッコよくて推せるだとか、やはり最推しは六花ちゃんだとか、そう言った旨の話である。
「まぁ悟。あやかし学園がどんな感じなのかは、実際に観てみれば解るんじゃない」
何処か気だるげな様子で瑠月が告げる。彼女もあやかし学園の感想を口にするのだろうか。悟はふとそんな事を思った。
当の瑠月はと言うと、愛想笑いを浮かべていた蓉子を睥睨しつつ口を開いた。
「それよりもさ、あたし、面白い事を思い出したのよ。あやかし学園の監督か脚本を手掛けている那須野ミクって、割れた殺生石から漏れだした化身だとか何とかって、公式サイトでは書いていたのよね」
「殺生石って……確か九尾の狐が封じられていたとか、そんなやつだったよな」
妖怪に疎い悟ではあるが、殺生石と九尾の狐の結びつきについては流石に知っていた。しかも殺生石は、昨年の二月に割れた事もあり、来歴も含めて大々的に報じられていたのだから。
女の子たちは、またしても目配せし顔を見合わせつつ話し合っていた。あやかし学園を楽しんで視聴している娘たちの事だ。殺生石が割れた事件は悟以上に知っているだろう。のみならず、那須野ミクについて知っている者もいるようだった。
「もしかして、那須野監督の正体って、殺生石から復活した九尾の狐だったりして」
「流石にそれは
少し天然で不思議ちゃんと見做されている少女の発言を、瑠月は一笑に付した。
「まぁその……那須野ミクってのはドラマの監督をやってるけれど、ネット上で活躍しているだけでしょ。だからその辺は、むしろ監督と言うよりインフルエンサーみたいなノリで、キャラ付けをしているだけじゃあないかなとあたしは思うのよ。
だってそうじゃない。九尾の狐なんて現実にはそうそういないだろうし、万が一いたとしても、ドラマの監督なんて
瑠月の、理路整然とした主張に、悟も女の子たちも思わず納得して頷きあっていた。蓉子はと言うと、何処か困ったような笑みを浮かべていたけれど。
結局のところ、九尾の狐など空想の産物に過ぎないと皆思っているのだ。玃猿の血を引く悟とてそれは例外ではない。
瑠月は今一度蓉子に視線を向け、言葉を続けた。
「――ただ、古月さんが何でタマモとかいう源氏名を使おうとしたのかは想像がつくけどね。きっと那須野ミクにあやかろうと思ったんでしょ。そう言えば古月さんも、舞台演劇がどうって言ってたじゃない。それに玉藻と言えば九尾の狐の名前でもあるし」
「ええ、まぁ」
蓉子は曖昧に言葉を濁しつつ、
「瑠月姉さんはあんな事を言ってるけどさ、九尾の狐とかその子孫とかっているんじゃないかなって私は思うのよ。ね、蓉子ちゃん。もし九尾の狐がいたら、どんな風に暮らしているんだろうね?」
「案外派手な事をせずに、人間社会に溶け込んで暮らしているかもしれませんね」
先輩だと見做しているからなのか、蓉子は彼女の問いにしっかりと応じた。かもしれないなどと言いつつも、彼女の言葉には確信めいたものが込められている。
夢が無いなぁ。いやいや案外そんな物かも。女の子たちはまたも話し合っている。そんな中で、瑠月は思案顔で蓉子をじっと見つめていた。
※
「お待たせしました。フルーツの盛り合わせをどうぞ」
「お、ありがとさん。そう言えば見ない顔だけど、新入りさん」
「そうなんですよサカキさん。この娘はミクって言うんですが、今日入って来た娘なんです」
「初めまして、ミクです。こういうお仕事はここが初めてですが、精いっぱい頑張ります」
「ふふふっ、初々しくて良いね」
カウンター越しに、女の子がドリンクや軽食を用意して客に提供している。バーテンダーでもある悟は、シェーカーの手入れを行うふりをして、古月蓉子の働きぶりを眺めていた。
思っていた以上に筋が良い。蓉子が、いやミクが立ち働く姿を見ながら、悟は静かに思った。普通の店でウェイトレスとして働いていたという経歴が真実である事は、ドリンクや軽食を提供する手際の良さを見れば明らかだった。フルーツの盛り合わせを作る際は、言われずともうさぎリンゴを作るような茶目っ気も持ち合わせているし。
しかしそれ以上に悟が注目したのは、ミクのコミュニケーション力の高さだった。初対面であるはずの客に対して物怖じする気配は無い。積極的に話しかけているように見えて、押しつけがましい所はない。その上客側の込み入った話――中にはセクハラめいた発言をする輩もいるのだ――は、やんわりとしかし華麗にかわしている。
面談の時には、気弱で引っ込み思案そうな娘だと思っていたが、中々どうして逸材では無いか。悟は密かに思った。
確か彼女は舞台演劇を嗜んでいたという事であるから、コミュ力高さはそこで培われたのかもしれない。演劇は一人で全て行うのは難しいのだから。
いやそんな事では無い。悟の中にある、本能的な部分がおのれに囁きかける。蓉子はもしかしたら、本物の女狐ではなかろうか。だからこそ男を誑かす術を心得ているのではなかろうか、と。
そうだとしたら、九尾狐の化身と言う設定である那須野ミクに興味を示し、彼女にあやかった源氏名を使ってもおかしくなかろう。
取り留めも無い考えを巡らせていた悟は、微苦笑を浮かべながら首を振った。古月蓉子が女狐の化身だって。妖怪と言うか異形は存在するのかもしれないが、だからと言って話が飛躍し過ぎてはいないだろうか。
「オーナー!」
そして先程までの考えは、黒服の呼びかけによって綺麗に霧散した。
「ん、今行くよ」
何処か切羽詰まった表情の黒服に語り掛け、悟はするりとカウンターから抜け出した。用心棒たちがやって来た事は、黒服の態度で解っていた。
用心棒と言いつつも実際には反社会的な組織ではあるのだが……悟はこのガールズバーを経営するにあたり、彼らの力を借りなければならなかった。それ故に、彼らがやって来た時には、悟が御自ら出向くのだ。