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春ゆえに部屋が暑い訳では無いのだが、全身が火照り額には汗が浮かんでいるのを源吾郎は感じた。
といっても、そんな事を考えている余裕はない。反社に与する化け犬と化けイタチの制圧は出来たが、まだ仕事は終わっていないのだから。
「島崎、源吾郎……」
おのれの名を呼ぶ声の方に視線を向ける。升田悟と牛原瑠月が源吾郎を睨んでいた。驚愕と怒りと憎悪の入り混じった視線に、一瞬だけ怯んでしまう。他人の悪意に晒される事にはもう慣れているはずだというのに。
やはり升田が、源吾郎にとってかつての知り合いだから、心が揺らいでしまうのだろうか。中学校時代に同じクラスになった程度の間柄に過ぎないのだが。
「升田君も、俺の事は覚えていたんやな」
「さっき思い出しただけだ。そんな特徴のねぇ顔なんざ、すぐに忘れちまうわ」
それよりも。憎まれ口を叩いた悟は、少し真剣な表情を作って源吾郎を睨んだ。
「お前に対して聞きたい事は山ほどあるが……お前の目的を聞かせてくれ。わざわざ女に化けて俺のガールズバーに潜り込んで、撮影スタジオを滅茶苦茶に引っ掻き回したのは、何でなんだよ!」
問いかけた悟だったが、源吾郎に答える暇など与えずに、思いついた事を口にしていた。
「化け犬たちの話からするに、お前はそんななりでも玉藻の前の子孫らしいもんな。先祖譲りのスケベ心が爆発して、それで俺のガールズバーに目を付けたんだなこの野郎!」
スケベはどっちだよこの色ボケエテ公が。推論ではなく妄想の域を出ない悟の言葉に、源吾郎は言い返したくなった。しかし額や首筋に青筋を浮かべるだけに留めておいた。怒りを爆発させて応じるのが悪手である事は良く知っていた。
そもそも源吾郎は、正面からぶつかり合うような戦法は苦手なのだ。妖怪の社会に飛び込んで既に五年の歳月が経つ。戦闘訓練では雪羽ともほぼ互角にやり合えるほどになっていたが、正面からぶつかる戦法は相変わらず苦手なままだった。その分、相手を欺き隙をすく搦め手は得意になっていった。今ではもう、搦め手や騙し討ちの方が得意分野なのだと、半ば開き直ってすらいた。玉藻御前自体も、実は物理的な戦闘は苦手だったとも伝わっているのだし。
「ねぇ悟。私は島崎が、スケベ心なんかでうちらのガールズバーに潜入したとは思えないわ」
未だ興奮冷めやらぬ悟の隣で、瑠月が告げた。悟とは異なり、瑠月は比較的冷静な態度を見せている。悟自身もまた、少し冷静さを取り戻したようだった。それを見ていた源吾郎は、少し安堵した。
「考えてみてよ。もしも島崎がスケベ心を持って潜入したのなら、とうの昔にうちらにセクハラしまくっていたかもしれないじゃん。なんせ女装していて、しかも今の今まで見破る事すら出来なかったんだから。
でも実際には、古月蓉子はうちらと距離を取っていた。真凛みたいに、女子同士でのボディタッチが好きな子なんかには寄り付かなかったし。お風呂だって、マンションのやつを使わずに、わざわざ外で済ませていたみたいだし」
淡々と語られる瑠月の言葉に、源吾郎は瞠目しながら聞き入っていた。彼女の言葉に偽りはない。だからこそ末恐ろしくもあった。彼女は俺の事を、いや古月蓉子の一挙手一投足を冷徹に観察していたのか、と。ギャルっぽく軽薄そうな言動とは裏腹に、瑠月は聡明且つ怜悧な頭脳の持ち主なのだ。そう思わざるを得なかった。
そして瑠月の言葉は、まだ終わっていなかった。
「ま、それもスケベ心が無いってうちらに思い込ませるための演技だったら話は別だけどね。なんせ島崎は玉藻の前の子孫なんでしょ。そうでなくても化け狐なんだし、演技は得意だと思うんだけど」
「牛原さんのお考え通りですよ」
息を吐くように源吾郎は告げた。それから、スケベ心云々の推理が付け加えられていた事を思い出し、二度三度咳払いする。
「ええ、もちろん牛原さんたちに悪心を抱いた事なんてありませんからね。先祖に……いえ女媧様に誓って言います」
「玉藻の前の子孫って言う割には、妙に潔癖ねぇ」
力強い源吾郎の宣言に、瑠月は怪訝そうな表情を浮かべている。やはり事情を知らぬ人間たちからは、妖狐や玉藻御前とその親族らは好色で淫蕩というイメージがあるのだろう。
もっとも、源吾郎だって玉藻御前の子孫だから、色を好んでも構わないだろうと思っていた時期はあったが。
すっかり落ち着きを取り戻したらしい悟が、源吾郎を瑠月を交互に見やりながら呟いた。
「確かに潔癖だけど……でも島崎らしいと言えば島崎らしいよ。元々からして良い所のボンボンだったし、あいつの兄貴共なんか揃いも揃って真面目な堅物揃いだからな」
「そっか。やっぱり出自が出自だから、育ちが良いのね」
話し合い、納得したように頷く悟たちに、源吾郎は口を挟まなかった。育ちが良いと言われる事についてはもはや慣れていた。主だって否定も肯定もせずに受け流すのが一番だという事も、既に知っている。
「……玉藻御前の末裔だからこそ、その能力や権力を濫用してはいけないって、身内から言われて育った所はあるかな。俺の振る舞いが、玉藻御前の末裔らしくないのはそのせいかもしれません。まぁ、母も叔父たちも叔母も兄姉たちも、玉藻御前の末裔らしいかと言われればそうでも無いんだけど」
言いながら、源吾郎は乾いた笑みを浮かべていた。悟も瑠月も笑いなどしなかった。そりゃあそうだろうなと思いながら、源吾郎は自分が悟のガールズバーに潜入した理由を語った。
「職場の同僚――厳密には違うけど、話すとややこしいから、まぁその認識で構わないか――が、違法薬物の売買に関与していたんだよ。それで上層部が調査していったら、君らの運営するガールズバーとかが浮上したという訳さ。
もちろん、君らが表立ってやっていたとは言わないよ。だけどそう言う事を行っている輩に与していた事は事実だもんな」
悟と瑠月の表情が目に見えて強張った。彼らは何も知らずに利用されていた訳では無い事は明らかだった。
と、瑠月が盛大なため息をついた。顔を上げると、剣呑な表情で源吾郎を睨みつける。
「さっきはあんたの事を玉藻の前の子孫らしくないって言ったけれど、前言撤回するわ。やっぱりあんたの、シルバーコングやあの家での振る舞いは、玉藻の前の子孫らしい振る舞いよ。うちらを騙して欺いて、それで破滅させたんだから」
「破滅だなんて、そんな滅相も――」
何にせよ、だ。源吾郎の言葉を遮り、悟が告げる。
「島崎が演技をしたり人を騙したりするのが得意なのは解っていたさ。思い出したよ瑠月。こいつ、中学の時に演劇部に所属していたんだ。しかもぼんやり活動していた訳でも幽霊部員でも無かった。俳優になれるんじゃあないかって周囲に言われるくらいだったんだぜ」
「……それじゃあ、舞台演劇で生計を立てていたって言う古月蓉子の経歴も、案外本当の事だったりして」
「いえ、舞台演劇が本業だという所はフィクションですけどね」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら告げる瑠月に対し、源吾郎は訂正した。
とはいえ、だ。実際には那須野ミクという変名でもって同人ドラマを作っているので、舞台演劇で生計を立てているという話も、全くのデタラメという訳でも無い。
それにしても。今まで黙って話を聞いていた化け犬が、思案顔で呟いた。
「島崎もけったいな事をしたよなぁ。演技上手で巧みに正体を隠す事が出来るのなら、何で古月蓉子だなんて名前を使ったんだか。もっと別の変名だってあっただろうに」
「うん。私も名前を見てキツネか何かかなって思ったもん」
化け犬の言葉に瑠月も同調して頷いていた。
彼らの指摘通り、古月蓉子は見る人が見れば妖狐を連想させる名だ。読みが「ヨウコ」である下の名については、深く説明するまでもない。古月については、妖狐が良く名乗る胡姓をもじったものである。
「……もしかしたら、悟やうちらに気付かれたかったんじゃあないの」
少ししてから、瑠月が吐き捨てるように告げた。彼女はそのまま俯いてしまったが、どんな表情を浮かべているのかは見るまでもない。瑠月の言葉の鋭さに戸惑いながら、源吾郎は口を開いた。
「そう言われてみれば、そうかもしれません」
俺もこの仕事は辛かった。源吾郎の口からは、思わず本音がまろび出た。
「悪いやつを摘発すると言っても、昔の知り合いがいたんだから……そりゃあ確かに、中学の時から仲が良かった訳でも無いさ。でも升田の事はちょっと心配だった。ひとり親家庭で育ったって事だったし、父親が玃猿の血を引いているから、君もそのせいで難儀するだろうって思っていたんだ。女の子を、いかがわしい所で働かせるのは良くないけれど」
「はっ。それがお前の考えか」
悟は言うと、床に唾を吐いた。品の無い彼の振る舞いに、源吾郎のみならず瑠月も思わず眉を顰める。
「島崎。お前は確かに玉藻の前の子孫とやらで、とんでもねぇ力を持っているのかもしれない。だけど話していて確信したぜ――どれだけ話しても、俺とお前は解り合えんとな。なんせお前は、親兄姉に甘やかされたボンボンで、その気質が抜けきっていないんだからな」
源吾郎に返す言葉などなかった。皮肉と憎悪に満ちた悟の言葉は、深く鋭く源吾郎の心を抉っていた。
追い打ちをかけるように、瑠月も言葉を紡ぐ。
「きっとあんたは、悟やうちらがガールズバーなんかで働くのは良くないって思っているんでしょ。さっきの言葉だって……潜入捜査とやらだって、純粋な
悟たちとのやり取りはそれまでだった。この後すぐに警察やら対妖怪組織の術者やらが来て、反社の連中を拘束したり悟たちに事情聴取したりし始めたからだ。
源吾郎が潜入捜査を行っていた事は、彼らにも伝わっていたらしい。源吾郎は不審者扱いされる事も無かった。やって来た術者たちへの状況説明が終わると、現場から去る事が出来たのだ。
独善的なのよ。瑠月から放たれた言葉は、源吾郎の心の中で脈打っていた。
生まれ育った境遇が違うと、分かり合えない事もあるのかもしれません。