夕方。源吾郎は吉崎町にある研究センターに戻って来る事が出来た。潜入先の事務所からバスと電車を乗り継いだために、存外時間がかかってしまった。車で帰るという選択肢はない。マイカーは持っているがそれほど遠くまで運転する事は無いし、そもそも古月蓉子として潜入していたのだから、車で潜入先に向かうのはそれこそ不自然になる。
丁度つなぎ作業を行っている工員の休憩時間だったらしい。珍獣でも見つけたかのような彼らの視線をかわしつつ、源吾郎は研究センターの事務所棟へと進む。
実を言えば、潜入捜査が終わったその日に、研究センターに顔を出す必要はないと、紅藤や萩尾丸から前もって言われてはいた。とはいえその言葉を素直に信じて頷くほど源吾郎も野暮で愚鈍な男ではない。
終わった物は終わったのだから、すぐに報告したいと思うのが人情というものだ。それにそもそも、源吾郎の居住区もまた、研究センターの敷地内に存在する。研究センターの事務所に顔を出すのも、それほど手間では無いのだ。
「ただいま戻りました」
事務所棟に入るや否や、源吾郎はそう言った。就業時間内――一部のメンバーは就業時間を超えても仕事をしているが、それはまた別の話だ――であるがゆえに、事務所内では見知った顔が立ち働いていた。が、源吾郎の声を聴くや、手を止めて近付いて来る。
「島崎先輩! 捜査の方は、終わったんすね」
いの一番に駆け寄ってきたのは雪羽だった。はためき翻る白衣の裾には、飛び散った薬品がまだらな染みを作っていた。雪羽の顔よりも、何故かそちらに注目してしまった。白衣の染みなんて、大分前に出来ていたはずなのに。
「ああ、うん。さっき終わった所さ。その事を、紅藤様や萩尾丸先輩に報告しようと思って、こっちに顔を出したんだよ」
少し上の空になっていた事を誤魔化すように、源吾郎はやや口早に言葉を紡いだ。幸いな事に、雪羽は源吾郎がぼんやりしていた事については、特に何も言わなかった。その代わり、何処か気遣わしげな表情で源吾郎を見つめた。
「先輩も相変わらず律義っすねぇ。でも大分お疲れっぽいな。顔がもうそんな感じだもん。潜入捜査を始める前は、元気一杯でやる気満々だったのに」
「やる気満々で臨んだからこそ、クッタクタに疲れ果てたんだろうさ」
雪羽の軽口に、源吾郎はそう返すのがやっとだった。
「数日ぶりね島崎君。大仕事が終わって疲れているでしょうに、わざわざこっちに寄ってくれてありがとうね」
雪羽に呼ばれてやって来た紅藤は、源吾郎の姿を見るや大いに喜んだ。いっそ無邪気さすら感じさせる彼女の笑みに、源吾郎も表情が和らいだ。
「いえ。紅藤様たちも、僕の事を気にかけて下さっていましたし、それでこちらに寄らせていただきました。無事終わったという報告は、早いに越した事はありませんから」
そもそも自宅は研究センターの敷地内にあるだとか、報告書は明日出社した時に書くだとか、そうした余計な事は口にしなかった。あれこれ言い募ると生意気だと思われる事も、きちんと源吾郎は心得ていたのだ。
紅藤は、源吾郎が口を開くまでもなく様々な事を説明してくれた。報告書の作成についてや振り替え休日の取得について、そして萩尾丸の動向についてだった。
萩尾丸は現在、部下を率いてがさ入れの最中なのだという。がさ入れの対象は、升田悟が用心棒と呼んで頼っていた反社の連中である事は言うまでもない。
「萩尾丸も今回は珍しくお冠だったわ」
紅藤は困ったような、何処か物憂げな表情で告げた。
「何せ自分が面倒を見ていた可愛い部下が、何処の馬の骨とも解らぬ組織の違法薬物に関与していたんですから。萩尾丸はああ見えて自分の部下は大切にする事は知っているでしょう。私としても、薬物の濫用は碌な事にはならないと思っているし」
「ええ、ええ。確かにそうですよね」
「全くもって、紅藤様の仰る通りですよ」
その後紅藤と二、三言葉を交わした所で、源吾郎は解放された。雪羽から「米田さんが居住区にある先輩の本宅に来ている」と言われたものだから、浮足立ってしまったけれど。
元より源吾郎は、潜入捜査の最中に米田さんが本宅に立ち寄るなどと言う事は想定していなかった。米田さんも仕事柄多忙である事は知っていたし、ホップの世話についても彼女に頼らずともうまく回るように計らっていたためだ。
※
半ば駆けで進んだ源吾郎は、自室のドアに半ば飛びつくような形で鍵を開け始めた。焦りと興奮のせいで、中々解錠できない。ドアに鍵をかけている事が、この上なくもどかしかった。
それでもガチャガチャやっているうちに、鍵が開いた。
「ただいま、玲香さん――」
「おかえりっ、島崎の兄さん!」
ドアを開けた源吾郎に飛びついてきたのは、恋人ではなく使い魔のホップだった。ホップは化け十姉妹とでも言うべき鳥妖怪なのだが、一年前に人型になる事を習得していた。源吾郎の姿が見慣れているからなのか、変化したホップの姿は源吾郎に似ていた。彼の弟だと言っても通用するほどに。
「ただいまホップ。兄ちゃんは長い間留守にしてたけど、ちゃんと良い子にしてたかい?」
「もちろん!」
そこまで言うと、ホップは変化を解いて本来の十姉妹の姿に戻った。そのまま源吾郎の胸付近にしがみついているので、指を差し出して止まらせ、そのまま肩に移動させた。
直後、源吾郎の恋人である米田玲香が歩み寄って来る。長い金髪は束ねた上にアップにまとめており、部屋着の上にはエプロンを付けている。何がしかの作業か、料理を行っていたのだと源吾郎は察した。
「おかえりなさい、ゴロー君」
「ただいま、玲香さん」
改めて、源吾郎は米田さんに挨拶を返した。米田さんは、少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「ごめんね、連絡も無しにゴロー君の家に急に来ちゃって。でも潜入捜査で疲れているだろうし、何よりホップ君から心細いって連絡があったから……」
ホップのやつ、玲香さんにそんな事を言っていたのか。肩の上にいるホップに、源吾郎は視線を向けた。ばつが悪いのか、ホップはしきりに羽繕いをしている。
なお、潜入捜査を行っている間、ホップの世話に関しては青松丸と鳥園寺さんに依頼していた。鳥類の事に詳しいし、ホップも彼に懐いていたから、青松丸に依頼する事は幾度とあった。
また、ホップは日中鳥園寺さんの許で妖怪としての勉強を行っているため、彼女の許で世話になるのは、ある意味普段通りの事かもしれないが。
源吾郎は米田さんに視線を戻し、首を振った。
「良いんです玲香さん。玲香さんが来ていると雷園寺君から聞いた時には驚きましたが、それは嬉しい驚きだったので良いんです。
それにホップが寂しいと思ったのは、本当の事でしょうし」
米田さんやホップに対して表立って言う事は無いが、源吾郎は実のところ、両者の関係がどのような物か、常日頃から観察し目を光らせていた。米田さんとはまだ交際しているだけだが、ゆくゆくは同棲し結婚する事となるだろう。その際に、同居妖《どうきょにん》であるホップと米田さんが、良好な関係を気付けるかどうかは、源吾郎にとっては大切な事柄だった。場合によっては、センター内の居住区にホップを住まわせ、自分と米田さんは別宅で暮らす事も視野に入れているくらいだ。
幸いな事に、米田さんとホップの関係は良好だった。
「帰って来たって事は、潜入捜査も終わったのね」
「ええ、お蔭さまで」
「大変な仕事だったでしょう。お疲れ様」
米田さんの言葉に、源吾郎は何も言えなかった。雪羽や紅藤、あるいは白川などの前では、大丈夫だと口にする事が出来たのに。最も愛する者からの言葉に、源吾郎は心動かされていた。油断すれば涙が溢れそうなほどに。
「料理は私が準備するわね。ゴロー君みたいに上手には出来ないけれど……」
「ありがとう玲香さん。料理の方も、今日は玲香さんにお任せします」
そう言って、源吾郎は米田さんと共に居間に向かった。
米田さんは料理が苦手だなどと言うものの、素材のうまみを活かした調理法を得意としているように源吾郎は思った。それに元がキツネだという事を思うと、ある意味妖狐らしい料理を作るも思っている。
荷物を置いた時、頬がやけにくすぐったいのを感じた。見ればホップが頬を突いている。源吾郎は身づくろいをする前に、ホップを指に乗せ、鳥籠の中に入れてやった。