四月中旬。休日であったとしても、源吾郎の朝は早い。自炊して昼の弁当や夕食を作る生活を都合六年続けている事もあり、早起きが半ば習慣化しているためだ。
更に言えば、同居妖《どうきょにん》のホップの朝も早い。仮に源吾郎が寝過ごしたとしても、ホップが熱烈なモーニングコールを行って起こしにかかる。恐らくは、小鳥の姿で源吾郎の髪を引き抜いたり、頬を嘴で突いたりするのだろう、
妖力の保有量は未だに弱小妖怪レベルであるが、ホップは既に人型に変化し、短時間ながらも維持できるようになっている。鳥籠の扉を開けて、籠の外に抜け出すと言った芸当もお手の物だ。
ともあれ、だ。源吾郎とホップは普段通りの時間に目を覚まし、思い思いの事を行って過ごしていた。
この日は土曜日であるが、予定らしい予定は特に入っていない。潜入捜査がどれだけ長引くか解らなかったから、予定は敢えて入れていなかったのだ。米田さんは仕事があるという事なので、会えるのは来週以降になる。
実家に関しては、特段親族(特に長兄)から呼び出しを喰らっている訳でも無い。ゴールデン・ウィークまでまだ時間があるので、その辺は気長に考えても罰は当たらないだろう。
それ以外の、何がしかの手続きの類といった用事も、今日必ず行うべきというものは特に無い。強いて言うならば、食材や日用品の買い出しや、ホップの散歩の手伝いくらいであろうか。
何かをする必要のない、丸々と横たわる暇な一日。源吾郎にはそれが、ひどく贅沢な物であるように思えた。雉鶏精一派の構成員となって既に七年目である。時には休日である事もお構いなしに、業務に携わったり敵対者への対策を講じなくてはならない時も何度かあった。実際問題、源吾郎も先日は一週間近く潜入捜査を行っていた訳だし。
雉鶏精一派は今となっては大きな組織であるから、傭兵である米田さんのように、何時休日でいつ仕事なのかが完全に掴めない、という事態が発生する訳ではない。
それでも、敵対組織や対立する者がそこそこ発生するために、休みであってもそれらに対応せねばならない事はままあった。特に重要な役割を担っている構成員であると、当局が判断した場合はなおさらだ。
そうした状況にあるからこそ、何もしなくても良い全き休日を、源吾郎はありがたく思うようになったのだ。見方を変えれば、暇というのも何も起きないという意味では平和な日とも言えるのだから。
「ねーねー、島崎のお兄さーん」
明るく、しかし何処か間延びした声が源吾郎の鼓膜を震わせる。朝だというのに黄昏ていた源吾郎は、意識を声のした方へ、というよりも現実へと引き戻した。
人型に変化したホップが、源吾郎に対して呼びかけていたのだ。よく見れば、彼の手許には広げられた新聞が置かれてある。新聞はホップの過ごす鳥籠に、汚れ受けとして敷く事がある。しかし最近では、ホップ自身も新聞を読む事がままあった。
どうしたいんだい、と声を掛けつつホップの許に向かう。するとホップは、新聞の小見出しを指さして言葉を続ける。
「勉強のために新聞をよんでいたんだけど、なにが書いてあるのかなって思ってね。島崎の兄さん、おしえてくれるよね」
「もちろんだとも」
言いながら、源吾郎も小見出しに視線を落とす。
ホップが人型を取るようになってから、ホップ自身と源吾郎の暮らしは大きく変化していた。ホップは元々からして妖怪化した十姉妹だった。しかし最初のうちはただ妖力を具えているだけで、普通の小鳥と大差ない存在だった。源吾郎はだから、ホップを普通の小鳥と同じように扱っていた。
しかし、人型を得て人語での意思疎通が出来るようになってからは、単なる小鳥として扱う事は出来なくなった。三、四時間程度しか維持できないと言えども、人型に変化するというのは、妖怪が社会生活を行う第一歩とも言えるからだ。それ故に、源吾郎はホップを妖怪として、自身の使い魔として扱わねばならなかった。
といっても、妖怪であれ使い魔であれ、すぐに実戦に投入される訳ではない。ひとまず妖怪社会を知るための勉強を行う所から始めていった。ホップが勉強といったのはそのためである。平日は鳥園寺さんや彼女の使い魔であるアレイの許に通い、基礎的な事を学んでいる最中だった。鳥園寺さんもまた、若い術者や妖怪化したばかりの鳥獣たちに指導を行う教官の様な役目を担っていたのだ。
鳥園寺さんの教育手腕には、源吾郎も信頼を置いていた。学生時代は予備校で講師のバイトも行っていたそうだし、何より大卒で理系を専攻していた身だ。源吾郎よりも賢く博識である事は言うまでもない。
時にホップの教育方針の違いで意見がぶつかったり、彼女の言動のためにホップが変な俗語を覚えて帰ったりと、困る事もあるにはある。だが、それらを差し引いても、鳥園寺さんには感謝していた。小鳥の扱いにも詳しいから、ホップを安心して預ける事が出来るためだ。
ともあれ、源吾郎はホップが指し示した小見出しを凝視した。その記事は新聞の中ほど、丁度科学欄とでも言うべき所にあった。分子工学だの何だのと、小難しい文字が躍っている。
科学系統の物事にホップが興味を示すのは、やはり教官である鳥園寺さんがゴリゴリの理系だからなのかもしれない。
そんな事を思いつつ、源吾郎は小見出しを読み上げ、書かれてある内容を要約して読み上げた。人型を取り人語を操るホップであるが、実の所まだ読めない漢字も多い。実年齢や人型になり始めた時期を考えれば何らおかしくない話だ。人型を取るようになって一年程度だし、実年齢も六歳なのだから。
もっとも、ホップの場合は後天的な妖怪であるため、精神年齢は十代半ばのようだが。
「うーむ。中々難しそうな内容やね」
一通り読み上げてから、源吾郎は思わず唸った。ホップは何故か得意げな表情でこちらを見つめている。
「ま、兄ちゃんも残念ながら何から何まで知っている訳じゃあないんだよ。昔の人もさ、知らない事を知るってのは大切だって言ってたし。ともかく、気になった単語とか小見出しの内容をメモしておいて、関連しそうな本を後で図書館に行って探そうか。分子工学とかそんな内容なら、きっと図書館にもあるだろうから、ね」
「図書館かぁ。ぼく、図書館よりも本屋さんに行きたいかも」
おや、と思っているうちにもホップは言葉を重ねる。
「本なら図書館だけじゃあなくて本屋さんにもあるでしょ。それにさ、鳥園寺先生がおしえてくれたマンガも気になるし……」
楽しそうに、目を輝かせながらホップは告げる。成程そう言う事だったのか。納得したような呆れたような感覚が、源吾郎の胸に湧き上がってきた。
「そっか。それで本屋さんが良いって言ったんだね。んん……まぁ、漫画なら兄ちゃんが買ってあげる。専門書の類は高いけど、漫画なら値段も知れてるからさ。ただ、変な話だったり怖い話だったりしないかは、買う前にチェックするけどね」
「ええー。島崎のお兄さんがチェックするの?」
源吾郎の言葉に、ホップは目を丸くした。そして拗ねたように口を尖らせてもいる。
「鳥園寺先生がおしえてくれたマンガだから大丈夫だって。まよなかだけど、アニメもやってるしおもしろいって言ってたよ?」
「深夜アニメって時点で色々気になるんだけどなぁ……」
源吾郎もまた、ホップと同じように渋面を浮かべていた。頭の中には、様々な考えが浮き上がり、渦巻いている。
兄として、ホップが読もうとしている漫画を検閲し、買うべきか買わざるべきか判断する事は容易い事だ。だが――そうした源吾郎の態度を、他ならぬ鳥園寺さんは良く思っていない。鳥園寺さんはホップの面倒を見てくれるのだが、源吾郎のホップへの態度に苦言を呈する事があった。
「島崎君はホップちゃんに過保護すぎるわ。恐ろしい物や醜い物に、あの子が近づかないように神経質になりすぎなのよ」
折に触れて、鳥園寺さんは源吾郎にそう言うのだ。十姉妹は臆病な小鳥であるし、ホップも妖生経験の浅い存在だ。だから彼がショックを受けるような事は、極力排除したいと思っていた。
鳥園寺さんは、源吾郎がそう思っている事は無論知っている。その上で彼女は意見するのだ。この世は可愛く出来ている訳では無いのだ。それを必要以上に隠し通す事のほうがむしろ残酷なのだ、と。
鳥園寺さんの言葉に、源吾郎は何度か反発した事もあった。しかし、ある時気付いてしまった。源吾郎のホップに対する振る舞いは、幼かった源吾郎に対して保護者ぶった態度を見せていた長兄のそれと何一つ変わらないのだ、と。歴史は繰り返すし、この世は皮肉に満ちているのだとも源吾郎は思った。長兄の過保護で厳格な振る舞いに対し、源吾郎もまた反抗心を抱いた事があったのだから。
「……どうしたの、島崎の兄さん」
「ああごめん。ちょっと考え事をしていたんだよ」
気付けばまた考え込んでしまっていたらしい。怪訝そうにこちらを見るホップに対し、源吾郎は笑ってごまかした。取り敢えず今日は漫画を買いに行こう。その後少し散歩をしようか。ホップに対してそう言いつつ、新聞紙を畳む。
畳んでいる最中に、「ウサギブーム到来か? ペットとしての需要急増」という小見出しがあるのがちらりと見えた。