昨晩のあれは、一体何だったのだろうか。出勤した源吾郎は、ワイシャツの上に白衣を引っかけた姿で物思いに耽っていた。流石に今日は、昨日と異なり寝過ごす事は無かった。むしろいつもより早めに目が覚めたくらいだ。奇怪な出来事に立ち会ったために、脳が興奮しているらしかった。
確かに異様な光景だった。野良ウサギたちが集まっているのはまだ良い。彼らが寄ってたかって獣をリンチするだなんて。いや、ウサギ共が斃した獣はどんな姿だっただろうか。四つ足で、ウサギよりも遥かに大きかったのは覚えているが……
考えをどれほど巡らせても、昨晩見た光景が何だったのか、全くもって見当がつかない。それどころか、記憶や情景がどんどん薄れて変質していくようにすら感じられる。記憶力は悪くないはずなのに。
「おはよう、島崎さん」
デスクにへばりついて考え込む源吾郎の頭に、声が降りかかる。見れば玉兎の望玉蘭《ぼう・ぎょくらん》が、源吾郎にひそやかな笑みを向けているではないか。瞳は赤味の強いブドウ色で、光の加減かキラキラと輝いているように見えた。
身を起こし、源吾郎も挨拶を返す。ふと思い立ち、彼女の顔をじっと見つめて問いかけた。
玉蘭の声は、昨晩聞いたあの声に――ウサギ共に指図するあの声に似ていた。
「望小姐さん。僕は昨夜近くのスーパーで買い物に出かけたのですが……望小姐さんもあの時外出なさったのでしょうか」
口から出てきたのは、あまりにも直截的な問いかけだった。とはいえ、朝だからか頭も回らず、気の利いた言葉も浮かんでこない。馴染みが薄いのに、プライバシーに踏み込んだような問いかけはマズかっただろうか。
源吾郎は密かに思ったが、玉蘭は微苦笑を浮かべながら首を振っただけだ。
「いいえ。昨晩は少し用事がありましたので、出かけてはおりません。それにしても島崎さん。どうしてそんな事を聞かれるのです?」
言い終えると、玉蘭は再び源吾郎をじぃっと見つめた。やはりブドウ色の瞳が妖しく輝いている。一瞬だけ、紅藤の瞳に似ているなどと思った。紅藤の瞳も紫色で、興奮すれば光を放っているように見える事があるからだ。
頭がぼんやりするような、それでいて一部分が活性化するような気分を味わいながら、源吾郎は玉蘭を見つめ続けていた。それから首を振る。言うべき事は、既に頭の中で固まっていた。
「いえ、すみません。僕の思い違いでした」
そうだ。全ては源吾郎の思い違いなのだ。そもそも玉蘭は、研修を始めてまだ日が浅い。西王母の遣いといえども、源吾郎たちと同じくうら若い妖獣に過ぎない。日中慣れない仕事に四苦八苦したというのに、その後出歩いて何かするような馬力など無かろう。
源吾郎はそのように納得していた。玉蘭も何故か頷いている。ついでに言えば瞳の輝きも和らいでいた。
ばつが悪くなった源吾郎は、今一度頭を下げる。玉蘭は穏やかな調子で言葉を続けた。
「誰だって、思い違いを起こしたり、気のせいに過ぎない事を本当の事だと思い込んでしまう事はありますよ。特に島崎さんは、何かとお疲れのようですし」
まさしく玉蘭の言う通りだと、源吾郎は思った。肉体的にはさておき、この所精神的疲労が頭の底に溜まっているように思える。
獣人や妖獣が錯乱するという事件や同時多発的に見る奇妙な夢など、気にかかる事が多い。しかも恋人である米田さんは、遠征に仕事と多忙であり、ここ一週間ほど会えていない。疲れを感じるのは無理からぬことだ。
「特に島崎さんは、妖狐という事もあって想像力が豊かな所があるように見受けられるんです。そうなるとやはり、色々な事が気がかりになって、思っていた事を見てしまう事もあるのでしょうね」
玉蘭の声は柔らかく、源吾郎の脳内にじんわりと浸透していった。
ふいに、源吾郎は誰かが遠くから凝視している事に気付いた。サカイ先輩だ。彼女は何処か訝しげな表情で、源吾郎と玉蘭を見つめているではないか。
それだけではない。彼女は思案する素振りを見せつつ、源吾郎の方へと歩み寄ろうとした。だが少し進んだ所で萩尾丸に呼び止められたらしい。女妖怪である事も一切気にせず、萩尾丸はサカイ先輩の肩に手を添えている。ぐい、と大柄な彼女の身体を引き寄せたように見えたのは気のせいではないはずだ。
そうこうしているうちに、萩尾丸はサカイ先輩に何事か耳打ちしていた。横目で源吾郎たちの様子を窺いながら。
何がどうという訳ではないが、普段の二人らしからぬ言動だった。
※
午前中に設けられた中休みはとうに過ぎていたが、休憩していると思しき作業員の姿はチラホラ見受けられた。製造現場と事務所では休憩時間の取り方が異なるためだ。
そのためという訳でもないが、作業員の視線は源吾郎たちに注がれていた。厳密に言えば、源吾郎や雪羽と共に工場棟へ向かう、望玉蘭に対してだ。
彼らは、ただコソコソと眺めているだけではない。近くに仲間がいれば、目配せを交わしながらひそひそ話に興じる輩もいたのだ。
「ねぇねぇ、島崎君や雷園寺君の側にいる娘って誰だよ?」
「見ない顔だなぁ。誰か見当がつかねぇや」
「聞いた話だと、研究センターに研修に来た物好きだってよ。それはそうと別嬪さんだよなぁ」
「ウサギの妖怪だって聞いたけれど、バニー姿じゃあないしウサ耳すら生えてないじゃないか」
「ちょっと! あんまりひそひそやってたら後が怖いよ。何かあの兎、ただ者じゃあない感じもするし」
自分たちの会話が玉蘭の耳に届かぬようにと、作業員たちも彼らなりに配慮してはいたのかもしれない。しかし実際には、源吾郎の耳にも彼らの言葉はバッチリと聞こえていた。月のウサギたる玉蘭の耳にも届いているだろう。
そばを歩く雪羽にも、彼らのひそひそ話が聞こえていたのは言うまでもない。下世話な話が聞こえるたびに、雪羽は笑っていたのだから。
「申し訳ありませんね、望小姐どの」
一行を先導する萩尾丸が、玉蘭の方を向いてぽつりと言った。謝罪の言葉ではあるが、申し訳なさが籠っている訳ではない。いっそ世間話のようなニュアンスしかなかった。
「いえ、私は大丈夫です」
しかし玉蘭は、萩尾丸の軽い言葉を気にすることなく、微笑みながら頷いた。ノリが軽いだの何だのと思っていたのは、源吾郎だけらしい。
そうしている間にも、萩尾丸は言葉を重ねた。物陰からひそひそと話したり、玉蘭に熱っぽい視線を向けたりしている連中を鋭く一瞥してから。
「あなたがどう思っていようが、彼らには僕の方からきつく灸を据えておきます。あの中には正社員だけではなく、パートや派遣もいるんですけどね。もちろん、仲間で交流を深めて結束を固めるのは良い事です。しかし人の噂話ではしゃいでいるうちは、実力なんて知れたものですよ」
「…………」
「…………」
途中で雪羽が、縋るような眼差しを源吾郎に向けてきた。噂話云々の辺りは、雪羽も思う所があったのだろう。萩尾丸の厳しさや、好奇心丸出しの作業員たちの事を思っていた源吾郎は、ただ無言で雪羽の視線を受け止めるだけだった。
源吾郎たちは、研究センターを出て工場棟に向かっている所だった。というのも、研修を行っている望玉蘭に、第二事業所でどのような仕事を行っているか見せるためだ。
第二事業所は何も研究所を擁しているだけではない。紅藤や青松丸などが試作し改良した魔道具や護符を量産化し、あるいは魔道具の素材や核を工業生産するのが工場棟の仕事である。工場内はある程度ライン化されているため、一般レベルの若妖怪や人間でも業務に従事できるらしい。
もっとも、中には日銭を稼げればそれで良いという者や、仕事自体も適当に流してしまう手合いもいるにはいるが。
いずれにせよ、萩尾丸は工場棟の設備や作業員を紹介するために、玉蘭を研究センターから連れ出したのだ。源吾郎や雪羽は、簡単な部分を説明するように命じられてもいた。説明係を二人も用意するのはいささか大げさな気もするが。
「しかもあの車の持ち主は、休憩時間にこっそりお酒を飲んでいたそうだからね。それで他のパート社員と揉めたんだよ」
いささか派手な外観の国産車を指し示し、萩尾丸は続ける。
外様の研修生たる玉蘭が傍にいても、彼の毒舌は衰えなかった。いやむしろ、玉蘭が傍にいるからこそ、一層毒舌が冴え渡っていると言うべきだろうか。
気が付けば、こちらの様子を窺っていた作業員の姿は消えていた。彼らにとっての休憩時間が終わったからなのかもしれない。あるいは、萩尾丸の毒舌に恐れをなして持ち場に戻ったのだろうか。
源吾郎には、真相がどちらなのかは解らなかった。