尋常ならざる光景に、源吾郎は一瞬思考が止まってしまった。平和ボケした世界に長く身を置き過ぎたがゆえの悪癖だ。八頭怪との全面戦争や、這い寄る混沌の司祭になった事実をへて、平和など幻想だと知っているはずなのに。
おやおや。やけに呑気な声が上がる。萩尾丸が、山羊めいた小男と触手を生やす四足獣の方へと、二歩ばかり近付いていた。
「初めましてお客様。雉鶏精一派第二事業所へようこそお越しいただきました。ところで、センター長へのアポイントは取っておりますか?」
穏やかで慇懃な萩尾丸の言葉に、山羊男と四足獣は互いに顔を見合わせ、ついで虚空に視線を走らせる。それから大口を開けて嘲笑し始めた。
「アポイントだと? そんなもん、ある訳無いだろうが」
「そもそも我らは、月に寄生し我らが神を弾圧する糞ウサギと闘っているのだ。お前らなど関係ない。しかし、お前らもウサギ共を擁護するのなら――」
「危ない! これは罠です!」
思わせぶりな様子で、山羊男の言葉が途切れる。ウサギの少年が悲鳴を上げ、源吾郎も息を呑む。ウサギ少年は罠だと叫んでいたが、あながち間違いでは無かろう。敵は二匹だけではなかった。術式の類で隠れ、その上で包囲していたのだ。
身体の側面から触手を伸ばした四足獣が飛び上がり、山羊めいた小人が槍を投擲する。源吾郎は無言で攻防一体の術式を脳内で念じ、雪羽は変化を解いて本来の姿に戻った。
刹那、幾つもの打撃音が轟いた。まず木材が弾けるような音が響き、次に肉塊を打つような湿った音が二度ほど。
音源は萩尾丸だ。普段はペンに擬態させている錫杖を携えていた。錫杖の一振りが、前方にいる山羊男の槍を半分に断ち切り、躍りかかる四足獣の二匹を殴り飛ばし、更に他の山羊男の肉体を斜めに分断していた。
殴り飛ばされた四足獣や真っ二つになった山羊男の残骸は、殴り飛ばされた勢いのままに宙を舞い、壁や駐車場の車に激突する。先程まで化けウサギが乗っていた高級車のフロントグラスに、四足獣が頭から突っ込んでめり込んだ。異形の首や頭からは血潮が吹き出し、四肢や触手が痙攣している。
りん、と錫杖の先に取り付けられた金環が音を鳴らす。血と体液で穢れた錫杖を片手に、萩尾丸は微笑んだ。
「――そうですか。ならばセンター長にお目通りするまでもありません。お引き取り願えますか」
前方にいる山羊男の顔が引きつり、四足獣の触手の色が鈍くなったように、源吾郎は感じられた。源吾郎の位置からは、萩尾丸の顔は見えない。しかし彼が、仏敵の代魔王のごとき邪悪な笑みを浮かべているであろう事は、容易に想像できた。
「まぁ、このままいけば、あなた方は
萩尾丸の口から出てきたのは、明確な宣戦布告だった。いやもしかしたら、害獣駆除の宣言を行っただけなのかもしれない。丁寧な物言いに隠された残虐性に、源吾郎は思わず震え上がった。
山羊男も四足獣も、すぐには動き出さなかった。萩尾丸の存在を、明確な脅威と見做しているのだろう。退却する事も考えているのかもしれない。
「野郎ども、恐れるな!」
一秒と経たぬうちに、大音声が沸き上がった。殿にいる山羊男の声だった。でっぷりと肥った身体を揺すり、これ見よがしに槍を上下させる。突き刺さったままのウサギの生首が、虚ろに揺れていた。
「何者か解らんが、力がありそうなのはそこの錫杖の男だけだ。頭を潰せば、後は雑魚ばかり。いや、頭も拷問のしがいがありそうなやつだと思わんか」
肥った山羊男の言葉に、他の山羊男や四足獣も勢いづいたらしい。口々に血まみれの槍や触手を振り上げ、声を上げた。
「そうだそうだ! 俺たちは、土星でも月でも牽制を誇っているんだ。こんな地上の連中に後れを取るものか」
「抵抗する者はぶち殺せ! 生け捕りに出来たら我らの神も喜ぶが……まぁ余命は短いだろうて」
「いや、あの狐だけは生け捕りだ。あいつは這い寄る混沌の……」
狐、要は源吾郎を生け捕りにしろ。そう言った山羊男の言葉は途切れた。獣姿の雪羽が飛びかかり、雷撃を纏った右前足で彼を殴りつけていたからだ。
柴犬ほどの大きさの獣に殴りつけられた山羊男は、そのまま昏倒した。その頃には既に雪羽の姿は無い。飛行術をフル活用し、別の標的を求めて矢のように飛んでいた。
交渉決裂。混戦必至。そんな熟語が脳裏を掠める。
萩尾丸は既に、向かってくる山羊男や四足獣を相手に、錫杖を振り回して威嚇している。
そんな中で、源吾郎はおのれの尻尾の毛を引き抜き、分身を作った。向こうが数の暴力で攻めるのならば、こちらも数の暴力を使うまで――そうして錬成した分身は全部で七体。梅山七怪《ばいざんしちかい》と呼ばれる獣の妖魔を、源吾郎なりにアレンジしたものだった。
六体の分身は、源吾郎に先んじて山羊男や四足獣に向かって行った。だが、最後の一体は違う。化け猪の朱子真には、異なる指令を出していたのだ。
「望小姐《ぼうしゃおじぇ》殿」
怪猪は進み出でて、玉蘭へと声を掛ける。彼女が何か言う前に、太く武骨な手を差し出す。
「ここはあるじ殿たちに任せて、私と共に逃げましょう。時間稼ぎや露払いは行いますので――」
玉蘭はしかし、朱子真の手を払いのけた。その顔に嘲るような笑みが浮かんだのは、気のせいだろうか。
源吾郎は瞠目した。しかしこちらにも槍だの触手だのが迫っている。それらを四尾や小規模な結界で弾きながらも、叫んだ。標的は何も源吾郎たちだけではない。玉兎である玉蘭にも、触手塗れの獣は飛びかかってきたのだから。
「望小姐さん。そいつらは――」
次の瞬間、玉蘭の姿が消えた。いや違う。俊敏に動いたために、彼女を見失ったのだ。
「グギュッ……」
肉を殴打する音と共に、何か硬いものが砕ける音が聞こえてきた。玉蘭は空中に浮き上がり、触手を伸ばした猫めいた獣に回し蹴りを喰らわせているではないか。ウサギだから蹴り技が得意なのはまだ解る。
「――元よりこいつらは、私たちを狙ってやって来たんです。だというのに、私が安全な所に逃げ隠れるのは、道理に合わないわ」
それに。宙返りしたまま四足獣の胴体に着地する。ヒールのある靴で地面を蹴り、跳躍する。今度は足技ではない。いつの間にか出現させた短い棍棒を手にし、側にいた山羊男の角を砕かんばかりに殴りつけている。
「この程度の有象無象なんか、私の敵ではないわ」
彼女の頬に飛び散った返り血は、山羊男の物なのか四足獣の物なのか、源吾郎には解らなかった。ただただ、玉蘭が指で拭い取った血を舐るのが、コマ送りの映像のように見えた。
※
源吾郎たちは四人だったが、どうにか四足獣と山羊男たちを圧倒し、もう少しで殲滅させるところまで持って行く事が出来た。それはひとえに萩尾丸と玉蘭の活躍の賜物だ。源吾郎が尾を振るっても山羊男を昏倒させる程度であり、雪羽の雷撃を纏わせた肉弾戦は四足獣を痺れさせるだけだったのだから。
残るはしんがりにいた肥った山羊男一人だ。瞳は左右で違う方角を向いており、口許にはうっすらと笑みが浮かんでいる。名状しがたい表情だが、それでも余裕を見せ、源吾郎たちを嘲笑しているように見えた。
「鏖だのなんだのと言っていたけれど、マトモに闘えるのはあんた一匹みたいになったわね。あの忌々しい月棲獣に逆らえないらしいけれど、そんな事情、私たちにはどうでも良いわ」
血まみれの棍棒を突き付けながら玉蘭は言う。ブドウ色の瞳には、冷え冷えとする敵意と殺意しか読み取れない。
そんな玉蘭に呼びかけたのは萩尾丸だった。
「まぁまぁ望小姐どの。一人くらいならば、いえおねんねしている皆様も、我々の方でおもてなししましょうかね。地下に丁度良い
研究センターの地下階には応接室などない。戦闘訓練に使うスペースと、
萩尾丸の言葉を聞いた山羊男は、怯えることなく高笑いを始めた。
「はっはっは。猫相手に粋がっている土星猫や、有象無象の奴隷連中とは格が違うんだよ! そして、そう言った連中を相手にして勝った気でいるお前らも、な」
言い切るや否や、山羊男の姿が変貌していった。元々肥っていた肉体が左右に割れ、脱皮するかのようにずるりと山羊男の表皮が垂れ落ちていく。
中から現れたのは、山羊男とは似ても似つかぬモノだった。子供が無造作にこね回した粘土のように、胴体部分は薄い灰白色で、ずんぐりとした楕円を示している。指が三、四本ほどに分岐した手足は、筋肉質だが胴体に較べればややひょろ長く見えた。
そして頭部には顔と思しきものは無い。ただ、まくれ上がった臓物のような、鮮やかな桃色の触手が多数生えているだけだ。それらは蠢き、伸び縮みを繰り返していた。
「こいつ、奴隷とやらの生皮を被ってやがったな――!」
何かを察した雪羽が吠える。山羊男の皮を脱ぎ捨てた、触手頭の白い怪物は触手を揺らした。
「だったら何だというのだ? 奴隷というのは、有効活用してこその物だ」
転がっている槍を左右の手に一本ずつ手にした。突き刺すのか、と思った次の瞬間、二本の槍を投擲したのだ。
「ぐうっ!」
槍の一本は、玉蘭の脇腹を掠めた。短い悲鳴を上げ、彼女はその場にうずくまる。甘く、そして何処か苦々しい血の臭いが、彼女から立ち上っていた。
「ふん。ウサギも支配者面して大口叩いていたが、所詮はその程度か――死ね」
玉蘭の身体からは、思いがけぬほど夥しい量の血が流れているらしい。源吾郎と雪羽は、すっかり気が動転してしまった。異臭を放つこの怪物と闘うべきか、玉蘭を抱えて逃げるべきなのか。梅山七怪の分身は既に消えているし、萩尾丸も動かない。
次の瞬間、建物の壁に沿った雨樋から、青黒い触手が姿を現した。
また新たな敵か! そう思っている間に、触手は雨樋の体積を無視して顕現し、幾つもの禽獣を融合させたような姿へと変貌する。さしもの怪物も、青黒い異形に気を取られたらしい。
振り返ったものの、彼が何をしようとしたのかは解らなかった。振り返った直後に、怪物の頭部が地面に落ちていたのだから。頭と思しき器官を喪った胴体にも、触手は貪欲に突き刺さっていく。怪物の身体からは紅い血潮は流れない。その代わりに、濃緑色の粘液がドロドロと流れ出ていた。
灰白色の怪物を難なく屠った触手の異形も、みるみるうちに縮んで姿を変えていった。触手は犬の頭部めいた形を見せる事もあったが、結果的にはローブの下から触手を生やす、背の高い女性の姿に落ち着いた。
まぁつまるところ、研究センターに所属する隙間女・サカイスミコだったのだ。