いきなり下界に吹き付けた風は、五色に彩られた雲と叫び声を運んできた。
「雉仙女様。雉鶏精一派の皆様方。そこのウサギを害するのは少し待ってちょうだい。躾の悪い畜生であっても、一応はこの私の管轄なのですから」
「!?」
八頭衆の面々が抱いていた殺気や敵意の類が、一瞬で霧散した。雉仙女と名高い紅藤も、冷徹な女傑たる峰白も、驚きと戸惑いの念を持って、声のした方を振り仰いでいる。
そこにいたのは、五色の雲に乗った一人の仙女だった。それも紅藤や玉面公主などと言った、禽獣から変化した妖怪仙人ではない。余人が仙人・仙女という類のものである。確信めいた考えが、源吾郎の脳裏に浮かんだ。
件の仙女は、橙色の着物の上に羽織った羽衣を揺らしながら、雲を降りて地面へと着地する。その際に纏足めいた靴が未だ散らばるレンの人の残骸を勢いよく踏みしだいていたが。
死肉の上に立っている事などを微塵に感じさせないような穏やかで爽やかな笑みを、彼女は紅藤たちに向けていた。源吾郎をはじめ、妖怪たちが彼女の笑顔を無害だと感じたかどうかは別問題ではあるけれど。
「あなたは……」
「申し遅れました。私は小桂娥《しょうけいが》と申します。見ての通り普段は月で過ごしており、玉兎たちの管理を行っています」
玉兎たちの管理を行っている仙女という事は、ある意味玉蘭の上司に当たるという事なのだろう。玉蘭や、他の玉兎の緊張した様子を見るに、そんな感じがした。
玉兎や月棲獣という月に住まう妖獣・魔獣だけではなく、月の仙女までお出ましになるとは。戸惑いといくばくかの恐怖感に黙り込む八頭衆たちに対し、小桂娥は言葉を続けた。
「雉仙女様。玉兎たちが、不倶戴天の怨敵である月棲獣や土星猫との闘いにてこずっている事、それ故に一部の者が雉鶏精一派に助力してもらおうと画策している事は知っていました。ですがまさか、あなた方の配下である仔狐を殺そうとするなんて……」
そこまで言うと、小桂娥は玉蘭の方に身体を向けた。結い上げた髪の上で、金木犀の髪飾りが揺れたのを、源吾郎は見た。
小桂娥の説明は、源吾郎にしてみれば不完全なものに思えた。しかし彼女の注意は、今や玉兎たちのみに向けられているようだ。
刹那、空を切る鋭い音が響いた。何事か、と源吾郎は雪羽と共に身をすくめる。音の正体は、小桂娥が手にしていた木製の鞭だった。やはり金木犀の花があしらわれたそれで、彼女は苛立たしげに地面を叩いている。
「玉蘭! あんたは若いわりに賢いと思って期待していたけれど、胡喜媚様に喧嘩を売るような馬鹿な事をしでかすなんて……やっぱりあんたも、大伯父とか父親に変な事を吹き込まれたのね! 前世の因縁にこだわるような馬鹿げた考えは、私が直々に吹き飛ばしてあげるわ」
言うや否や、小桂娥は金木犀の鞭を振り上げた。鞭の軌道上にあるのは、もちろん玉蘭の脳天だ。ブドウ色の瞳で、玉蘭は小桂娥と彼女の持つ鞭を見つめている。
ああ、しかし、彼女は微動だにしない。動けないはずはない。元より彼女は、雪羽の牙すら通らなかった土星猫を、一撃で蹴り殺したほどの猛者なのだ。避けようと思えば避けられるはずだ。小桂娥も、特に術で彼女を拘束している訳ではないし。
小桂娥は怒りに任せて鞭打ちを行おうとしており、玉蘭もまた、それを受け容れようとしていた。信じがたいが……そう思う他なかった。
「ま、待ってくれ仙女様!」
稲妻のような叫び声がにわかに上がった。その声の大きさに、さしもの小桂娥も驚いたらしい。鞭を振り下ろした腕は、玉蘭を殴打せずにピタリと静止した――玉蘭の頭上数ミリの所で、だ。それでも彼女の髪が二、三本不自然に落ちている。そのまま打ち据えていたらどうなっていた事だろうか。
「部下の不始末を咎めるのも上司の務めですし、そこの玉兎がきな臭い娘だとは俺も思っていました。ですが、手荒な事はやめといた方が良い、良いと思います。若い妖も見ているので、体罰とか動物虐待は教育上よろしくありませんし……」
弁明する三國の言葉の背後で、失笑混じりのため息が聞こえてきた。八頭衆、特に峰白や灰高、あるいはその重臣たちの物であろう。筋が通っているようで支離滅裂な三國の言葉を彼らは嗤っているのだ。しかも三國は、少し前まで玉蘭の事を胡散臭い女だと声高に糾弾していたのだから尚更だ。
更に言えば、彼が口にした若い妖というのは、雪羽と源吾郎くらいしか当てはまらない。どさくさに紛れて叔父バカが露呈したと思われてもおかしくなかろう。
幸か不幸か、自分が仲間たちに笑われている事に、三國は気付いたらしい。真面目な表情を作り、言葉を重ねる。
「それに仙女様。島崎君を……金毛九尾の末裔を謀殺しようという考えは、そもそも望玉蘭どのが持ち合わせているものではありません。俺はこれでも雷獣なので、相手の考えを電気信号として読み取れますからね。実際に謀殺を考えたのは、そこにいるウサギ小僧の方ですよ」
玉蘭の傍らにいるウサギが、びくりと耳を動かした。
玉兎はさておき、だ。電気信号としての思念を読み取ってまで、玉蘭への折檻を止めようとする三國の言動に、源吾郎は少しばかり驚いてしまった。あるいは単純に、うら若い乙女の姿をした玉蘭が、無抵抗のままに打擲される姿を見たくなかったから、小桂娥に進言しただけなのかもしれない。
三國は確かに血の気の多い妖怪である。過去に敵対した妖怪や人間に対し、猛然と闘い攻撃を仕掛けた過去もある。しかし一方で、女妖怪や若く幼い妖怪が虐げられる様を見るのを嫌う側面もあった。先の三國の言動も、そうした仏心(またはスケベ心)が発露してしまったのだろう。
もっとも、三國の隣には妻にして重臣である月華が控えているから、迂闊な事は口に出来ないのだが。
「――いいえ三國様。金毛九尾の末裔を危険視し、隙あらば亡き者にしようと私が目論んだ事には変わりありません。ゆえに非はこの私にあるのです」
玉蘭はしかし、おのれの非を認めようとしている。存在しない罪過をでっち上げ、架空であるはずの懲罰を欲していた。確かに源吾郎たちを欺き目的を果たそうとした事はあるだろう。それでも、源吾郎を敵視し謀殺しようなどと考えているようには到底見えなかった。
小桂娥は既に、携えていた鞭を帯の中へとしまっていた。しかし、怒り心頭であろう事は、小刻みに震える肩を見れば明らかな事だ。
「もう良いわ。あんたたち玉兎が、良くも悪くも前世の因業に囚われる事は、私もよぉく知っているんですから。大方伯邑考の生まれ変わりにでも唆されたんでしょう。若い兎は、年長者の言葉なら疑わずにコロッと信じてしまうんですから……」
ぶつぶつと文句を垂れていた小桂娥であったが、紅藤たちの姿に気が付いたらしい。弾かれたように身を翻し、ある種の卑屈さと申し訳なさをにじませた顔をこちらに向けた。
「本当に、あなた方には迷惑を掛けましたわ。本来ならば、素直に助けを求めても良かったのでしょうが、そこの畜生共は猿知恵を働かせて皆様を出し抜こうとした挙句に、胡喜媚様の配下を害そうとしたのですから。
つきましては、
恭しさでコーティングされた小桂娥の言葉に、雉鶏精一派の面々は――幹部の八頭衆も、頭目である胡琉安もだ――戸惑いと驚きを隠せなかった。
自分たちを胡喜媚の手下だと言ったのはまだ許容できる。だがそれだけではない。小桂娥は、胡喜媚へのお目通りを願っていた。胡喜媚は既に世を去って久しいというのに。胡喜媚の死を知らないのか、知った上で「お前たち程度に頭を下げるつもりはない」と言っているのか。
いずれにしても、雉鶏精一派を愚弄している事には変わりはない。そこまでいかずとも、軽んじていると言っても良いだろう。
小桂娥どの。戸惑いと疑念の中で声を上げる者がいた。萩尾丸だ。再興した雉鶏精一派の黎明期を知る彼は、物憂げな表情を作り、用心深く口を開いた。
「恐れながら申し上げますが、胡喜媚様は三百年以上前におかくれになっているのです。それ故に、私どもはあなた様に胡喜媚様をお目通りさせる事は出来ないのです」
霊魂を捕まえてどうこうするのならば話は別だが、とうの昔に死んだ者を引き合わせる事は不可能である。それは万物に通じる真理だった。妖狐だろうと雷獣だろうと天狗だろうと、覆せない事だ。
流石の小桂娥も、その事は解っているらしい。目を見開いたその顔には、驚きの色が隠せなかった。
畳みかけるように、萩尾丸は言葉を続ける。
「今の雉鶏精一派は、胡喜媚様の孫である胡琉安様が頭目の座を継いでおります。頭目ならば今ここにいらっしゃいますが、如何されますか」
如何されるも何も、そのまま胡琉安を頭目としてお目通りさせればいいのではないか。何故萩尾丸は、持って回った言い方をしたのだろう。
にわかに浮かんだ源吾郎の疑問は、他ならぬ小桂娥の言動によって霧散した。
彼女は萩尾丸の隣に立つ胡琉安を見やると、安堵したような表情を浮かべたのだ。
「ああ、胡琉安様とはあなたの隣にいる彼の事ね。胡喜媚様のご令孫という事ですけれど、何とも
「このアマ――」
周囲の空気が、今一度緊迫したものへと変わる。元凶は峰白だ。可愛らしい小鳥という言葉を聞くや否や、彼女の身にまとう空気が一変した。獰猛な殺意と爆発的な敵意が、彼女の内から湧き上がってきたのだ。
「駄目よ峰白のお姉様。相手は嫦娥様のお遣いよ。ここで怒っては西王母様たちを敵に回す事になるわ」
彼女の身から放たれる殺気は、しかし周囲を圧倒する事は無かった。異変に気付いた紅藤が、術でもって彼女の言動ごと封じ込めたからだ。額に青筋を浮かべ、血走った目をぎょろつかせながら峰白は睨みつけているが、それでも涼しい顔で見つめ返すだけだ。流石は紅藤である。雉仙女と呼ばれるだけの妖力を持ち、峰白の言動やあしらい方をよく心得ていた。
峰白も観念したのか冷静さを取り戻したのか、殺気がしぼんでいった。元より峰白は冷徹で聡明な女妖怪なのだ。怒るべき時か闘うべき時なのか、正確に判断する事が出来る――源吾郎たちや三國は言うに及ばず、下手をすれば萩尾丸よりもずっと、的確に。
小桂娥はというと、峰白の見せた殺気に怯えたり、戸惑ったりする素振りは見せなかった。紅藤が殺気を封じて最小限にしていたからではない。そうでなくとも気付かなかっただろう。源吾郎は気付いてしまった。小桂娥が峰白たちに向ける視線は、羽虫か何かを見るものと同質である事に。
「小桂娥どの」
ここで再び、小桂娥に呼びかける声があった。萩尾丸だ。先程呼びかけた時とは、声のニュアンスが微妙に違う。小桂娥に対して怒りの念を抱いているのだと、源吾郎は静かに思った。冷え冷えとした怒りを萩尾丸が抱えている。それは新鮮な事であり、また心強くもあった。
「頭目の、胡琉安様はこちらにいらっしゃいます。あなたの部下である玉兎たちの、不祥事に関して、謝罪していただけるんですよね」
「ええ、ええ。勿論よ」
萩尾丸の言葉には、怒りと共に皮肉も込められているようだった。無邪気で傲慢で、それ故に愚かさをも内包した小桂娥は、その事に気付かなかったらしい。気付かぬままに彼女は謝罪した――望玉蘭を含めた玉兎たちへの処遇は、雉鶏精一派サイドで決めて貰って構わないという言葉を添えて。
言いたい事を言うと、小桂娥は玉兎をそのままに月へと戻っていった。
「ああ全く、月世界の仙女だか何だか知らないけれど、腹立たしいアバズレだったわね」
仙女の姿が見えなくなってから峰白は言い、ついで盛大に舌打ちした。
彼女の言葉に誰も何も言わなかった。紅藤も今回は咎めなかった。機嫌の悪い峰白を恐れ、彼女に逆らわないようにしていたからではない。小桂娥に対する不快感を、皆が抱いていたからだった。