※
視点は一旦萩尾丸へと移る。
「それじゃあ、私はもう時間なので帰りますわ」
午後四時過ぎ。自警団の副所長は、尻を左右に振るようなしぐさでもって立ち上がった。滑稽な動きになったのは、彼が少し肥えているだけに過ぎない。この場を去る事への未練は感じられなかった。むしろ清々していると言っても良かろう。
八頭衆の重臣に見送りをさせようとしたが、他ならぬ副所長からそこまでする必要はないと言われた。こちらに手間を掛けさせたくないという配慮ではない。薄気味悪い連中に見送られるなど真っ平だ――暗にそう言っているようなものだった。
「それにしても、雉鶏精一派の皆さんが羨ましいですなぁ。月棲獣だとか土星猫だという得体の知れない連中を警戒するだけで良いんですから。私もそいつらは恐ろしいとは思いますが、それよりも月から来たとかいうウサ公どもに手を焼いているもので。
……そういえば、研究センターにも月のウサギがいるんでしたっけ。そんなら、そいつが悪さをしないように気を付けた方が良いでっせ」
月棲獣や土星猫の挙動もきな臭いが、それよりも油断ならないのは月のウサギ、要は玉兎の方である。雉鶏精一派への厭味と共に、副所長である化け狸の男はそんな事を言ってのけたのだ。
彼曰く、玉兎は外来生物であるにもかかわらず徒党を組み、畑を荒らして残飯を喰い散らかし、挙句の果てには鳥獣をも襲って喰い殺すのだという。月棲獣や土星猫と闘っていると言っても、月棲獣たちの姿は中々お目にかかれない。ゆえに玉兎は厄介な侵略者であると、地元妖怪たちは思いつつあるらしい。
しかも玉兎たちは、卯年が巡って来た事を利用して、ウサギブームが起きるように人間たちを巧みに煽動さえしたのだという。ウサギを飼育する人間が増えているように思いこませ、玉兎たちがより容易に暗躍できる下地を作るための工作である事は言うまでもない。
そんな訳であるから、自警団の面々は玉兎を警戒していたのだ。望玉蘭を筆頭に玉兎たちは、月棲獣や土星猫は残虐で危険な存在であり、亡ぼすべき敵であると主張している。しかし地元妖怪に知れ見れば、玉兎もまた侵略者に過ぎないのだ。ついでに言えば、危険だの何だのと言われている月棲獣たちを見かける頻度は、現時点ではかなり低い。そうなるとやはり、玉兎が好き放題振舞っているように見えてしまうのもやむない事であろう。
戦場に赴いた兵士が、現地の住民の事など気にせず好き勝手に振舞う。これは昔からよくある事であり、今回の玉兎たちもその一例に過ぎない――当事者としてはよくある事では片づけられないのだけれど。
「あーあ」
何処となく間の抜けた声が上がる。声の主は三國だった。自分よりも上の序列にいる者たちの視線など意に介さず、大口を開けて欠伸すらしていた。
「自警団のおやっさんが来て下さったのは良いんですけれど、だからなのか話は進まなかったですねぇ。おやっさんはさ、俺らの話なんてそっちのけで、ウサ公が厄介だの侵略者だのって、同じ事ばっかり話していたんですから。そんなの、俺らだって解っているというのに」
「……そういう割には、望玉蘭どのの事を庇うような発言をなさっていたように思いますがね、三國さん」
灰高の言葉に、三國は居心地悪そうな表情を浮かべるだけだった。
自警団の化け狸は玉兎の話ばかりしており、それ故に打ち合わせが進展しなかった。三國の主張は、正しい所と間違った所が半分ずつ混在しているように思えた。
玉兎の事ばかり話していたというのは正しい所だ。自警団の副所長がいたから話が進まなかったというのは間違った所だ。雉鶏精一派の幹部たちだけだったとしても、打ち合わせなど進展しないだろう。元より八頭衆は一枚岩ではなく、誰も彼も我の強い連中ばかりだ。ああだこうだと意見をぶつけ、それで無駄に時間を潰すだけだろうと、萩尾丸は思っていた。
三國の表情を堪能していた灰高は、ふいに顔を上げてこちらに視線を向けていた。
「萩尾丸さん。今はその厄介な玉兎とやらは、研究センターにも一羽いるんですよね。暇つぶしがてらに、彼女の様子を一度観察しましょうか。
雉仙女殿や萩尾丸さんは、番犬を付けているから大丈夫だと安心しているようですが、鋭角の番犬は玉兎とは
「その懸念はもちろんございます」
自分の声は、果たして震えていないだろうか。そんな事を思いながら、萩尾丸は言葉を紡いでいった。
「だからこそ、望玉蘭の妖力を奪っておいたのです。僕たちが今後の事について打ち合わせしている間に、望玉蘭が悪心を抱いて番犬や仔狐たちに襲い掛からないように。それに灰高様。サカイさんも前途有望な若者であります。時には、自分で考えて対処せねばならないと、気を引き締めるようなシーンを与えても罰は当たらないでしょう」
「灰高のお兄様。萩尾丸はああ言っていますけれど、私は研究センター内の状況を全て把握しているのです。もしも望玉蘭が何か仕出かしたのならば、サカイさんたちが報告に来る前に、私の方で対処いたしますわ」
萩尾丸の発言に被さる形で紅藤が告げる。だが灰高は特に気にも留めず、萩尾丸に対してにぃと笑みを浮かべた。
「成程。萩尾丸さんは妖材《じんざい》教育に一家言ありますもんねぇ。しかも研究センターには優秀な若者が揃っているようですから、やはり力も入る感じでしょうか」
「ええ、まぁ、そんな感じです」
手早く応じつつ、萩尾丸は投影術を行使する準備を進めていた。紅藤は自分の話をスルーされて少し拗ねていたようだが、青松丸や胡琉安が宥めにかかっているので、放っておいても問題はないだろう。
そうこうしているうちに、投影術が完成した。会議室の前面に降ろされた白いスクリーンに、玉兎やサカイスミコたちがいる事務所の映像が投影された。
変化が解けた状態の玉兎は、ウサギの姿ながらも器用に資料を取りまとめ仕事をこなしている。特段不満や反抗心を持っている素振りは無い。
玉蘭については特に問題なさそうだ。何故か雪羽も変化を解き、本来の姿を露わにしていたが。雷獣としての雪羽の姿は、白銀の毛皮に覆われた、猫ともハクビシンともつかぬ姿だ。ここ一、二年で首周りの毛が伸びたので、小さなライオンに見えなくもない。
数秒ほどのタイムラグを挟み、音声も拾い上げた。
『――へへっ。本来の姿でも指先はこんなに動くから、仕事の方には支障は来さないの。凄いっしょ島崎先輩』
『ああ凄い、凄いしその辺は解ったから、指をウネウネさせるのはやめてくれ。見ていて痒くなるから』
『島崎先輩ったら水臭いっすねぇ。え、もしかして、俺のもちふわボディに悩殺されちゃったんすか?』
『何言うてんねん雷園寺。君がフワフワなのは毛皮だけだろ! 毛皮の下はドン引きするぐらいカッチカチだろ! ブロンズ像みたいに』
投影術が拾い上げたのは、雷園寺雪羽と島崎源吾郎の、他愛もなくしょうもないやり取りだった。と、玉蘭の耳と口許が動き、喋り始めた。
『……サカイさん。雷園寺君たちは本当に仲が良いですね。不謹慎ですが、見ていて面白いと思うんです』
『ふ、二人とも男子だし、実力も近いから、やっぱり気が合うのよ』
玉兎の玉蘭は真面目に働いているし、事務所では特に差し迫った危機は無いようだ。今一度その事実を再確認し、萩尾丸は安堵した。何とも言えない気分が、鳩尾から込み上げてくる感覚もあるにはあったが。
見れば三國は、困りきった表情を浮かべている。自警団の副所長が辞去した直後に、大あくびをしていた時とは大違いだ。
「あ、あの皆さん。雪羽は……甥は今回の事情聴取で疲れ果てて、それで変化を解いてしまってるだけなんです。なので、なのであまり甥の事を責め立てないでいただきたいんですが」
「いや三國君。何処からどう見ても、雷園寺君は元気そうだったけれど」
冷ややかな声でツッコミを入れるのは、第五幹部の真琴だった。
三國もまた、雉鶏精一派の中では将来有望な若者に入る。大妖怪に食い込めるほどの妖力に加え、仲間に慕われる特有のカリスマ性は、上層部にとっては大切な才能だった。もっとも、彼はまだ若く率直で、考えた事を口にしてしまう事もしばしばだ。そうした部分が、彼を未熟者だと思わしめる要因になっているのだが、当の三國は気付いてすらいないのが現状だ。
気が付けば紅藤は、「変化を解いて業務を執り行う事を罰するルールなどない」と言っている。萩尾丸も別に、雪羽に何がしかの罰を与えるつもりはない。少しばかり小言を言うかもしれないが。
「今のところ、紅藤が捕虜として確保した玉兎は、特段悪さをしていないようね」
三國の事には特に言及せずに、峰白が淡々とした口調で告げる。紅藤と萩尾丸、そして青松丸の方をちらと見やりながら、彼女は言葉を続けた。
「とはいえ、現段階ではまだ猫を被っている可能性もあるわ。だから用心して向こうを監視しておくのよ。というよりも、監視は紅藤よりも萩尾丸の方が――」
刹那、何か強大な力を持つ者が舞い降りる気配をふいに感じた。また何かが来たのだろうか。そう思っていると、会議室のドアが開き、サカイスミコが駆け込んできた。
「す、すみません皆さん。あ、アポなしですけれど、来客です」
「本当にお客さんかい? 番犬として追い払うべき侵入者では無くて」
萩尾丸の言葉に、彼女は頷いた。
「本当のお客様です。な、なにしろ、西王母様の遣いだと名乗っているので」
打ち合わせはまだまだ長引きそうだ。おろおろと狼狽える部下を眺めながら、萩尾丸は静かに思った。