黒山羊たちのざわめき ※残酷描写あり
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場所は変わって山奥の工房。建物自体は山小屋風で可愛らしい雰囲気すらあるのだが、周囲の空気は禍々しく、重々しさを孕んでいた。
周囲には魔界のオジギソウやら血に飢えた樹木子や
もっとも、植物たちは無差別に来訪者に牙を剥く訳でもない。悪心を持つものの気配を嗅ぎ取り、血を絞り肉を裂くだけだ。目的があって工房に訪れる者、ただ迷い込んだ不運な者に対しては、少し不気味な植物たちでしかない。
それはそれとして、明らかに陽キャな気配を持つ雷獣の男が時折訪れてはしゃぎまわる事もあるにはあるのだが、それはまた別の話だ。
さて、工房内に話を戻そう。
工房の主にして母ナル黒山羊の千一匹目の仔を僭称する羊力小仙は、弟である玄三羊と共に細々とした作業に勤しんでいた。
作業というのも自分たちのための物だ。時には来客の依頼を受ける事もあるが、それとてささやかな、個人的(ないし個妖的《こじんてき》)な範疇のものでしかない。まぁ時に小規模な混乱や正気度の削減が起きる事もあるが、それはご愛敬である。
妖怪魔族の勢力を転覆させようだとか、大いなる邪神をこの地に顕現させようなどと言った、大それた事には決して手を染めない。それが羊力小仙のポリシーであり、若い頃に負った手痛い失敗から学んだ事だった。
もっとも――敬愛していた三人の義兄らを喪った事を、手痛い失敗という言葉で片づけられるのならば、という話であるが。
羊力小仙が気まぐれに作った弟妹達は、彼女の考えをおおむね理解してくれた。反抗し野心を持ったのは、側にいる末弟の玄三羊だけだ。その彼も、過去のやらかしを受けて野心はくじかれたのだが。
「――あっ」
「どうしたの、玄三」
彫刻刀を振るっていた玄三羊の指先が、僅かにズレた。加工を行っていた虎の仮面に、かすかな傷が走る。羊力小仙ならば誤魔化しつつ作り上げる所であろう。しかし玄三羊ならば、失敗したと言って打ち捨ててしまうかもしれない。玄三羊はあれで神経質なのだ。
玄三羊はしかし、疵の入った仮面など気にしていなかった。心ここにあらずと言った様子だ。いや、遠くにある何かに思いを馳せているようだ。
「伯洋児の気配がした」
数秒ほどしてから、そんな呟きが彼の口からまろび出た。
羊力小仙は一瞬呆気に取られたが、勢いよく頭を振って否定する。
「伯洋児の気配なんて気のせいだよ。さもなくば、君の願望が幻影にでもなったんだ。幻に惑わされただけなんだよ、君は」
玄三羊が在野の妖怪に唆されて作り出した伯洋児は、今はこの工房には――いや地上にはいない。
それは玄三羊の、そして羊力小仙に与えられた罰だった。玄三羊は伯洋児を作り出し、それによって龍を捕らえ世を支配しようとする妖怪たちの計略に乗せられていた。その事を知った羊力小仙は、弟を咎めた上で計略を持ちかけて唆した妖怪たちを弟に殺させた。弟に自身の愚かさを気付かせ、愚行を清算させるために。
だがそれが、結果的にはマズかった。
玄三羊が殺した妖怪の一匹である化け蛤は、前世にて西王母に仕える青鳥という神鳥だったのだ。この事に西王母サイドは大いに怒り、落とし前を付けるために玄三羊の首と生命を所望したのだ。抵抗したり拒否したりしたら、羊力小仙の係累を鏖にしても構わないという文句付きで。そしてその話は、羊力小仙と関りのある黒い仔山羊たちにも広まった。噂は千里を駆け巡るとはまさにこの事だろう。
いずれにせよ、だ。羊力小仙たちと西王母の眷属たちとの協議の末に、天界の神仙たちは伯洋児の身柄をもらい受ける事で手打ちとなった。
神獣とも魔獣ともつかぬ饕餮《とうてつ》の血を受け継ぐ伯洋児は、神仙に召し抱えられるべきだ――神仙たちはそのような美辞麗句を並べ立てていたようだが、つまるところ妖質である事には変わりはない。羊力小仙たちが悪心を抱いたり、伯洋児自身の出来が悪ければ、もちろん殺処分される運命にあるのだから。
玄三羊以外の弟妹達は「殺されずに済む」と喜んだし、神仙たちも新たな手駒ができたのだから、玄三羊の一件はこれで丸く収まった。
……羊力小仙としては、弟の代わりに自分の首と生命を差し出すつもりだった。そもそも玄三羊が化け蛤を殺したのは、彼女が命じたからに他ならない。何より、愚か者といえども弟を見殺しにする事は出来なかった。何もできずに、親しいものが生命を落とすのを黙ってみてはいられなかった。
ああしかし、神仙たちは羊力小仙の首を受け取らなかった。邪神たる母ナル黒山羊に連なる者である事を見抜いたうえで「聡明なお前こそが、他の弟妹の動きを制する要となる」という判断が下されたがゆえに、羊力小仙の生命は助かった。
あるいは、羊力小仙も玄三羊以上に愚か者なのかもしれない。あの時の彼女は、自分の死でもって弟分の罪過を贖おうと本気で思っていたのだから。死ぬ事は逃げに過ぎないと、いつだったか雉仙女も言っていた気がする。
ともあれ、だ。伯洋児が天界に召し抱えられたのは三、四年前の話だ。伯洋児は修行の最中であろうから、地上に舞い戻る事など無いはずだ。ましてや、天界の一日は下界の一年に相当するのだから。
理知的に、合理的に羊力小仙は考えようと努めていた。だが彼女も気付いていた――この工房から数十キロばかり離れた先で、伯洋児の気配を感じた事を。
だからこそ、彼女は努めて平静を装い、気のせいだと玄三羊に言い聞かせたのだ。幸いにも、工房の外では他の連中の気配も色濃く漂っている。玄三羊の注意が、そちらに向けられれば良いとも思っていた。
「……やっぱり姉上も、気付いておいでなのでは」
うっそりとした声が耳朶を打つ。羊力小仙は今一度首を振った。
「だとしても、ここから大分離れている。雉仙女様のねぐらあたりじゃあないかな」
「やっぱり気付いているじゃあないか」
玄三羊は羊力小仙を詰ったつもりだろう。それにしては、弱々しく乾いた声だったけれど。
羊力小仙は既に、玄三羊を正面から説き伏せる事は諦めていた。冷静ぶっていて直情的であるし、彼は心底伯洋児を愛していたのだから。
しかし伯洋児の話ばかり続けるつもりもない。羊力小仙はだから、話を逸らす事にした。
「すぐに解らなかったんだよ。ほら玄三。ここ最近は、私らの庭の周りでも獣たちが諍いを起こしているだろう。月のウサギと、土星の猫だったっけ」
「獣たちと言っても、どっちも地球外生命体じゃないか」
玄三羊は呆れたように小鼻をうごめかせている。気を逸らせる事は出来たようだ。
「しかし姉上。羊力小仙を名乗るほどの姉上が、そんな連中の小競り合いに神経をとがらせるとは思えんけどなぁ」
「植物たちが騒ぐんだよ」
「目が泳いでいるけれど」
愚直な割に、妙な所で勘が鋭いものだ。玄三羊と言葉を交わしながら、羊力小仙は思った。なお、月のウサギや土星の猫の殺し合いを小競り合いと言って片づける事ができるのは、羊力小仙たちが黒い仔山羊である事に起因している。本当の神ではないにしろ、母ナル黒山羊の直系の眷属なのだ。生半可な魔族や妖怪、あるいは他の神話生物などは物の数ではない。
羊力小仙は既に妖怪仙人の域に到達しているのだから尚更だ。
いずれにせよ、妙な所でツッコミを入れられてしまったが、それを誤魔化すべく言葉を続ける。
「ともかくだ。小物同士の小競り合いも近場で起きているし、それで私も君も心がざわついているんだよ。騒いでいるのは取るに足らない連中なんだから、気にせず放っておくのが一番さ――庭を荒らしたり、工房に殴り込みをかけてきたりと、向こうから喧嘩を売ってこない限りはね」
次の瞬間、庭に植えられた韃靼羊の甲高い絶叫が迸り、ほぼ同時に爆音が鳴り響いた。何が起きたのか。さしもの羊力小仙も正確に判断する事は難しかった。
好事魔多し。口は禍の元。冷静に慣用句を思い出した時には、既に工房の一角には巨大な風穴がぶち抜かれていた。羊力小仙も玄三羊も、ネズミめいた姿のズークの死骸や玉兎の残骸、そしてレンガの欠片をもろに浴びた。
防御術を心得ているので、二人とも一応無傷だ。とはいえ、ダメージを受けなかった事と何も感じなかった事は同義ではない。
玄三羊は佇立したまま震えていた。恐怖ではなく怒りが彼の身体を震わせていた。それでいながら、彼は満面の笑みを浮かべていたのだ。怒りが裏返ったが故の笑顔である事は、羊力小仙はもちろん見抜いていた。