カクレクマノミと妖狐の述懐
青いライトで照らされた水槽は、どうやら南国の海をモチーフにしているらしい。小さな、色とりどりの魚たちが緩やかに泳いでいる。中には水槽の中に設置されたサンゴ礁やイソギンチャクの中に隠れる魚もいた。
柔らかくそよぐイソギンチャクの触手の淡いから、小さな魚が顔を覗かせた。
「見てゴロー君。あれってカクレクマノミよね」
隣にいる米田さんが、明るい声を上げて水槽を指し示した。確かにカクレクマノミがいた。イソギンチャクの触手の合間を縫うようにして泳ぐ行動や、明るい橙色と白のまだら模様と、魚に疎い者でもそれと判るものだ。
本当だ。小さく呟くと、米田さんは少し興奮気味に告げる。
「ゴロー君も知ってると思うけれど、カクレクマノミを主役にした映画が
「……」
何処か嬉しそうな米田さんの言葉に、源吾郎はしかし即答できなかった。
クマノミが主人公だという映画は源吾郎も知っている。後に件の映画の影響で、カクレクマノミがペットとして脚光を浴びた事も。但し、件の映画もクマノミブームも、二十年近く前の話だ。二十四歳になったばかりの源吾郎にしてみれば、少し前の出来事とは言い難かった。
「ええと、その映画って、クマノミの親子の冒険の話ですよね。ええ、僕も一応知ってますよ。あの頃の俺は幼稚園生か小学生かってくらいの年齢でしたけれど」
「あ、ごめんねゴロー君。私ってば、他の妖怪のヒトと話すノリで少し前って言ってしまったわ。この間、ゴロー君の二十四歳の誕生日をお祝いしたのに」
「いえいえ。大丈夫ですって玲香さん」
源吾郎はその面に笑みを作って口早に告げた。米田さんは軽やかに言い放ったものの、申し訳なさそうな気配が滲んでいたためだ。
「僕も職場で純血の妖怪のヒトたちとも話す機会があるので、さっきみたいな話の流れになってしまうのは慣れっこなんです。それに、玲香さんが僕を同年代だと思ったのも、僕に貫禄が付いて来たからだと思うと、それはそれで嬉しいですし」
冗談を付け加え、源吾郎は微笑んだ。米田さんもつられて笑うかと思いきや、真面目な表情でまっすぐ源吾郎を見つめてくるではないか。
真剣な米田さんの目つきに、思わず緊張してしまう。源吾郎の緊張が最高潮に達する手前で、米田さんは相好を崩した。
「そうね、貫禄が付くというにはまだ早いかもしれないけれど、ゴロー君もぐっと大人っぽくなったと思うわ」
静かに微笑む米田さんの姿に、源吾郎も頬を緩ませた。米田さんと交際を始めた頃は、恋人というよりもむしろ弟のように扱われてばかりだった。その米田さんから、大人っぽくなったと面と向かって言われると、何かが認められたような気がして嬉しかった。
穏やかに、大人っぽく見える笑みを浮かべながら、源吾郎はどんな事を言おうかと頭の中で思案していた。嬉しい気持ちを表現したいけれど、仕事の事を前面に押し出したり、子供っぽい返答になるとよろしくない。
ある意味子供っぽい考えをこねくり回していたせいで、源吾郎は黙ったままだった。視界の端に水槽が映る。スズメダイか何かの小魚が、呆れた様子で源吾郎の姿を眺めているように感じられた。
※
四月二十八日。ゴールデン・ウィークの入り口付近であり平日でもあるこの日に、源吾郎は米田さんと水族館を訪れていた。
本来ならば仕事なり学校なりに出向いているはずの日に、何故水族館へ遊びに行く事ができるのか。
簡単な話だ。この日源吾郎は有給休暇を取得していたためだ。ついでに言えば、米田さんも長い遠征が終わり、比較的長期の休暇に入っている最中である。
元よりゴールデン・ウィークの前後にて、都合の合う日にデートしようなどと話し合っていた二人だ。休みが同じ日に重なれば、その日にデートしようと思うのは、自然な事であろう。ましてや源吾郎の場合、月世界への遠征の関係上、ゴールデン・ウィークはほぼほぼ潰れた形になるのだから。
源吾郎自身は、それほど刹那的・短絡的な考えの持ち主ではない。しかし束の間の休暇中に、米田さんとデートしても罰は当たらないだろうとも思っていた。
ゴールデン・ウィークが潰れてしまった理由については、まだ米田さんに話せずにいたけれど。
※
舞台は再び水族館に戻る。小ぢんまりとした内部には様々な趣向を凝らした水槽が展示されていたが、今それを見て回るのは源吾郎と米田さんだけだった。立地や知名度云々ではなく、平日の朝という時間帯だからだろう。親子連れや学生の客などは、休みの日に水族館に行こうと思い立つものなのだから。
しかも生き物たちの世話をする職員の姿も、ほとんど見かけなかった。時間帯が合わないからなのかもしれない。貸し切りで水族館を楽しんでいるというよりも、この場に自分たちだけしかいないような錯覚を抱いてしまった。
「玲香さん。仕事の一環で映画を見ていたという事ですけれど、それってどういう仕事だったのでしょうか」
奇妙な考えを振り払うべく、源吾郎は米田さんに問う。二人は既にカクレクマノミがいた水槽を離れ、淡水魚やイモリがいる水槽をぼんやりと眺めていた。水槽にいる魚たちは地味な色調だったが、そのせいかずっと見つめていても目が疲れなかった。それに考えてみれば、米田さんは生粋のホンドギツネである。赤や青に輝く魚を見ても、人間と同じような色覚でもって観賞している訳ではないのだろう。
米田さんは、源吾郎の方に視線を向けてから問いに応じた。
「どういう因果なのかは解らないけれど、悪さをする妖怪が映画館に逃げ込んだのよ。確か鵺か雷獣だったかしら。もしかしたら、化けイタチの類だったかもしれないわ」
「雷獣って、やっぱりごんたくれで悪さをする奴が多いんですかね」
源吾郎としては、軽い気持ちで言ったつもりだった。米田さんはしかし、険しい目つきで首を振った。
「たまたま悪さをしていたのが、雷獣か鵺か化けイタチだった。ただそれだけの話よ」
険しい目つきとは裏腹に、米田さんの言葉は落ち着いたものだった。表立って叱責された訳ではない。しかしだからこそ、源吾郎の罪悪感を一層刺激した。おのれの言動を十分恥じ入った後は、気まずさを払拭するように続きを促した。
「悪さというのも、私たちがその妖《こ》を懲らしめたというのも、別段大した事では無かったわ。人間たちは確かに困り果てていたけれど、全体的には子供の悪戯みたいなものだったんですから」
米田さんはここで、思わせぶりに言葉を切った。読み終えた本の余韻に浸るように、彼女は遠い目をしている。少し前と言いつつも、やはり二十年には二十年分の重みがあるのだ。
そんな事を思っていると、米田さんが再び口を開いた。頬を火照らせたその顔は恍惚としていて、思わずどきりとしてしまった。あまりにも色っぽく、妖艶だ。
「実はね、さっきのはいちかお姉様と一緒にやった仕事だったの。丁度暇と時間を持て余していて、そのせいで懐が寂しかった頃だったわ。いちかお姉様はその事に気付いて、それで私に声をかけて下さったのよ」
「つまり玲香さんは、叔母上と一緒にあの映画を見たから、カクレクマノミに思い入れがあるって事ですよね」
気付けば源吾郎は叫んでいた。念のためにと認識阻害を展開しているから、多少叫んだくらいではどうにもならないけれど。
米田さんは頷き、肯定の意を示した。未だ頬を赤らめる彼女の姿を、いたたまれない気持ちで源吾郎は眺めていた。
デートの最中に、彼女はいちかと映画を見た事を思い出し、甘酸っぱい懐かしさを味わっている。恋人にして将来の夫(予定)である源吾郎にしてみれば、由々しき話だった。
というのも――米田さんがかつて、いちかに淡い恋心を抱いている事を知っているからだ。もっとも、米田さんは同性愛者ではないし、両性愛者《バイセクシャル》という訳でもない。源吾郎と同じく異性愛者《ヘテロセクシャル》のはずだ。
しかし一方で、異性愛者の少女が、同性に惚れてしまう事もままあるらしい。米田さんが源吾郎の叔父・叔母に会ったのは数十年前の事である。当時は米田さんも少女だったのだ。姉のように振舞ういちかに対して、憧れの念と恋慕の念がごっちゃになるのも、致し方ない事なのかもしれない。
ついでに言えば、いちかは米田さんが抱える複雑な思いに、一ミクロンも気付いていなかった。色恋の機微に疎い叔母は、米田さんの事を可愛い妹分だと思い、姉のように慕ってくれる事にのぼせ上っていただけだ。
だからいちかと米田さんの間に、色恋的な何かがあった訳でもない。だから別に、源吾郎は何一つ戸惑う事は無いはずだ。頭ではそう思っている。それでも、米田さんのいちかに対する想いの片鱗を知ると、何とも言えない気持ちになってしまう。
仮に米田さんの秘めた恋心が、叔父である苅藻に向けられていたのなら、
ああしかし、俺が好んで変化する宮坂京子の姿が、若い頃の叔母上に似ているのが救いだろうか。というか玲香さんが叔母上の事を思って懐かしんでいるのなら、この後しれっと京子ちゃんに変化するのもアリだな――いや待てよ。俺は朝から何を考えているんだ?
異様な考えを頭から追い出すべく、源吾郎は小さく頭を振った。米田さんが、きょとんとした表情でこちらを見つめている。少しばかり思案し、源吾郎は言葉を紡いだ。
「ふと思ったんですが、もしかして玲香さんはクマノミを飼いたいと思われたのでしょうか。実は二番目の兄も、あの映画を見てカクレクマノミを飼いたいとか何とかって言ってたんですよ。母親とか長兄から『海水魚は飼うのが難しい』『そもそもクマノミを獲るためにサンゴ礁を破壊しているから良くない』と説き伏せられて、結局金魚で落ち着いたんですが」
口早に言い、源吾郎は僅かに目を伏せる。当時中学生だった誠二郎が、両親や長兄に表立って主張している姿は印象的だった。当時からのんびりとしていて多くの物事に興味を示さぬ庄三郎をも巻き込んでの主張だったから尚更だ。
今はかつてと違い、カクレクマノミも養殖個体が出回っているという。今クマノミを購入したとしても、宗一郎が懸念していたようなサンゴ礁の破壊にはつながらないだろう。
その事を言うよりも先に、米田さんが静かに首を振った。
「いいえゴロー君。私は別に、クマノミとか金魚が飼いたいと思っている訳じゃあないわ。ただ、クマノミを見て懐かしいなって思っただけよ」
それにね。表情の見えぬ、平板な顔を作って米田さんは言い添える。
「ゴロー君も知っての通り、私は仕事ばっかりやってるでしょ。何日も家を空けて、戻ってこない事もあるの。そんな状況だとペットを飼うのは難しいわ。サボテンとかならどうにか育てられるけどね」
サボテンを育てるのも結構コツがいるんですよ。米田さんを勇気づけるための言葉が脳裏に浮かぶ。しかし彼女の寂しそうな気配を感じ取り、口にする事は出来なかった。米田さんは尚も言葉を続ける。
「そう思ったら、ゴロー君は凄いわ。もちろん仕事も頑張っているけれど、ホップちゃんの事もずっと面倒を見続けているんでしょ。あの子もゴロー君の事を信頼して慕ってくれているじゃない」
アンニュイさを漂わせる米田さんを前に、源吾郎はぼんやりと笑ってごまかす事しかできなかった。
米田さんは強く、凛々しく振舞っている妖物である。そんな彼女でも、心の中には寂しさや至らなさを抱えていて、うつうつと悩む事もある。
ああしかし、彼女の側に自分がいたら、悩む事も少なくなるんじゃあなかろうか。それこそ、二人一緒ならばクマノミだろうと金魚だろうと飼う事ができる。取り留めも無く考えが浮かんだが、上手く言葉にする事ができなかった。
カクレクマノミが流行ってから、もう二十年も経った……ってコト?