源吾郎たちが水族館に滞在していたのは、結局のところ小一時間ほどの事だった。今回訪れた水族館は、使わなくなった公民館か何かを改装し、建物の中に水族館やレストランや花屋を入れて再利用している所である。
オープンして一、二年ゆえに目新しいが、老舗の水族館とはやはりコンセプトも勝手も違う。ちんまりと収まっているという印象はぬぐえなかった。
それでも、小規模ながらもコツメカワウソを二頭も展示し、あまつさえ握手会という名のふれあい体験を行っていた事には、流石に面食らってしまったけれど。
もっとも、源吾郎たちはコツメカワウソの握手会に感心しつつも、体験する事は無かった。相手が生粋の獣であり、源吾郎たちが妖魔の類である事を看破していたからだ。遠目でちらと見ただけでも、カワウソたちは源吾郎を警戒していた。餌を与えながらと言えども、近付いて触れ合っては可哀想ではないか。
いずれにせよ、源吾郎と米田さんは水族館を擁する建物を出て、すぐ傍にあるベンチに腰を下ろした。前述の通り、公民館の跡地を敷地ごと活用して、水族館以外の施設も併設されてある。植物園と半ば融合したレストランに花屋、ニジマスの泳ぐ生け簀に売店と言った塩梅である。そう言えば水族館を調べた時も、複合ネイチャー施設がどうと書いていた気もする。
「ねぇゴロー君」
果たして次は何をしようか。食事にはまだ早いし。そもそもレストランが人間向けだったら入れないよな――思案する源吾郎に米田さんが囁いた。
人間に擬態した彼女は、自慢の二尾を隠し黄金色の髪を暗い赤毛にカモフラージュしていた。その上で、セーラーカラーのシャツとやや幅の広い白ズボンに身を包んでいた。水族館に行くという事で、水兵をイメージしたファッションなのだろう。
全体的に白と水色を基調とした出で立ちの彼女は、陽光の下では浮き上がっているように源吾郎には見えた。
「水族館にはほんの少ししかいなかったけれど、別に良いの?」
「ええ。展示されている生き物は一通り見ましたからね。カワウソたちは怖がるんで遠目に見ただけですが。でも外の池の鯉にも餌をやったりしましたし、十分堪能できましたよ、僕は」
言い終えてから、源吾郎は米田さんの瞳をじぃっと見つめた。
「もしかして、玲香さんはまだ見たい物とかありました? カクレクマノミの事を、結構気にされていましたし」
デートなのに、俺ってばまた迂闊な事をしてしまったな。自責の念とも自己嫌悪ともつかぬ感情が、源吾郎の心にずしりとのしかかる。
米田さんが、特段反対せず意見も言わないのを良い事に、ほぼ自分のペースで展示されている生き物を眺めて回ってしまった。しかも何故か、この水族館では蛙や蛙を思わせる魚たちの展示が多かった。月棲獣の影響で蛙や両生類をあまり見たくないと思っていた源吾郎だ。そうした生き物たちは、ちらと一瞥して素通りするなどと言う事を繰り返してしまったのだ。
更に言えば、この水族館では再入場が出来ない。未練があって再び水族館に入場するには、もう一度入場料を支払わなければならないのだ。
仮に玲香さんが水族館に入りたいというのなら、その時は俺が彼女の分の入場料も支払おう。密かに決意したまさにその時、米田さんがゆるりと首を振った。
「別に私は大丈夫よ。カクレクマノミは、見て懐かしいなって思っただけだもの。それに最近だったら、熱帯魚屋さんでも見かけるし」
ただ……長いまつ毛の下に翳りを宿しながら、米田さんは言葉を続けた。
「今日のゴロー君ってば、生き物を見ている間も上の空って感じだったから。少し心配しちゃったのよ」
気遣わしげな米田さんの眼差しを受け、源吾郎はあうあうと間の抜けた声を上げてしまった。目を白黒させながらも、彼は言葉を紡いだ。
「いえいえ玲香さん。俺も俺で十分楽しめましたよ。カワウソやアヒルたちは怖がらせないように気を遣いましたが、池での餌やりで鯉とか金魚に触れ合う事も出来ましたし。ああ、餌やりは触れ合うとは言いませんかね」
つとめて明るい声音で言い、更に源吾郎は笑って見せた。米田さんは静かにこちらを見つめるだけで、源吾郎の笑い声はむなしく響くだけだった。
池の鯉たちの懐っこさ、あるいは食欲への忠実さは、確かに源吾郎の心を和ませた。それは事実、だった。
無言で米田さんと見つめ合う。仮初の笑顔も消え去り、源吾郎も真顔になっていた。
「こんな事は、ここでは言うべきじゃあないとは思うんだけど……やっぱりゴロー君も、一昨日の騒ぎが気にかかっているのよね?」
米田さんの言葉に、源吾郎は何も言えなかった。一昨日の騒ぎというのは、土星猫と玉兎たちのセンター内での乱闘の事だ。源吾郎も、米田さんには「何かヤバい事が起きた」とだけ連絡を入れてはいた。しかし彼女の顔を見て確信した。源吾郎が伝えた事以上の事を知っているのだろう、と。
「玲香さんも、あの騒動はご存じなんですね。土星猫や月棲獣とかいう地球外生命体が、野良猫とか玉兎と闘っている事を。僕ら雉鶏精一派が巻き込まれた事を」
「そりゃあもちろん知ってるわ。だってちょっとしたニュースにもなったほどですもの」
少し呆れたような口調で米田さんは言った。確かにあの乱闘はニュースになりかねない。単なる小競り合いではなく、玉兎も土星猫も月棲獣の奴隷も複数名生命を落としたのだ。雉鶏精一派サイドの死傷者は出なかったと言えども、被害はあったし抗争に巻き込まれた形ではある。
源吾郎にとっては単なる振り替え休日だった昨日とて、取材班やらマスコミやら何やらの応対で忙しかったという噂も耳にしている。
恐る恐る、源吾郎は米田さんの顔を見た。彼女は純粋に源吾郎を心配している。
説明せねばならない。頭では解っていたが、言葉が出てこない。自分でも、何がどうなっているのか、杳として解らなかった。
「ええ、まぁ。玲香さんの仰る通り、一昨日の騒動の事が忘れられずにいるんです。とんでもない事が起きたんですけれど、何がどうなっているのか解らないので……取り敢えず、この連休は丸つぶれで、僕は明日から出勤しないといけないんです。出勤だけじゃあなくて、この間の玲香さんみたいに、遠征も控えているんです」
米田さんが口を開き、何か言おうとした。その時ベンチの脇にいた雀たちが一斉に飛び立ち、二人して雀に気を取られてしまった。鳥たちの羽音の向こうで、薄汚れた野良猫が、のっそりと横切っていくのが見えた。
※
「おお。奇遇だな島崎君に米田さん。君らが仲良くデートしている所に出くわすなんて」
雉鶏精一派の第八幹部たる三國は、源吾郎と米田さんの姿を認めるや、さも嬉しそうにからからと笑った。豪胆な笑い声は、小さな雷鳴のように感じられたのは気のせいでは無かろう。何せ相手は雷獣なのだから。
話は数分前に遡る。ベンチに座ってぼんやりしていても何だからと、源吾郎と米田さんは花屋だのレストランだのを眺め、昼食をどうするか思案していたのだ。デートの際の食事は、弁当を持参する事もあれば近くの料理屋で済ませる事もある。
今回は後者だった。但し、複合施設内のレストランは案の定人間向けであるから、他の場所を当たらねばならなかった。
あるいは生け簀のニジマスを釣って、売店でワタを抜いて焼いてもらったものを昼食にするというのもアリだろうか。米田さんと相談し合い、生け簀の方に向かおうとしたまさにその時、聞き覚えのある声が投げかけられた。そこで振り返ると、三國と彼の部下がいたという次第だ。
「あ、え、三國、さん……?」
電撃に撃たれたような驚きを覚えつつ、源吾郎は何故ここにいるのかと三國に問うた。源吾郎の言葉はたどたどしく、敬語も所々抜け落ちていた。それでも三國は一向に気にせず、微笑みながら問いに応じてくれた。
「何、堀川君や飯綱さんと一緒に食材の搬入をやっていたんだよ。へへっ。ここのレストランとは半年前から契約をしていてね。島崎君ならさ、雪羽辺りから話を聞いているんじゃあないかな」
「…………聞いていた、かもしれないです」
即答できずに、幾らか間を置いて応じるのがやっとだった。雪羽は職場でも、叔父夫婦が仕事でどんな事をやっているのか結構教えてくれる。情報量が多すぎて、一つ一つは覚えていられないのだ。
三國の視線は、既に源吾郎から外れて米田さんに向けられていた。真剣な表情を一瞬浮かべ、それから柔らかな笑みを作ったのが見えた。
「ああしかし、米田さんも一緒で良かったよ。というか俺、丁度米田さんに会いたいと思っていたからな」
「え、それって……」
「そうだったんですね」
米田さんに会いたいと思っていた。三國のこの主張を、源吾郎はセクハラの類と捉える事は無かった。三國は切羽詰まったような、真剣そのものの表情で源吾郎たちを見つめていたのだから。
仮初の笑みを作る事すら放棄して、三國は言葉を続ける。
「米田さんに島崎君。俺たちはここの店主と打ち合わせをした後に、近くの料亭でお昼にしようと思っているんだ。もしよければ、あんたらも付いて来ないか。店の中なら、ゆっくりと落ち着いて話もできるしさ」
「私たちがお昼を摂るのは、料亭ではなくて和食屋でしょう。あんまり大げさな事を言うから、島崎君が驚いているじゃあないですか」
硬直している源吾郎を見かねたのか、管狐の飯綱美咲がそう言って上司をたしなめていた。だが実際のところ、料亭という単語に面食らったのか、三國から米田さん諸共昼食に付き合えと命じられた事に驚いたのか、源吾郎にはよく解らなかった。
飯綱に注意されたからなのか、三國もやや相好を崩して言葉を続ける。
「何、君らは今オフだろうから、別に強制じゃあないよ。ただ、俺が個妖的《こじんてき》に話したいなぁって思っただけでさ。
もし一緒にお昼を摂りたいと思ったら、二十分後にまたこの場所で合流しようや」
それじゃ、打ち合わせがあるから。三國は軽く手を挙げると、堀川や飯綱を連れて源吾郎たちの前から去った。呆気に取られつつ、源吾郎はやっとの思いで米田さんに目配せしたのだった。