結局のところ、会合の場となった和食屋には小一時間ほど滞在する事になった。食事自体は二、三十分で終わったのだが、その後の腹ごなしや雑談などを交えていたからだ。
皆の支度が整った所で、三國は会計を済ませると言って立ち上がった。源吾郎と米田さんは、彼に追従する堀川たちの後に付いた。他の客の邪魔にならぬように気を付けつつ、三國が会計を済ませるのを、いくばくかの気まずさを抱きながら源吾郎は眺めていた。
通常、外出先での食事代は経費で落とす事となっている。仕事先で同僚や部下、あるいは取引先の相手と食事を摂る事もまた、仕事の一環と見做されるためだ。
しかし、今回三國が源吾郎たちと行った食事は、仕事の一環とは言い難かった。源吾郎は仕事でも何でもなく、有給を使って恋人とデートしていただけなのだから。ついでに言えば、米田さんは雉鶏精一派の構成員ですらない。
従って、今回の昼食代は三國のポケットマネーから支払われる事となったのだ。俺がお金を出すから平気、などと言われてしまい、その言葉に甘んじる事しかできなかった。というよりも、ここで頑なに奢られる事を拒否すると、三國の面目を潰す事になりかねない。
三國が会計を終えるまでの時間が、やけに長く感じられた。気まずい思いが、目の前で繰り広げられる光景をスローモーションのように上映していただけなのだが。
こちらをじっと見つめている事に気付いたらしい。釣銭を財布に収めながら、三國は茶目っ気たっぷりな眼差しを源吾郎に向けた。
「どうした島崎君。浮かない顔をしているみたいだけど」
「おごっていただいたのが、申し訳なくて……」
三國が率直に問いかけたせいか、源吾郎も正直に思っていた事を口にしてしまった。米田さんが困ったような笑みを浮かべながら、「ここはご馳走さまって言うだけで大丈夫なのよ」と囁いていた。
堀川と飯綱が思わせぶりに目配せしている。面倒臭い後輩だと思われたに違いない。三國はしかし特に気にする素振りも見せずに、鷹揚に笑っていた。
「ああ、もしかして俺の懐事情を心配してくれているのかい。そんなの大丈夫だって。米田さんも島崎君も、天ぷらだの海鮮フライだのと実に庶民的な物を選んでいたじゃあないか。何かこう……高級料理でも頼まれたら俺もちと困っていたけどな」
それにな。一度言葉を切り、仕切り直しだと言わんばかりの表情を見せてから、三國は言い添えた。
「今は俺のポケットマネーで支払ったんだけど、後でその分は萩尾丸さんが補填してくれるって言ってくれたんだよ。ああもちろん、そのお金も会社の経費とは無関係で、萩尾丸さんのポケットマネーさ。あの妖《ひと》もあの妖《ひと》で、お金のやりくりには長けているから、心配する必要はないさ」
三國の言葉は、源吾郎にとってまさしく衝撃の一言に他ならなかった。三國に私的な理由で昼食をおごってもらうだけでも気まずいというのに、巡り巡って萩尾丸のポケットマネーで飲食したという事になるとは!
しかもあの萩尾丸の事だ。三國に誘われて乗ったと言えども、食事をおごってもらった事をネタにして何かとからかってくる可能性とてある。食事がフライだったという事もあり、源吾郎は早くも胃の腑がずしりと重たくなるのを感じてしまった。
※
三國は、源吾郎たちに昼食をおごっただけではなかった。雉鶏精一派の本部に立ち寄るついでに、源吾郎と米田さんを参之宮近辺まで送っていくと申し出てくれたのだ。
何から何まで至れり尽くせりではないか……戸惑い、申し訳なさを感じつつも、彼の申し出を受け入れた。例によって米田さんは反対しなかった。むしろ「送ってもらう
彼女から漂う気迫――獣の本能か、はたまた兵士としての勘か――に圧され、源吾郎は頷くほかなかった。
「何、持ちつ持たれつってやつさ」
車内にて。感謝よりも謝罪の念を口にしてしまった源吾郎に対し、三國は言った。彼らしい、鷹揚な笑い声を伴いながら。
「島崎君には、ずっと甥の雪羽が世話になってるからな。俺たちに島崎君の話をするとき、雪羽は『お兄ちゃんがいたらこんな感じかな』って言う事があるくらいだぜ。女房や春嵐も言うんだけどさ、島崎君と雪羽が仲良くなって、本当に良かったとみんな思ってるんだ。心からな」
三國の言葉に、源吾郎は曖昧な声を出して頷くのがやっとだった。雪羽が、源吾郎の事を兄貴分のように思っている事は、大分前から知っていた。雪羽自身の口から、そうした話を聞かされた事すらあった。彼にとっての「兄」は、一緒に遊んだり時々物を教えたりする、年長の男性の事を示しているのだろう。源吾郎はだから、雪羽が自分を兄貴分と見做す事を黙認していた――自分は雪羽の事を、弟分と思う事は
「それにな」
声のトーンを僅かに落とし、三國は続ける。
「実を言えば、島崎君たちを見かけた時から、ずぅっと妙な胸騒ぎを感じていたんだよ。もしかしたら、月のウサギとか月棲獣とか土星猫とかの、地球外生命体共のけったいな話を聞いて、神経質になっているだけかもしれん。だけど、そうだとしても、何もせずスルーするよりはましだと思ったんだ」
社用車の内部が僅かに揺れる。三國の操るハンドルの揺れが、そのまま車体の動きに直結したらしい。八尾の雷獣たる三國は気にせずに言葉を続ける。
「仮にあんたらが、善からぬ事に巻き込まれて死んじまったりしたら、雪羽が哀しむからな。そうでなくとも――俺は
良いか島崎君。誰も彼も、ずぅっと生き続けますなんて顔をして過ごしているけどな、死ぬときは死んじまうんだよ。雷獣もお狐様もウサ公も天狗も鳥もみんな同じさ。そういう宿命からは、逃れられん」
三國の述懐に、源吾郎は何も言えなかった。朗らかな笑顔でもって昼食を誘った三國が、その裏でとんでもない考えを抱えていた事を、今の今まで気付けなかった。
しかも彼の主張には、途方もない重みが伴っていた。身内の死を間近で見てきたが故の事なのだろう。三國の近辺で早世したのは、何も雪羽の母親だけ
身内の死など未だ知らぬ源吾郎は、話す代わりに視線を隣に向けた。米田さんは一度瞬きすると、静かに頷いた。
「三國さんのお気持ちは、私もよく解ります。仕事柄、というのもありますが、元は野山を駆ける獣だったので。私自身も、今日が狐生《じんせい》最期の日になりかねないと思いながら過ごしておりますし」
「れ、米田さん……」
今日で自分の寿命が尽きるかもしれない。そうした考えがある事、米田さんがその考えに則って生きている事は源吾郎も知っている。しかし源吾郎は、嘆息の声を上げずにはいられなかった。
信号が青から黄色、そして赤へと変化する。三國は車を停めた。先程とは異なり、緩やかな停車の仕方だ。バックミラーに映る彼の顔に、笑顔が貼り付いているのが見えた。取り繕ったような笑みだったけれど。
「おう、うん。湿っぽい話になっちまって悪いな。俺が言いたいのは、米田さんと島崎君を途中まででも車で送って行けば、その間は君らの安全も確保できるって話だよ。仮に月棲獣とか土星猫とかが襲ってきたとしても、俺が返り討ちにしてやる。なんせ俺は強いんだからな」
何なら車から降りずに轢き殺しても構わないんだがな。続く三國の言葉に、源吾郎は米田さんと顔を見合わせた。飯綱がすかさず「社用車でそんな事をやったら、萩尾丸さんたちから大目玉を喰らいますよ」と至極マトモなツッコミを入れている。
車を使った月棲獣への攻撃はさておき、三國が強い妖怪である事は紛れもない事実だ。百五十数歳と妖怪としては若いものの、八尾としての妖力を保持した大妖怪なのだ。有象無象の妖怪ならば、三國に睨まれた
膨大な妖力に種族として裏打ちされた能力。この二つを鑑みるに、三國は極めて頼もしい戦士である事は言うまでもない。というよりも、彼が本気で闘ったら何が起きるのか、源吾郎にも解らないほどだ。
なお、雉鶏精一派の幹部陣の中で三國の強さが際立つシーンが少ないのは、彼を「ごんたくれの若造」とあしらえる連中が集まっているからに他ならない。
先程はしんみりとしてしまった車内であるが、三國が話題を変えてくれたおかげで、再び朗らかな雰囲気が戻ってきた。
彼によると、雪羽は今日は会社を休んでいるのだという。体調不良とかではないのだが、しんどいだの疲れただのと言うので、紅藤に連絡して休ませたとの事だ。
ここ数日の間に様々な事が起きたがために、メンタル的な疲れが出たのだろうと三國は言った。源吾郎も三國の考えには異存は無かった。明るく闊達に振舞うものの、精神的に脆い部分がある事を、源吾郎も知っているからだ。
だが一方で、雪羽が休んだのは、今日自分が有給を取っている事とも関係があるのかもしれない。そんな考えも、頭の中にはふと浮かんでしまった。
※
そろそろ雉鶏精一派の本部だろうか。見慣れた場所だし、降ろしてもらうように三國さんにお願いしようか。思案しながら米田さんと目配せしていたまさにその時、源吾郎は思いがけぬ姿を見つけ出した。
車道と歩道を隔てるポールの向こう側には、叔父の苅藻が歩いていたのだ。源吾郎の視線に気づいたのか、足を止めこちらに視線を向けているではないか。