紅藤たち一行が研究センターの事務所に戻ると、萩尾丸がすぐに出迎えてくれた。窓越しにちらと見た時には、テーブルに向かって書類整理を行っていたにもかかわらず、だ。
「お帰りなさいませ、紅藤様。今回の打ち合わせも長丁場でしたから、お疲れではありませんか」
いやに丁寧な口調で萩尾丸は告げる。慇懃無礼な気配はない。心底からの恭順と、労いの念が、彼の声には籠っていた。
紅藤は明るく無邪気に頷く。萩尾丸の、気遣わしげな眼差しとは恐ろしいほどに対照的だった。
「うふふ。私は疲れてないから大丈夫よ。黒山羊のお姉様や青鳥様ともお話できて、とっても有意義だったわ。お姉様や玄三羊《げんぞうひつじ》君からは、お土産も貰ったしね。だけど――私たちの事を気遣ってくれてありがとう。感謝するわ萩尾丸」
童女めいた屈託のない口調ながらも、紅藤は感謝と労いの言葉を口にしていた。
やはり紅藤様は上司の鑑だな。雪羽と共に、源吾郎は深く感嘆しながら、紅藤の横顔をじぃっと見つめていた。
紅藤に直接話しかけられた萩尾丸は、しかし源吾郎たちのように感嘆の念は見せていない。むしろ軽く眉を寄せ、怪訝そうな表情すら見せている。しかも彼が見つめているのは、紅藤の顔ですらなかった。
萩尾丸は、紅藤が右手に提げている布袋を凝視していたのだ。
「紅藤様も、さほどお疲れではないとの事なので一安心いたしました。して、そちらのものは一体なんでしょうか」
ああこれね。相変わらず紅藤の声には屈託がない。右腕を動かし布袋を上下させながら、紅藤は弾んだ声で続ける。
「この間、玄三羊君がミルクを出したって事で、黒山羊のお姉様から分けて貰ったのよ」
「玄三羊のミルクって……なんちゅう物を貰ってるんですか!」
笑いを噛み殺すべく身構えるよりも、萩尾丸の叫びの方が早かった。
羊力小仙と玄三羊の本性は、単なる山羊や羊の妖怪ではない。黒い仔山羊と呼ばれる存在だ。妖怪たちに混ざって過ごすために人間や半獣の姿を取っているが、獣たちとは全く異なった存在だ。それ故に、獣妖怪とは違う特徴を幾つか具えていた。
両性具有というのも、彼らの最大の特徴であろう。羊力小仙たちは姉弟であるように振舞っていたが、実際には両者ともにオスとメスの特徴を具えているのだという。従って、弟として振舞っている玄三羊も、ミルクを出す事が出来たわけだ。
その話を聞いた時には、源吾郎は大いに驚き、雪羽は「男がミルクを出すなんて!」面白がって笑い転げていた。その時の
余談であるが、羊力小仙が女として振舞い、玄三羊が男として振舞っているのは、彼らの
いずれにせよ、羊力小仙たちも月棲獣と玉兎の騒動についての打ち合わせに参加してくれた事、玄三羊が伯洋児と共に月世界遠征に参戦してくれる事は有難い事だった。玄三羊にしろ伯洋児にしろ、敵に回れば厄介な存在だが、味方につけば心強い戦力になるのだから。
さて萩尾丸と紅藤はと言うと、貰ったミルクについての問答を、早くも行っていた。
「萩尾丸。折角黒山羊のお姉様が、私にってお裾分けしてくれたのよ。それなのに、ゲテモノでも貰った言い方をしたら、お姉様や玄三羊君に失礼よ」
「おっしゃりたい事は解りますが、黒い仔山羊のミルクなど、何処からどう考えてもゲテモノではありませんか。普通の人妖が口にすれば、彼らの眷属に変質してしまうそうですし」
「あら。母ナル黒山羊や黒い仔山羊のミルクを飲んだからと言って、必ずしも変質してしまう訳では無いわよ? 変異する確率は、せいぜい二、三十パーセントと言った所だそうだわ。それよりも、新しい権能を得る確率の方が高いって、お姉様も仰っていたわ」
「二十パーセント
萩尾丸はここまで言うと、深々とため息をついた。紅藤との問答に疲れ果て、もはや何も言いたくないと言わんばかりの雰囲気である。
しかし言うべき事は言っておかねばならぬと思ったのだろう。彼は鋭い眼差しでもって紅藤の顔を直視した。
「紅藤様。僕は玄三羊どののミルクを飲むのは遠慮しておきます」
「無理強いなんてするつもりはないから、安心してちょうだい」
萩尾丸の主張を受け入れつつも、紅藤は何処か残念そうだった。
彼女の視線が横にスライドする。直後、隣にいた雪羽が声を上げた。
「べ、紅藤様。僕は黒い仔山羊のミルクにアレルギーがあるんです! の、飲んだ事無いですけれど」
飲んだ事無いのにアレルギーなどと言うのは無理があるのではなかろうか。そんな事を思っている間に、紅藤と目が合った。
顔を火照らせ、しかし尻尾の毛は逆立てつつ、源吾郎も弁明した。
「紅藤様。く、黒い仔山羊のミルクは、是非とも紅藤様でご賞味ください。そうおいそれと手に入るような物ではない、物凄く珍しい珍味なんですよね。ぼ、僕みたいな下賤な狐が味わうには、勿体ない代物ですよ」
横から視線を感じる。雪羽が目を半開きにしてこちらを眺めていた。雪羽の言葉はツッコミどころ満載だったが、源吾郎の言葉もどっこいどっこいと言った所であろうか。
ともあれ、紅藤は少ししょんぼりとした表情を見せていた。オブラートに包んだとはいえ、部下たちが手土産をことごとく拒絶したからだろう。申し訳ないとは思う。しかし生憎と、怪しいものを嬉々として摂取するような胆力は無かった。
と、ここで玉蘭が口を開いた。
「紅藤様。黒い仔山羊のミルクですが、私は興味深いものだと思っております。ああですが、飲んで眷属になりたいだとか、何がしかの権能を得たいという訳ではありませんが」
飲むかと勧められる事でも恐れたのだろうか。飲みたいわけではない、というくだりの部分は、やや口早に玉蘭は言ってのけた。紅藤は不思議そうな表情で、玉蘭と手土産のミルクとを眺めている。
紅藤の視線に多少気圧されつつも、玉蘭は告げた。
「黒い仔山羊のミルクを濃縮・加工すれば、ある種の化学兵器として用いる事が出来るのではないでしょうか」
「化学兵器ですって」
「それは剣呑な考えではないかね、望小姐どの」
玉蘭の言葉に、研究センターの空気が冷えていく。紅藤の顔には、先程とは別種の戸惑いの色が浮かんでいる。萩尾丸に至っては、その眼差しに冷ややかな敵意すら滲み出ていた。
源吾郎も、上司たちの変貌に一応戸惑った。薬に馴染み薬学を会得した玉兎だから、化学兵器という単語が出てきたのだと、呑気な考えを巡らせてもいたが。
将校として兵を束ねる事もある玉蘭は、表情を変えずに言葉を続ける。
「いえ、いえ。化学兵器と申しましても、吹きかけられた途端に全身の毛穴から血や体液を噴き出して悶死するような、そのような物騒な代物ではございません。そんなものを戦場で使ったら、敵も味方も共倒れになってしまいますからね」
「……望小姐さんの発想自体が物騒なんだが」
「皆まで言わなくて良いぞ雷園寺。俺も同じ事は思っている」
コソコソと囁く雪羽に対し、源吾郎は冷や冷やしながら囁き返す。いかな捕虜と言えども、玉蘭の考えを真っ向から否定するような事を語らっているのだ。怒りを買えば恐ろしい事になる。
臆病風に吹かれつつそんな事を思っていた源吾郎だったが、幸いな事に玉蘭たちは二人のコソコソ話に気付いていなかった。
ついでに言えば、紅藤や萩尾丸たちの表情は、「物騒な代物ではない」と聞いてからいくらか和らいでいる。
紅藤様。いささか得意げな声音で、玉蘭は問う。
「黒い仔山羊の……あるいは母ナル黒山羊のミルクを摂取した者は、身体が変質して彼らの眷属になるという話でしたよね。そうして変質した眷属は、黒い仔山羊の意のままに操れる存在になるのでしょうか」
「ごめんなさい。このミルクにそこまでの権能があるのか、私は断言できないわ」
突飛な玉蘭の質問に対して、紅藤はごくごく真面目な様子で返答した。申し訳なさそうな表情すら浮かべながら。
「だけど、黒い仔山羊のミルクを媒介して、飲んだ相手をある程度制御するって事は可能だと思うわ。母ナル黒山羊や黒い仔山羊の体液には、生き物を自分の眷属にする権能があるものね。もちろん、眷属にしたから洗脳したみたいに操れるって訳じゃあないでしょうけれど」
紅藤の言葉が終わるや、玉蘭の顔が僅かに曇った。その事に気付いた萩尾丸が、間髪入れずに問いかける。
「つまり、だ。黒い仔山羊のミルクやそれを基にした物質を散布して、月棲獣や土星猫たちに摂取させようという魂胆だね? そうすれば月棲獣たちは黒い仔山羊の眷属となり、玄三羊君には逆らえないから無力化できる。下手をすれば味方を増やす事が出来る。そんな風に考えたんだろう」
「その通りです」
頷いた玉蘭は、紅藤が未だ持つミルクに流し目を向けた。
「とはいえ、私の思惑通りに事が進むかどうかは解りませんが」
大丈夫よ。いくらか上気し、弾んだ声でもって紅藤が呼びかける。
「そんな風に利用しようと考えているのなら、今からでも黒山羊のお姉様に聞いてみましょうか。このミルクの事は、私よりもお姉様や玄三羊君の方がうんと詳しいでしょうから」
「まぁまぁ紅藤様。羊力小仙様もお忙しいでしょうし、化学兵器とやらについてももう少し考えてからやってみた方が良いと思いますよ。
それに島崎君たちも、どうすれば良いか解らなくて悩んでいるみたいなので」
そう言いつつ、萩尾丸は源吾郎たちにデスクへ戻るようにと手で促した。問答が始まってから、二人してずっと立ちっぱなしだったのだ。
二人には後で話があるから、