午後五時四十五分ごろ。源吾郎と雪羽は萩尾丸に先導され、研究センターの居住区内を進んでいた。雪羽の手には萩尾丸が手ずから記したメモが握られており、源吾郎に半ばくっつく形で歩いている。
「近いな」
暑苦しいから少し離れてくれ。言外にそんな意味を忍ばせてみたものの、雪羽には伝わらなかったようだ。それどころか、メモを見ずに進む源吾郎の眼前に、自分が手にしている紙片を差し出す始末である。
「てかさ、島崎先輩はメモを見なくても良いんですか? 一応、居住区の部屋の番号とか書いてあるんですよ。もしかして、先輩はずっと居住区暮らしだから、俺みたいにメモをちまちま見なくても、別に大丈夫ってやつですかね」
「いや、まぁ、微妙だな」
せっつくように問われた事もあり、源吾郎は言葉を濁しつつ告げるのがやっとだった。居住区暮らしだから間取りに慣れている。素直にそう言えば話は丸く収まる事は、源吾郎もよく解っていた。
しかし実際には、源吾郎も歩を進めながら戸惑っていた。居住区の内部は知っている。だからこそ当惑していたのだ。廊下はこれだけ長かったか。そもそも部屋の数が多くなっていないか、と。
源吾郎の心中を察したように、やおら萩尾丸が肩越しに振り向いた。源吾郎と雪羽を見下ろす瞳には、例によって人を喰ったような笑みが浮かんでいる。
「居住区の間取りがいつもと違うと思っただろう? 無理もない話さ。居住区の管理は紅藤様が行ってらっしゃるからね。新しい部屋や間取りを作ったり、逆にアクセスしてほしくない場所を術で覆い隠したりする事なんて造作も無いんだよ」
「ええ、はい。そうでしたね」
「確かに、そんな術式が展開されてますもんねぇ」
萩尾丸の言葉に、源吾郎と雪羽はただ思った事を口にしただけだった。
驚きの念は無い。紅藤は強大な妖力を具えた妖怪仙人だ。萩尾丸の言う通り、居住区の間取りを変更し特定の場所を術にて秘匿する事などお手の物だろう。
更に言えば、雪羽や米田さんは、居住区内に施された
もしかしたら、雪羽や米田さんと言った一定レベルの妖怪が勘付けるように、敢えて仕掛けの気配を漂わせているのかもしれない。
さて話を戻そう。そもそも何故源吾郎たちは、居住区内を進んでいるのか。
月世界の遠征に向かう間、萩尾丸は研究センターに寝泊まりする事となった。そこで紅藤が、寝泊まりのための部屋を準備し整理してくれたのだという。今まさに、その部屋に萩尾丸は源吾郎たちを招いている最中なのだ。
間取りが変化したのも、そうした影響になるのだろう。源吾郎が推理しているうちに、早くも目的地に到着した。部屋の入口たるドアは、源吾郎が暮らしている部屋のドアと全く同じ作りだった。
「さて。ここが月世界遠征の間の詰め所なんだ。紅藤様も青松丸君もいないから、僕が寝泊まりして護っておかないと不用心だからね。サカイさんもいるけれど、彼女だけじゃあ対応しきれないし」
言葉を切ると、萩尾丸は思わせぶりな眼差しを雪羽に向ける。
「諸般の事情で、雷園寺君もこの部屋に泊まる事になったけれど、それは些末な事さ。何せ君は、元々からして僕の家で寝泊まりしているんだから」
いくらか間を置いてから雪羽が頷いた。元より彼が萩尾丸の屋敷で寝泊まりし研究センターで働いているのは、不祥事による罰と再教育によるものだった。全ては雪羽の保護者たる三國が彼を甘やかし増長させたのが原因だ。ならば三國から雪羽を取り上げ、然るべき教育を行って更生させねばならぬと、萩尾丸はあの時判断した。
六年近い歳月が流れ、雪羽は無事に更生した。もはや懲罰も再教育も終わっている。それでも雪羽は依然として、平日は萩尾丸の屋敷で寝泊まりしている。仕事のある日は萩尾丸の屋敷に戻り、休日は三國の家に戻るという暮らしが、雪羽の中で習慣化してしまったのだ。
そういう意味では、この度雪羽が萩尾丸の寝泊まりする部屋に招かれたのは、ごく自然な事である。
「あの、萩尾丸先輩」
であれば、何故俺にもこの部屋を紹介したのか――沸き上がった疑問を、源吾郎はタイムラグなしに口にしていた。
萩尾丸はニヤリと笑い、源吾郎の瞳をじぃっと覗き込む。
「君が紅藤様と共に月世界へ赴いている間に、ホップ君の面倒を見ようと思っていたからね。君の事だから、留守の間ホップ君をどうするか、まだ考えあぐねていた所だろう。
この件については、雷園寺君も関わる事になったから、それで二人まとめて呼び寄せた次第さ」
付いてきたまえ。見れば解るから。矢継ぎ早に告げたかと思うと、萩尾丸は二人を部屋の奥へと誘った。
※
部屋の奥に辿り着いた源吾郎は、驚きのあまり目を瞠った。萩尾丸らしく、小ざっぱりとして殺風景な部屋だと思っていた――奥まった場所に位置する棚を目にするまでは。
背の低い棚の上には、鳥籠と水槽が一つずつ並んでいた。しかも鳥籠と水槽の間には、もう一つ鳥籠を設置できるほどのスペースがある。
何やら暗示めいたものを感じ、眩暈すら覚えてしまう。それでも鳥籠と水槽を見た。水槽の中で泳ぐ、潰れた饅頭みたいなカエルは別にどうでも良い。問題は鳥籠の中のセキセイインコだった。
「萩尾丸さん。このインコとツメガエルって、鳥姐さんのペットですよね」
「その通りだよ雷園寺君」
解りますってば。得意げな上に何処か間延びした調子で、雪羽が萩尾丸に応じている。
彼の指摘通り、棚の上にいたのは鳥園寺さんのペットだった。カエルの方は初めて見たが、セキセイインコの方が源吾郎もよく知った存在だ。
セキセイインコの名はマリンという。彼は元々鳥園寺さんの夫が飼育していた。結婚後は、二人の共通のペットという地位に収まっている。ほぼ毎日ホップを鳥園寺さんに預けているから、水色のインコとも面識があったのだ。
マリンが現在何歳なのか、正確な年齢は知らない。しかし柳澤氏が独身の頃から飼育しているという事なので、既に八、九歳くらいであろうか。長くても十数年の寿命と言われるセキセイインコであるから、マリンももうご老体だ。
マリン自身は、樹脂製の生首インコに人語混じりのインコ語で語りかけ、機嫌よくウネウネと身体を上下させている。ああしかし、彼のその姿は、確かに老いに侵食されていた。胴体部分の水色の羽毛と、頭部の白とクリーム色の混じった羽毛は、柔らかさと艶を保っている。だが青みがかった脚を覆うウロコは伸びており、つぶらな瞳も片方は、水晶体の部分が灰白色に濁っていた。
知人の愛鳥の老いた姿に愕然としている間に、萩尾丸は言葉を紡ぐ。
「鳥園寺夫妻もね、この度月棲獣や玉兎たちの引き起こす騒動を受けて、闘わなければならなくなったんだ。そこで僕が、二人のペットを預かったという訳さ。
何せアレイ殿の力が必要だと、関係各所から要請が来たんだ。鳥園寺家当主とその婿殿は、頷く事しかできないのは解るよね?」
源吾郎は雪羽と共に、無言で頷いた。使い魔、特に代々の当主に仕え、取り憑く手合いがどのようなものか、源吾郎も十分知っていた。
それに鳥園寺さん自身も、当主とアレイがどのような関係か、述懐してくれていた。鳥園寺家当主として、鳥園寺飛鳥は使い魔のアレイを使役する事が出来る。彼女が望めば、たとえ邪悪な内容であったとしても、アレイは命じられれば遂行する。
しかし一方で、アレイの助力を欲する者がいれば、その者のためにアレイの力を使うならば、当主も出張り生命を懸けなければならない――たとえ当主が無能で、何の役に立たなかったとしても。
鳥園寺家当主とアレイとの関係は、強固な絆であり、枷であり、呪いですらある――最後にそう言って、あの時鳥園寺さんは件の述懐を締めくくった。
全てを呑み込み理解し、その上で責務を果たす者としての顔で、彼女はおのれの状況を語っていた。強大な力を持つ妖魔を思うがままに使役できる邪悪な愉悦や、利用され責務を負わされる事への嫌悪の念など、ひとかけらも無かった。
それが源吾郎には、印象的だった。
ともあれおおよその事情は理解した。それでもなお、疑問があった。
「鳥園寺さんたちの事情は分かりました。ですが何故、マリン君やツメガエルを萩尾丸先輩に預けたのでしょうか。カエルはともかく、マリン君はいつも、行きつけのペットホテルに預けているので」
「そのペットホテルが、到底運営できる状況ではなくなってしまったからね」
事もなげに萩尾丸は語り、わざとらしく目を伏せている。思案しているように見せかけているが、意外と大層な事など考えていないのかもしれない。
「だからこそ、鳥園寺さんも慌てて僕に相談したんだよ。近場だし、安全面とかを考えればうってつけだと夫妻は判断したんだろうね。鳥の飼い方も僕は心得があるからね」
それから萩尾丸は、当初はインコのマリンだけ預かるように依頼されたものの、カエルも預かるように自ら申し出た事や、雪羽がここで寝泊まりするのだから、一緒に面倒を見てもらう事などを語った。
雪羽は嫌な顔をせず快諾した。彼自身、小動物を愛好する気質の持ち主だった。それ故に、仕事の一環としてインコやカエルなどの小動物の面倒を見れるのが嬉しく、また楽しそうな仕事であるように思えたのだろう。
そして島崎君。雪羽の様子を見て頷くや、萩尾丸は源吾郎に呼びかけた。
「最初に言ったとおり、ホップ君も鳥園寺夫妻のペットたちと同じく僕が預かり、面倒を見ようと思っているんだ。遠征の前日までに、ホップ君と彼の暮らしに必要な小物類を用意して、この部屋においで。
もちろん、既に預ける段取りが済んでいるのならば、今の言葉は気にしなくて良いよ」
「いいえ萩尾丸さん。ホップの事をお願いします」
源吾郎は即答した。少し前に萩尾丸が言ったとおり、月世界遠征中にホップをどうしておくか、まだ決めかねていた。
そもそもからして、留守中にホップの面倒を見てくれる人物は少ない。何も無い平時であったとしても、鳥園寺さんか米田さんか末の兄たる庄三郎のいずれかしか選択肢が無いのだから。
しかも今は、月棲獣や土星猫、そして玉兎などと言った地球外生命体が跋扈する異常事態だ。吉崎町から離れた土地で暮らしている米田さんや、末の兄を頼るのは忍びなかった。二人とも、源吾郎が頼めば応じてくれるから尚更だ。
それゆえ萩尾丸の申し出は有難かった。多少の申し訳なさは感じたが。
源吾郎の顔を見て、萩尾丸は微笑む。
「島崎君。そんな風に悪い事をしたような顔をしなくても良いだろう。ホップ君なら、君が留守にしている間は、青松丸君がよく面倒を見ていたじゃあないか。今回はそれが僕に変わっただけさ」
そこまで言うと、萩尾丸は面白い事でも思いついたと言わんばかりに笑みを深める。
「安心したまえ島崎君。ホップ君ならば、僕と雷園寺君できちんと面倒を見るよ。それだけじゃあない。妖怪としての心得や闘いの指南についても、教えてあげようじゃあないか」
「闘い、ですって!」
電気を流されたかのような衝撃が、源吾郎の全身を駆け巡った。ホップに闘いを教えるだと。そんな事、俺は望んでいないというのに。
またしても、思った事を伝えるよりも先に、相手が口を開いていた。
しかも萩尾丸は、先程とは打って変わり、鋭い表情でこちらを見下ろしているではないか。
「島崎君。君がどのように扱っているかはさておき、ホップ君は君の使い魔だろう。単なる小鳥の延長として、弟分として君が寵愛している事は僕も解っている。しかしホップ君が君の使い魔である限りは、一定以上の強さを具えておかなければならないんだ。
ああ、別にホップ君の強さを利用しろと言っているのではないよ。
解るとも解らないとも言えなかった。そもそも急に萩尾丸が険しい表情でそんな事を言ったのだから、面食らってしまったのだ。
「萩尾丸先輩の言う事は、半分しか解りません。それにホップの事は、俺が護る。だから今は、あいつには闘うなんて事は……」
「護ると言っても、護りたいと思うものを全て護りきれるのかい」
言い終える前に、冷徹な言葉で追い打ちを掛けられた。お前はまだ弱いだろう。暗に双言われているような気さえした。
雪羽がおろおろしながら、源吾郎と萩尾丸を見つめている。と、萩尾丸はにわかに表情を和らげて微笑んだ。
「ああすまないね。あんまりにも一度に色々な事を言い過ぎたかな。闘いの指南を教えると言っても、君たちがやっているような実戦をさせる訳では無いから安心したまえ。僕だって、子供は子供らしく振舞っていた方が良いと思ってはいるさ」
萩尾丸の言葉が本心なのかどうか、源吾郎には解らない。しかし話を聞いているうちに、安堵の念を抱いたのもまた事実だった。