記憶喪失になってからトレセン学園がおかしい   作:記憶にございません

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ヤンデレ要素は次回からになります



起床

 

 

 目を覚ましたとき、まず視界に入った最初の人物は名も知らぬ一人のウマ娘だった。

 

 やけに重い上半身を必死こいて起こしてみると、自分のいる場所は病室だということに気がついて。

 ふとベッドの左を一瞥したその時になってようやく、俺は彼女の存在に気づくことができたのだ。

 長袖で全体的に薄紫の色調の制服。

 肩の辺りで切り揃えたセミロングの黒髪。

 手元の文庫本を読むことなく、起き上がった俺の顔を見つめる眠たげな瞳。

 どこを取っても記憶の中で該当する人物が存在しない。

 それどころか自分がいまこの純白のベッドに横たわる原因であろう過去に発生した何かしらすらも思い出せない。

 ここはどこ、わたしはだれ──というほどではないにせよ、自身が大幅に記憶を失くしている事実はすぐに自覚できた。

 名前はわかる。もちろん性別も。

 義務教育を終え高校に進学し、大学卒業を済ませたという経歴自体はしっかりと覚えているのだが、細かい記憶が全くと言っていいほど欠けてしまっているのが現状だ。

 日付でさえも皆目検討がつかない状況である以上、情報の収集は急務であり、その情報源となりうる存在は今のところ目の前にいる彼女しかいない。

 

「ぁおっ──ッ゛っ、ごほっ!」

 

 あの、と話しかけようとした。

 しかし健闘むなしく失敗。

 喉の奥が酷く渇いていて、思わず咳き込んでしまった。

 その後も数度同じ音を喉から鳴らし、ようやく落ち着いた頃には涙目になっていた。

 大のオトナが情けない。

 平静を振る舞おうとしたせいで余計に恥ずかしくなってしまい、俺は一旦俯いて彼女から視線を外し、深呼吸で一拍置くことにした。

 

「……あの。お水、どうぞ」

「ぁ゛っ……はぁっ、げほっ! ふっ、うぅ゛……あ、ありがとうっ」

 

 上擦った声で返事をしながら、少女から手渡されたペットボトルの水を勢いよく飲み干した。

 まさか自分の体調がここまでひどい状態だとは思わなかった。

 どうやら脳だけでなく身体的なダメージもあったらしく、おそらく数日間眠ったままだったであろう俺の口の中や喉は水分が足りず、いきなり普段通りの喋り方はできなくなっていたようだ。

 喉を潤し、ある程度呼吸を繰り返してようやく会話ができる状態に戻った気がする。

 わざわざ未開封の水を用意していてくれたウマ娘の彼女には、一刻も早く礼を述べねばなるまい。

 

「……おはようございます、トレーナー。意識が戻られたようでなによりです」

 

 トレーナー。

 ……トレーナー?

 トレーナーというと、学園でウマ娘の育成を担当するあのトレーナーで間違いないだろうか。

 聞いた限りだと俺は彼女の講師ということになるが、残念ながらそれに関しての記憶がすっぽり抜け落ちてしまっている。

 冷静に自分を記憶喪失だと判断できていることに対して、我ながら現実味が持てないでいるのだが、それはそれとして本当に何も覚えていないのだから仕方がない。

 彼女には悪いが、謝辞と共に自分の現状も早めに説明させてもらおう。

 

「水、ありがとう。おれ……私が起きるまで診ていてくれたのですね」

「別に。来たのはたった三十分くらい前ですし、大したことでは」

「で、でもキミが居てくれて助かりました。喋ることもままならない状態だったみたいですし……」

「……?」

 

 そこまで言いかけたところで、少女が少し怪訝な表情に変わった。

 何かまずいことでも言ったかと不安になるが、いまのところ言葉選びを間違えたつもりはない。

 

「トレーナー、いつも通りでいいですよ。理事長がいるわけでもないんですし、敬語なんて使わなくても」

「……あ、あぁ。そう、だな。……生徒に敬語は使ってなかったのか」

「っ……?」

 

 やばい、ますます眉間に皺が寄ってしまっている。

 もう一気にバラしてしまおう。

 

「キミ。非常に言いづらいことなんだが……落ち着いて聞いてほしい」

「はぁ……なんでしょうか」

「……その、実はだな。……キミのことを覚えていないんだ」

 

 遠慮がちに告げると、艶やかな黒髪のウマ娘は首を傾げる。

 

「仰っている意味がよくわかりませんが……」

「つ、つまりだね。……記憶がない……っぽいというか」

 

 なんだか変に緊張してしまっている。果たしてこの説明で合ってるのだろうか。

 

「キミは俺をトレーナーと呼んでくれたが、そのトレーナー業に従事していたらしい自分の記憶がすっぽりと抜け落ちているみたいなんだ」

「……壮絶ですね」

 

 やはり突拍子のない話に聞こえているようで、少女は半信半疑の様子だった。

 どこに配属されたのか、なんのライセンスを持っているのか──何もかもが不明瞭だ。

 確かにウマ娘のレースに関しては幼い頃から興味があった気がするものの、トレーナーを目指すほどの熱意があった覚えはない。

 

「参考程度に聞かせてほしいんだが、今日の日付ってどうなってるんだ?」

「2021年の12月23日です」

「…………マジか」

 

 うっすらと記憶している大学の卒業年から計算すると1年が経過していることになる。

 しかも年末ということはつまり約2年間の記憶を失っているということになってしまう。

 ……そもそも俺はどこに就職したんだ?

 正直なところ、就職活動や卒業論文の内容すらも忘却しており、あろうことか記憶の片隅に残っている友人たちですらも顔と名前が一致しない。

 "俺"という人格を保てていることが奇跡だと思えるほど、これまでの歩んできた人生の道のりを忘れてしまっている。

 かろうじて自分と家族の名前は残っているがそれだけでは話にならない。

 いったい自分の身に何が起こってこんな現状に陥ってしまっているのだろうか。

 

「もしかして事故った?」

「桐生院トレーナーをかばって乗用車に撥ねられた、と聞いてますが。……とりあえず一旦ナースコールを押しませんか?」

「あっ。……た、確かにそうだな。失念していた」

 

 俺が目を覚ましたことを真っ先に知らなければならないのは他でもない俺の担当医のはずだ。

 枕元のボタンを押し、少し慌てた様子の看護師さんに目が覚めたことを伝えると、すぐにそちらへ向かうと告げられた。

 

「……トレーナーは記憶喪失らしいですし、先生とのお話しも長引くでしょう。わたしは学園のみんなに連絡を入れたら帰りますね」

「そうか。俺みたいにならないよう、帰り道は気をつけてな」

 

 冗談めかして手を振り──そこでようやく気がついた。

 まだ彼女の名前を聞いていない。

 目覚める前の俺を診てくれて、水を恵んでくれた恩人であり、なおかつ俺の担当ウマ娘らしい彼女の名前を知らないままでいるのは褒められたことではない。

 

「では……」

「待ってくれ。気を悪くしたらすまないが、また俺にキミの名前を教えてくれないか。記憶を思い出すきっかけにしたいんだ」

「……あぁ、すみません。記憶喪失だと知ったのに、そういえば名乗ってませんでしたね」

 

 病室のドアに手をかけ、こちらを振り返った彼女は相変わらず眠たげな表情だった。

 だが、元気溢れる子ではなくとも、相手のことを慮ってすぐに手を差し伸べられる優しい少女だということは既に知っている。

 トレーナー業に就いていたことにも驚いたが、それ以上に自分の担当が彼女のような理性的なウマ娘だったことがなにより嬉しい。

 

「わたしの名前はクリアウィングです」

 

 少女の口から発せられたその響きは、なんだか妙にしっくりくる。

 頭の中で渦巻いていた"思い出せない"という違和感が、彼女の名前を聞いたことで少しだけ解消された気がした。

 

「クリアウィング、か。うん、覚えた。もう二度と忘れないと誓うよ。これを言うのは多分二度目なんだろうけど……これからよろしく」

「……はい。記憶を思い出すために私で手伝えることがありましたら、なんでも仰ってください。できる範囲で手伝います」

「ありがとな、クリアウィング」

「いえ。わたしもトレーナーがいないと困りますから。……では」

 

 ほんの僅かに微笑んだ彼女──クリアウィングは一度お辞儀をし、まもなく病室を去っていった。

 

 そして入れ替わるように担当医が看護師を連れて入室。

 詳しい事情を話すと同時に、俺の身に起こった事故の詳細やどれだけの期間昏睡状態だったのか、そして記憶にない自分の経歴を簡単に説明された。

 あの日本屈指の難関と呼ばれている"日本ウマ娘トレーニングセンター学園"に就任できたにもかかわらず、トレーナー業をサボっておねんねしていた日数は驚異の四ヶ月。

 それだけの大怪我を負っていた事実にも驚いたが、そんな自分に予想以上の多くの関係者がいたことにも腰を抜かした。

 すぐさま病院に駆けつけた姉から自分のスマホを受け取ってようやく判明したことだが、メッセージアプリや着信の履歴の数が異常だったのだ。

 植物状態だった俺を心配していた学園の生徒たちや同期のトレーナーらしき人物──果ては理事長先生までもがその内であり、俺はどれほどたくさんの人間に迷惑をかけたのかと後悔……したのも束の間。

 

『あしたはボクがお見舞いにいくからね! 失くしたって記憶も全部思い出させてあげるから! まだご飯は食べられないらしいけど、差し入れはスポーツドリンクでいい??』

『明日わたくしが誰よりも早く参ります。まだ意識が戻られて間もないでしょうし、無理はなさらず眠って待っていただいて構いませんので。シャワーにはまだ入れないと聞きましたので、清拭はわたくしにお任せください』

 

 意識が回復した旨を伝えるメッセージを一斉送信した瞬間、ほんの数秒で二人の人物から返信が飛んできた。

 この返事の早さから察するにクリアウィングや姉による情報共有で既に事情は把握していたのだろう。

 流石に少し早すぎる気もしたが、いまどきの学生であればこの程度の文量のタイピングなど朝飯前なのかもしれない。

 ……しかし、やはり最近の若者らしくメッセージアプリ上での名前がニックネームになっており、この二人の正式な名前がわからない。

 

「……ん?」

 

 すると程なくして"ゴールドシップ"という名前の方からメッセージが送られてきた。

 

『よっす、起きたらしいな。もうあの二人からの爆速返信は来たか?』

 

 まるで今のあの二人とのやりとりを見透かしたような内容だ。

 口調からしてこの人とは慣れ親しんだ間柄だったのだろうか。

 ゴールドシップさんのメッセージからして、あのボクが一人称の人とお上品な言葉遣いの方は仲間内でもかなりメッセージの返信が早いほうなのかもしれない。

 とりあえずゴールドシップさんが目上の方かどうかも判別がつかないため、いまは全ての人に対して敬語で返信をしておこう。

 

「えっと……『きました。明日お見舞いに来てくださるそうです。ところであのお二方の本名はご存知でしょうか。はちみー帝王さんとスイーツマスターさんです』っと。……おぉ、ゴールドシップさんも随分と早いな」

 

 ほんの三十秒程度で返信がきた。

 

『前者がトウホクダイオー、後者がマグロメークインだぜ。どっちもお前が面倒みてたウマ娘なんだからちゃんと思い出してやれよな』

『助かりました、ありがとうございます』

『おー。一週間後くらいにクリスマスチキン持って顔出しにいくわ』

 

 来週は大晦日前なのだが……まあ純粋な厚意だろう。

 とにかく名前を教えてもらって助かった。

 記憶喪失といっても名前程度は覚えている、といった感じの方向でいけば相手の気分を害することもあるまい。

 クリアウィングにはつい申し訳ない質問をしてしまったので、同じ轍は踏まないようにしなければ。

 とりあえず明日まではベッドの上で安静にしていよう。

 

 





クリアウィング:学園では成績身体ステータスともに平均よりやや下の一般的なウマ娘。
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