記憶喪失になってからトレセン学園がおかしい 作:記憶にございません
「んっ──」
身に覚えのない信頼を寄せられるというのは、その好意を向けられる対象からすると案外恐怖が勝ってしまうのだなと、そんな当たり前のことに気がついた大晦日。
とても貴重な体験をもって学ばせてくれた秋川理事長と桐生院トレーナーは俺の頬にキスをして満足したのか、恍惚な表情のままベッドから離れていった。
「し、失敬っ。記憶がないという話なのに、キミを前にするとつい我慢ができず……」
「ふふ。学園に戻ってきたらたづなさんも合わせて四人でゆっくりお話ししましょう、霜月トレーナー」
正直なところ、今日訪れたこの二人が発した言葉の意味を、俺は半分も理解できなかったように思う。
学園に配属されて二年も経過していない新人トレーナーがまさか同期だけでなく理事長やその秘書とも浅からぬ関係を持っているなど、まったく笑えない冗談だ。
源氏物語じゃあるまいし、俺一人がこんな多数の魅力的な女性たちからアプローチをかけられているなんて有り得ない。
最後の一線は踏み越えていないと信じたいが、どうにもギリギリで耐えているだけに過ぎないような気もする。
記憶を失う前の、トレセン学園でウマ娘たちの指導に従事していたはずの過去の自分がますます分からなくなってきた。本当にこれまで学園で何をしていたんだろうか。
「……安心してください。必ず私たちが霜月トレーナーの大切な記憶を思い出させてあげますから」
「うむ、心配無用。キミはまず退院を目指してリハビリに専念するといい」
自分のペースをまったく崩さない彼女たちに対して、俺は生返事しかできず流されるがままだった。
隠れて交際をしていると語るウマ娘たちも、当然のように仲良く三人で俺への好意を向ける学園関係者の彼女たちのことも、何もかもが分からない。
もういっそトレセン学園の女性陣総出で俺へのドッキリを企てているんじゃないのかと考えた方が気持ち的に楽になるほどだ。
──気がつけば時刻は十四時を過ぎていて、俺は病室のベッドの上でうなだれていた。
ウマ娘とトレーナーという関係とは思えないほどの距離感で詰めてきたトウカイテイオーたちのことや、まるでハーレムを演出するかのように接してきた桐生院トレーナーたちのことも、考えるのがいささか疲れた。
記憶喪失という困憊の状態で思考するべき内容ではない。
彼女たちとの正確な関係性を把握したいのならただただ懊悩しているばかりではなく、さっさと過去の記憶を思い出すべきなのだ。
いまは周囲に振り回されているだけに過ぎないが、もしかすると逆に俺が彼女たちに対して不誠実な対応をしてしまっている可能性もないわけではない。
だから早急に記憶が必要なのだ。
記憶を無くしたからといって甘えている場合ではない。
「思い出さないと……とりあえず残ってる記憶をかき集めて、なんとか繋げていこう」
あえて意識した独り言で自身の気持ちを切り替える。
まず桐生院トレーナーを乗用車から庇ったことが記憶喪失のそもそもの原因なわけだが、どうして俺は彼女と外出をしていたのか。
「……もう一人、誰かいた気がするな」
意外にも脳内の片隅を掠る違和感が存在した。
記憶を掘り返そうとしても何も見つからないと思ったいたが、こういうのは案外気持ちの問題なのかもしれない。
「ウマ娘……?」
たぶん、ウマ娘の誰かに必要な何かを買いに行こうとしていた。
桐生院トレーナーが一緒にいたのは偶然なのか俺が同行を頼んだのかは定かじゃないものの、おそらくそこは問題ではない気がする。
気になるのはもう一人そこにいたと思われるそのウマ娘が誰なのか、だ。
退院後にその少女と桐生院トレーナーと共に実際の事故現場を見学すれば当時の記憶を蘇らせる一助になる可能性がある。
というか、実感が湧かないこれまでの自分の経歴よりも、先輩トレーナー辺りに事故の詳細を聞いておくべきだったか。
一気に全てを思い出すのは不可能だろうし、直近の体験から順を追っていくほうが正しい流れだったかもしれない。
ただ、俺個人で担当しているウマ娘はいないという話だった。
チームに所属するウマ娘のサポート用具であればそのチームのトレーナーと見にいくと思うのだが、聞いた話では桐生院トレーナーは一人のウマ娘しか担当してないとのことなので、ますます状況が分からなくなってきた。
俺はいったい誰の──
「失礼します」
逡巡している最中に病室の扉が数回ノックされ、非常に落ち着いた声音が壁の向こうから聞こえてきた。
一旦思考を取りやめて入室の許可を返事すると、まもなくその誰かが入ってくる。
「おはようございます。トレーナーがサブとして担当していた各チームの名簿を持ってきました。宜しければご活用……トレーナー?」
「…………クリアウィング」
「はい、そうです。……あの、如何なさいましたか。名前でしたら別に間違えていませんが……」
大晦日にやってきた最後の来客は、意識を取り戻してから一番最初に出会った人物。
あの掴みどころのないゴールドシップと同じく、俺に対して欠片も妙な雰囲気を匂わせず恋人関係の暴露もしてこなかった、極めて一般的な距離感で接してくれるウマ娘。
クリアウィングという名の、艶やかな黒髪をたたえた少女であった。
「…………きみ、だった気がするな」
「はい……?」
そしてこの病室以外での場所で、唯一見覚えがあるような気がする存在もまた彼女だけであった。
受け取ったチーム名簿のどこにもクリアウィングの名前はない。
もし、この予感が正しかったとすれば、少し離れた距離からサポートするサブトレーナーという立場ゆえに担当を持たなかった自分が初めて『担当になりたい』と思ったウマ娘こそが、目の前にいる彼女だったのかもしれない──と。
そう思えてならないほど、彼女の姿を見た俺は心の底から安堵に包まれていたのだった。
「俺は──キミのトレーナーだったのか?」
「……それはどうでしょうか。ちなみにわたしは三日間しかあなたにトレーニングを見てもらっていません」
「な、なんで三日だけ?」
「四日目にトレーナーが事故に遭ったので」
うわ、タイミングわる……。