記憶喪失になってからトレセン学園がおかしい 作:記憶にございません
中央のトレセン学園に訪れてからわたしは世界の広さを知るばかりだった。
秀でた才能があったわけではないけれど、レースで活躍したいという人一倍強い思いがあったからこそ、全国屈指の高倍率であるこの学園の門を叩くことができた。
しかしわたしをこの場所へ導いたそんな浅はかな思いは既に半分くらい打ち砕かれている。
二度、トレーナーから見限られた。
間違いなくそれが原因で、わたしは満足に走ることができなくなっていた。
チームに入らずともトレーナーから声をかけられ、指導を受けさせてもらえていたことに関しては間違いなく恵まれていたと言える。
ただ、なまじ中途半端に実力があったせいで、指導を受ければすぐに大成すると思われてしまったのが良くなかった。
わたしは伸びない。
速くならない。
体力がつかない。
バランスがいいとは言われるが、裏を返せば特徴的な強みがない。
常に一定の状態をキープすることしかできず、レースの順位も成績もさして変化がないわたしなんかを、派手な活躍をするウマ娘を担当に持ちたいトレーナーたちが本気で指導を続けたいわけがなかったのだ。
この学園を去るのも時間の問題か──諦観した声でそんな独り言を呟いてしまうのも、自分の精神状態と一向に強くならない肉体を考えれば無理もないことだった。
「なあ、きみ」
だから。
そんな自分を偶然目撃した新たなトレーナーがわたしをスカウトしてくれようとしても。
「もしよかったらなんだが、俺の担当に──あっ、ちょっと!」
別にダイヤの原石でもなんでもない、ただの道端の石ころでしかないわたしを磨こうとする苦行などやらなくていいんですよ、と。
そんな思いが先行して、せっかく声をかけてくれた彼の前からもそそくさ逃げてしまう程度には、わたしの心は荒んでいた。
◆
学園に未練がなくなりつつあるわたしでも、妙な噂が立っている新人トレーナーがいるという話は風の噂で知っていた。
自分には関係のない話題だと思っていたし、そもそもトレーナーの噂話になど大して興味がなかった。
──そのはずだったのだが。
「みてみて、あの男の人だよ! いろんなチームのサブトレーナーを兼任してるっていう新人さん!」
「へぇー、霜月トレーナーだっけ。ちょっとカッコいいかも……?」
「今話題になってるほとんどのウマ娘たちのトレーニングをみてるんだって。すごいよね〜……アタシのトレーニングもみてもらえないかなぁ」
「でも、たしか噂だといろんなウマ娘とか女の人たちに声かけられてるんでしょ? あたしらなんか眼中にないって」
曰く、数多のチームを陰から支える縁の下の力持ち。
曰く、ウマ娘たちの潜在的な能力を引き出す魔法使い。
曰く……なんかめちゃくちゃにモテてるらしい魔性の男。
そんな誇張が入っているとしか思えない噂ばなしの中心たるその男性こそ──わたしに声をかけたあのトレーナーだったのだ。
少しだけ気になって観察してしまうのも道理というものだろう。
「……あっ!」
隣にいるウマ娘は確かナイスネイチャとかいったか。
彼女と一緒に洗濯物を干していた霜月トレーナーは、遠くから見ていたわたしを視認するや否や手が止まり、そのままこちらをガン見してきた。
なにあれ、こわ。
不機嫌になったナイスネイチャに袖を引かれている霜月トレーナーの視線から逃れるように、わたしは彼の前から姿を消した。
それから少し日が経った頃。
校舎裏で桐生院トレーナーに詰め寄られている霜月トレーナーを発見した。
恍惚とした表情の桐生院トレーナーが彼の両手を握っており、なにやら運命だのなんだのと情熱的な言葉を矢継ぎ早に口にしている。
そんな夢中になっている彼女とは正反対に落ち着き払った様子の霜月トレーナーを見ていると、少し寒気を感じた。
あぁ、魔性の男という噂はあながち間違いでもなかったんだな──と察して。
見て見ぬふりをしてその場を立ち去り、金輪際あのトレーナーのことは忘れようと心に誓ったのがその日だった。
……また、それから少し経って。
廊下で偶然にも秋川理事長を見かけたのだが、いつもの元気な様子で『相談ッ! 来週の行事について少しよいかな!』と理事長室に呼ばれた霜月トレーナーは仕方なさそうに笑っていた。
彼のその顔には既視感があった。
桐生院トレーナーに迫られていた時と同じ表情だ。
いかにも余裕綽々そうな──ともすれば何かを諦めているような顔にも見える"それ"を目の当たりにしたわたしは、何を血迷ったのか理事長室の中の声を聞こうとしてしまった。
誰も立ち入ってはならないという意味に他ならない"会議中"の表札がドアノブにかけられたその扉に耳をあてて。
「──んなさい……あたし、理事長なのに……甘えてしまってごめんなさい」
恐らくこれまで生きてきたなかで、最も長く思考が停止した瞬間だった。
「えへ、えへへ……撫でてもらうことがこんなに気持ちいいことだったなんて。お仕事もっとがんばれそう……」
……まぁ、確かに予想できる範囲の話ではあった。
それにしても節操がなさ過ぎるとは思うが。
多数のウマ娘から恋慕の感情を向けられるだけでなく、在籍するトレーナーや学園の理事長までもを陥落させてしまうなんて、彼は恋愛シミュレーションゲームの主人公かなにかなのだろうか。
呆れを通り越して感心が来てしまい、思わず小さく笑ってすぐに理事長室を離れた。
凄い人だとは思う。
あそこまで器用な生き方ができたら、わたしもレースで活躍したいだなんて分不相応な夢も諦められるかもしれない。
わたしが参考にするべきなのはテレビに映って活躍するウマ娘たちの走り方ではなく、霜月トレーナーの新人にもかかわらず人脈を広げていける世渡りの能力なのだろう。
確かに学んだ。噂通りの人物だ。
彼はわたしの選ぶべき道を示してくれる魔法使いだったのだ。
◆
「故に桐生院トレーナー。ここは一旦私とたづなの二人と協力して、ウマ娘たちが憧れている彼への叶わぬ禁断の恋を諦めさせる方法を模索してはくれないだろうか」
「……承知しました、理事長。生徒とトレーナーの恋愛など言語道断です。一刻も早く霜月トレーナーの興味を我々だけに絞って、将来有望なウマ娘たちやミークに目を覚ましてもらわねば……!」
居心地が悪い。
「お、おいマックイーン?」
「下がっていなさい、ゴールドシップ。……テイオー、あなた昨日の夕方のアレはどういうことですの? トレーナーさんはわたくしと待ち合わせを」
「うるさいなぁ。蹄鉄がダメになっちゃったから買い物に付き合ってもらっただけだよ。そもそもボクのトレーナーでもあるんだから、そんな文句を言われる筋合いはないと思うんだけど?」
「っ! あなたねぇ……!」
「おい二人ともくだらねぇ口論してる場合じゃねえだろ、レースの日程忘れたのか! おらっ、ランニングいくぞ!」
「わっ、ちょっ、離してよゴールドシップ〜!」
「納得いきませんわテイオー! ちゃんと話を──あだっ!」
「おめーも走るんだよ!」
とても、居心地が悪い。
最近学園の様子がおかしい。
憧れていたウマ娘や規律正しいはずの教職員たちが、一人のトレーナーを巡って右往左往している。
時折わたしのトレーニングに付き合ってくれていた女子生徒も、つい最近どこかのチームに所属してサブトレーナーの指導を心待ちにしていると聞いた。
──霜月トレーナー。
いまの学園は彼を中心にして動いていると言っても過言ではない。
実際あのトレーナーが熱心に面倒をみたウマ娘……というより彼が褒めそやしたウマ娘はタイムや順位が劇的に上がっているのだ。
マネジメントの能力が本物だからこそ第三者は文句を言えず、霜月トレーナーと触れ合ったウマ娘はほぼ全員といっていいほど彼の魅力に堕ちていく。
一瞬だけだが、わたしもチームに所属してサブトレーナーの指導を受けようかと考えたことがあった。
しかしわたしにそれはできなかった。
噂ではなく、実際に学園の女性陣を魅了していくその現場を目撃してきたからこそ、自分の中で彼に関わることへの躊躇いが生まれているのだ。
……というかあの人、女の子を惑わすために生まれた妖怪か何かじゃないだろうな。限度があるでしょう、限度が。
「ふぅ、ふぅ。……あー、休憩しよ」
トラックを軽く十周ほどして芝生に座り込んだ。
珍しく外の練習場には誰もいなかったため、贅沢にも練習用コースを独り占めしている。
走ってみれば気も紛れると思い自分の気持ちに従って無心でランニングをしてみたのだが、思いのほかスッキリした。
いい汗をかいたのも久しぶりだ。
そういえば昔から走るのが普通に好きだからレースに出てみたいって考えるようになったんだっけ。わたしも幼い頃は純粋だったんだな。
──んっ。
「や、やあ。数週間ぶりだけど俺のこと覚え……てる?」
んん。
「その、無理強いをするわけではないんだが……最後にもう一度だけ俺の話を聞いてほしいんだ。たのむ!」
あわわ……妖怪が来ちゃった。