記憶喪失になってからトレセン学園がおかしい 作:記憶にございません
いつも閲覧ありがとうございます 今回すこし長めです
模擬レースが終わったあと、わたしは色々な場所で様々なウマ娘をみた。
静寂な夜に星を見上げて物憂げな表情をする子だったり、見えない何かに追い付こうと何度も一人で走る子だったり、道行くすべての信号に赤を突き付けられる子だったり──まさに十人十色。
ただ一つの共通点として、彼女たちには物語があった。
背景があり、因縁があり、懊悩や挫折や希望があった。
才ある者も普通を自称するウマ娘にだって、自らが動かすストーリーというものが存在していた。
それを目の当たりにしたときにわたしはいつも思うのだ。
面白い子たちだな──と。
どうしてあそこまで目立つのだろう。
みんなしてキャラが濃すぎやしないだろうか。
気がつけば彼女らを目で追っていて、我に返ったら一瞥してその場を去り、何もない自分の日常へと戻っていく。
自分にも何かあるかも、と期待したことがないわけではなかった。
ただ、顧みると本当に何もないことが判明してより惨めになるだけのことだった。
幼少期、なにもなかった。
学園へ入る前も、入った後も何もなかった。
わたしの生きてきたこれまでに”ドラマ”というものがただの一つもありはしなかった。
とても平々凡々とした毎日を過ごしてきたと思っている。
唯一誇れることがあるとすればトレセン学園に合格できたことだが、そんなものはこの学園にいる誰もが持つ最低限のラインだ。
有名な教育機関に合格できるのは凄いことかもしれない。
だがその中で延々と燻り続けるのは果たして誇れることだろうか。
仮に中央以外の場所であったら、もしかしたら目覚ましい活躍が、ドラマができたかもしれない。
しかしわたしはこの中央のトレセンにきた。
その結果、何者でもない誰かになった。
有象無象と揶揄される類の存在に成り下がっていた。
とりあえず誰でもいいからウマ娘を担当して経験を積みたい人たちに世話をされて、最終的には何も残せず『この経験を次のウマ娘育成に活かそう』と切り替えられて一人に戻る。
ここでの学園生活はその繰り返しだ。
トレーナーやウマ娘たちが成長するための糧──それがわたし。
サブやモブとして描写されることすらない、例えるなら誰かが三着で『自分なんてこんなものか』と、ため息をはいているレースにおいて五着をとった誰か。
それがわたしだ。
何もない。そう、例えるならそよ風のような、誰の気にも留められない、当たり前に存在する自然現象のうちの一つ。
それこそが──
『きみが一番、走るのを楽しんでいたから』
……見つけてくれなくてもよかったのに。
わたしに構うのなんて時間の無駄だろう。
別に自分を悲劇のヒロインみたいに普通だとか弱いだとか卑下しているわけじゃなくて、事実としてあのトレーナーは指導者としての才能に満ち溢れていて、その敏腕っぷりで多くのウマ娘たちを成長させている。
そのウマ娘たちは強く速く美しく、彼女たちとわたしでは開花する芽の大きさが違いすぎることは、誰の目から見ても明らかな真実だ。
「なのに、あのヒトときたら……はぁ」
自室のベッドの上でゴロゴロしながら嘆息ひとつ。
同部屋の子はもう寝てるんだし私も早く眠りにつかないと。
「……来週、か」
改めて霜月トレーナーに声をかけられたのが今日の夕方だったわけだが、でたらめな理由でまくし立てて今日は結論を出さず、来週まで保留という形にしてもらった。
心の整理がしたかったのと、何より彼に考える時間を与えてみたかったのが大きな理由だ。
七日もあれば否が応でもいま面倒を見てるウマ娘たちとたくさん関わるだろうし、改めて彼女たちを見れば自分がどれだけ貧弱なウマ娘を担当しようとしていたのかを再確認できると思う。
わたしとしてもトレーナーから三度目の解約宣言をされるのはキツいので、途中で手放すくらいなら最初から手を出さないでくれたほうがいい。
三日目くらいに『あの話はなかったことに……』とか言い出してくれないかな、とか思いつつ瞼を閉じると、不思議なくらいすぐに夢の中へと沈むことができた。
しかし、この一週間で私も何かをやるべきだと考え、とりあえず霜月トレーナーがサブとして所属しているチームのウマ娘に、いくつか彼のことやトレーニングの内容を聞いて回ろうと決めた。
とはいえ、彼に好意を寄せている少女は多い。
意味そのままに質問をしたらトレーナーを狙ってるだとかライバルだとか思われかねないため、恋敵の詮索だと思われない程度の……そう、日常のちょっとした質問程度に収めればうまくいくはずだ。
一人から得られる情報量は少なくてもそれを複数人に繰り返していけば判断材料も十分集まるだろう。
クリアウィング質問突撃隊、いきます。
「特別なトレーニング方法? ……トレーナーさんとは少し違ったやり方のメニューを考えてくれる人がいたの。最近は忙しいみたいだけど、落ち着いたらまた一緒に──」
なるほど、チームのメイントレーナーが基礎を固めたウマ娘に別角度からの練習を提案していた、と。
さらに聞いた限りではチームのメンバーひとりひとりに合った別メニューを渡しているらしい。
チームを指揮するトレーナーのように常にトレーニングを見れる立場ではないゆえに、霜月トレーナー本人がいなくても問題なく実行できる内容が多いようだ。
「ウイニングライブも手を抜かないって決めてるから! センターで踊ってるところ、絶対に最前列で見てもらうって約束してるし♪ そうだっ、あなたも一緒にやっていかない? いまなら細かいところまでレクチャーしてあげる!」
最近ウマ娘を集めてダンスレッスンをしているらしい場所へ顔を出してみたのだが、ここにも彼の影響が。
彼女たちの言い分としてはレースだけでなく華々しく踊る場面を見せたいというもので、レッスン場には意外な練習生もいた。
レースでは活躍しているもののウイニングライブが少々おざなりになっていたウマ娘だ。彼女にも思うところができたのだろう。
レース後の姿も楽しみにしているという理由づくりをすることで、ライブの努力も欠かさないような心掛けをさせているのかもしれない。策士。
それから思いつく限りの場所へ赴き、霜月トレーナーのことを遠回しに質問していった。
購買のカレーパンと牛乳が最近すぐに売り切れるという話の真相が、いつも昼休みに彼が買ったのと同じものを買おうとする一部のウマ娘がいるせいだったから、なんてしょうもない情報もいくつか掴まされたけど。
霜月トレーナーの言葉通りウマ娘たちは彼にこの上なく心を開いていた。
そして想い慕い恋焦がれるだけではなく、正しく彼の存在が成長の要として機能している。
動機のほとんどが彼と触れ合ったり気を引くためだったりしても、結果として外見を磨いたり内面を見直したりレースもダンスも頑張れるようになっているのは疑いようのない事実だ。
トレセン学園全体を彼が盛り上げてくれている。
夢を目指すだけでは身が入らない子や強すぎるライバルを前に挫折しかけた子たちも『彼のためにがんばる』という目の前に明確な目標ができたからこそ努力ができているのだ。
それから──
「サブトレーナー、ちょっとこっちに来てください!」
「霜月君、これ頼んでもいいかな?」
「数々の選手たちが好タイムの理由にあなたの指導を上げているそうで! ぜひお話を……!」
……単純にあの人が多忙すぎる。
あんなたくさんのチームで活動しながら担当のウマ娘を持つなんてただの自殺行為だし、まず物理的に不可能だろう。
ウマ娘と契約を結ぼうとしている意識を持ちながら一週間も業務をこなしていれば『あ、やっぱ無理だわコレ』と考えを改めてくれるに違いない。
わたしはまた一人で過ごす日々に戻ることを予感しながら、待ち合わせをしている街外れの古びたカフェへと向かっていった。
◆
学園からバスで十五分。
到着したバス停から歩いてさらに十分。
そうしてようやくたどり着いたのが、味のある渋いおじさんマスターが経営する老舗の珈琲店だった。
店内を見渡すとそこそこ広く、常連っぽい人々が静かにコーヒーを嗜んでいる中で、先に着いていた霜月トレーナーが手を振っている姿を発見した。
待ち合わせの場所には別々で向かいましょうとわたしが提案していたため、先行して待っていてくれたようだ。
席についてとりあえずコーヒーを一杯注文。
頼んだものが提供される間、少しだけマスターと霜月トレーナーのやりとりを観察していたのだが、どうやら彼もここの常連だったらしい。
「どうしてこんな学園から離れたお店を?」
「学園の関係者やウマ娘もほとんど知らない穴場なんだ。ひとりでリラックスしたいときによく使わせてもらってる」
あんなコミュニケーション能力のお化けみたいなヒトでも一人になりたい時ってあるんだ、と素直に関心した。考えてみれば当たり前のことではあるのだが、これがどうして意外だった。
「でも、やっぱり結構遠いですし、来るまでに疲れてしまいませんか。学園の付近でも客入りが落ち着いているお店は結構あると思いますが……」
「そういう場所はだいたい理事長やマックイーン辺りに先回りされてて。結構いろいろ探してはみたが、最終的にはここに落ち着くんだよ」
「……大変ですね」
「ははっ。まぁ、たくさんのチームのサブを任せてもらっている立場だからな。俺しか把握していないこともあるし、直接会って話さないといけない機会が多いのは仕方がないことだ」
ほら、やっぱりめちゃくちゃ忙しい。
学園の女性陣やウマ娘が先回りしてくるのは相談ではなく、単に霜月トレーナー本人とお話しがしたいだけだと思うが……それを含めて多忙の身。
こんな遠い場所までわざわざ足を運んで彼女たちから逃げなければいけないなんて、あまりにも──あっ。ていうか。
「あ、あの……わたしにこのお店を教えてよかったんですか?」
「え? 二人きりで話すならこういう落ち着いた場所がいいと思ったんだが……場所を変えようか?」
「いえ、その、このお店で丁度いいと思います。でも、そういう話ではなくて」
ここは霜月トレーナーが大事にしているプライベートな憩いの場だ。
だがわたしから情報が洩れてしまったら、学園にいる彼女たちは間違いなく──容赦なくここへ押しかけるに決まっている。
そもそもまだ担当契約すらしていない、あくまで話を聞くだけの約束しかしていないただのウマ娘を、こんな大切なところへ案内してもよかったのだろうか。
「……あぁ、なるほどな。クリアの言いたいことはわかるよ」
「だったらどうして……」
懐疑的な表情のわたしとは対照的に霜月トレーナーの表情は穏やかなままだった。
「確かにここはひとりで行く機会が多い場所だが、なにも絶対に知られたくないってわけじゃない。それに俺は”担当になりたい”ときみに申し込んでいる立場なんだから。横やりが入らない場所を提供するのは常識だって」
自分のプライベートな空間を壊されるかもしれないのに、その危険を承知でウマ娘であるわたしをここへ連れてきてくれた。
そのことは確かにうれしい。
しかし、もう少し警戒してくれてもいいと思う。
仮にも自分を狙う数多の少女たちと大して変わらない年頃の少女なのだから、噂や情報を拡散されるリスクだってそれなりに高いはずだ。
だというのに──はぁ、ダメだ。
この際霜月トレーナーがわたしをそうまでしてスカウトしたいことは一旦認めよう。
でもそれは優秀なウマ娘たちを見すぎたことで生じた気の迷いかもしれないし、なにより物理的に不可能であることをいまここでハッキリと証明してあげるべきだ。
わたしのためにも、彼のためにも。
「……でも、結局ムリな話でしょう。複数のチームのサブトレーナーをやりながら担当を持つなんて、体がいくつあっても足りない──」
「あぁ、そこは心配しなくていいぞ」
「えっ」
あまりにもあっけらかんと返してくるものだから、こちらも素っ頓狂な声が出てしまう。
「実は前々から先輩たちに相談しててさ。もし本気で担当したいウマ娘が見つかったらサブトレーナーはいつでも辞めてもいいって言われてるんだ」
「…………」
予想外な展開に開いた口が塞がらない。
今日は彼の忙しさを理由に諦めてもらうことを前提にしてここへ訪れたため、その点が解消されてしまうと何も言えなくなってしまう。
……い、いや、落ち着け。
ここで流されてしまってはダメだ。
どこか反論の余地があるはず。
「あの、えっと……そ、そうだ、引き継ぎの問題とかあるじゃないですか」
「そこが感動したところでさ。先輩たちみーんな『きみが来る前は自分ひとりでやってたことだから心配しなくていい』って俺の後押ししてくれて……本当に素晴らしい先輩たちに恵まれたよ」
「えぇ……」
ウチの学園ちょっとストイックな人が多すぎないか?
一年以上も分担していた作業をすぐにひとりで解決できるように手を回せるってどんな超人なの。
「心配してくれてありがとうな。でも俺のほうは全くもって問題ないんだ。気を遣ってくれなくてもいい」
霜月トレーナーは珈琲を置き、改めてわたしに向き直る。
おそらくそろそろ結論を出せと言ってくるに違いない。
「クリアウィング。きみがどうしたいのかを、俺に教えてくれ」
「っ……」
とても真っすぐに見つめてくるものだから、思わず視線をそらしてしまった。
──わたしに期待してくれているのは嬉しい。
そこは本当だ。これまで声をかけてきたどのトレーナーよりも熱意に満ちた目でわたしを見てくれていることは分かってる。
こちらとしても専属のトレーナーがついてくれるならそれ以上の喜びはない。
伸び悩んでいたタイムも、一向に身につかないスタミナも、彼のマネジメント能力を存分に発揮したトレーニングであれば改善できるかもしれない。
……でも、やっぱり即答できるほどの胆力は備わっていなくて。
あそこまで学園のウマ娘たちに注目されている実力者に、よりにもよって自分が見初められたという事実がどうしても飲み込み切れない。
これまで余計に培ってきた自己肯定感の低さがここぞとばかりに顔を出してしまっている。
また見限られてしまうのではないか──そんな不安が脳裏によぎるのだ。
もう裏切られたくない。
途中で手を引くくらいなら、最初から期待なんてしないでほしい。
何度も大人たちに振り回されても自分のペースを保てるほど、わたしの心は強靭にできてない。
だから。
熱意をもって接してくれている彼には悪いのだけど。
やはりもう少し時間が欲しかった。
「……一週間」
ギリギリ聞こえるか怪しいラインのか細い声でも、霜月トレーナーは耳を傾けて聞いてくれる。
急かすこともせずただわたしの言葉を待ってくれている。
今までに出会ってきた、とにかく自分の考えたトレーニングをグイグイ押し付けてくるトレーナーたちとはどこか異なる。
だからこそわたしは甘えた結論を出してしまうのだ。
彼の優しさにつけこむように。
「これから一週間、毎日一時間だけ、わたしとの時間を工面できませんか」
「……理由を聞いても」
弱いわたしが出した結論。
ここまで本気で向かってきてくれても、未だに信じられずこんなことを言い始めてしまう。
「お試し期間……みたいな」
「俺を試してくれるのか?」
「いっ、いえ、そんな驕ったつもりじゃ。……わたしが育成する意味のあるウマ娘なのか、霜月トレーナーの指導に適性があるのかどうかを、その一週間で見極めてほしいんです」
七日もらったのに、また七日。
わたしは自分のワガママで二週間もこのひとを振り回すことになる。
「もしかしたら途中で弱音を吐いて立ち止まるかもしれないし……そんなしょうもないウマ娘に付きっ切りになっていたら、霜月トレーナーが去ったあとのチームのウマ娘たちが可哀想です。わたしも顔向けできません。だから『担当が見つかった』と先輩トレーナー方に報告するのは一旦待って、サブトレーナーを辞めるのはわたしを一週間試してからにしてもらえませんか」
わたしのこれが予想外の発言だったのか霜月トレーナーは顎に手を添えて考える仕草に移行している。
そもそもこんな提案をするような自己肯定感の低いウマ娘な時点で諦めてしまってもいいと思うのだが、なぜか彼は一向にわたしを見限ろうとしない。
普通に面倒くさい提案をしてる自覚はある。
これを億劫に感じて手を引いてくれたら話は早いのだが、やはり霜月トレーナーがわたしに侮蔑の眼差しを向けることはなかった。
「つまりこういうことか。みんなに隠れて一週間、毎日一時間きみをトレーニングする、と」
「はい。……傲慢なお願いをしてる自覚はあります。でも、ここは譲りたくありません。わたしを担当するならこのお試し期間をやって頂きたいんです」
霜月トレーナーの立場からすれば青筋を立てて怒り散らしてもおかしくない提案だ。
下手に出ていれば小娘が調子に乗りやがって、と気分を害しても何ら不思議ではない。
わたしの言っていることはつまり、忙しいサブトレーナーを兼任しながら毎日一時間どうにかこうにか時間を工面して自分に付き合え、という話なのだ。
大人をバカにしたような態度に見えていることだろう。
担当契約の志願が殺到するような、どのレースでも無敗の最強ウマ娘ならともかく、こんな結果を一つも残していない有象無象のウマ娘に身の丈に合わない要求をされれば誰でも怒るに決まってる。
怒って諦めてくれたら、きっとそれが一番いい。
「無理なようでしたら、やっぱり今回の話はなかったことに──」
「いや」
彼はわたしの声を遮る。
「試そう、みんなに隠れながらきみを一週間」
……うそでしょ。
「俺がきみを試す立場ならトレーニングの時間もこっちで決めていいんだな?」
「はぇっ。……え、えぇ、まぁ、はい」
「じゃあ三時間だ。毎日三時間トレーニングして、きみの適性を観察させてもらう」
「さ、三時間!?」
急に三倍!
「おっと、嫌とは言わせないからな」
「そ、そうじゃなくて。わたしはぜんぜん大丈夫ですけど、霜月トレーナーにそんな時間は……」
「ハハッ。なに、俺の心配はいらないって言ったろう。担当したいウマ娘の頼みなら何だって聞くし、時間の工面なんて朝飯前だよ」
いやいやいや、いったい何個チームを見てると思ってるんだ。
「よし、じゃあ明日からだな! さっそくスケジュールを調整してくる!」
ひ、ひぃ……超人すぎる……。
◆
わたしの作戦も無事失敗に終わり、ついに観念してトレーナーとのお試し期間がスタートした。
一日目は芝とダートを両方走ったり、基本的なフォームや癖などをトレーナーが把握するための軽めな内容がほとんどであった。
ちなみにわたしの恰好はジャージの中に薄いパーカーを着つつフードで顔を隠しマスクまでするという、徹底した不審者スタイルだ。
まだ担当になるかも決めていない段階で妙な噂を立てられたら大変ということで、自主的にこの服装に身を包んでいる。
もちろん人通りが少ない時間帯で、なおかつ学園外のレンタル練習場でのトレーニングだ。
さすがにトレセン学園でそのまま練習をおこなうとトレーナーが目立ちすぎてしまうし、ちょっとやりすぎな警戒をするくらいがちょうどいいはずだ。
そして二日目。
今回は利用者の少ない山道へ赴いた。
一応ウマ娘のランニング用のコースが舗装されてはいるのだが、もう少し学園に近い場所に走りやすい山があるため、わざわざこちらを選ぶトレーナーは少ないらしい。
道もそれなりに険しく、正しく道を把握していないと危ない山であるのは事実だ。
しかしチームに入っていないわたしは一人でよくここを利用していたし、トレーナーもこのあたりの地理には詳しかったため、問題なしと判断してここに来たわけだ。
学園の生徒に見つかりづらい場所、というのも勿論あるが。
今のわたしには少し走りづらい場所で脚力とスタミナをつけるのが重要だとトレーナーは語った。
「クリア、今日もマスクをつけているのか」
「低酸素トレーニングになると思いまして。これなら持久力も身に着くと考えたのですが……外したほうがいいでしょうか」
「ふーむ……うん、そうだな、今日は外してくれ。慣れた場所とはいえ、俺のトレーニングメニューでこの山を走るのは初めてだし、そういった応用は自分のスタミナを正確に把握してからやろう。酸欠になっては本末転倒だ」
「……はい、わかりました」
渋々ながら指示通りマスクを外してポケットにしまい込む。
まぁフードを深く被っているし、顔がバレることはないだろう。
それにトレーナーの意見はもっともだ。
無茶してぶっ倒れて学園の保健室にでも運び込まれたらいよいよゲームオーバーである。ここはフードの力を信じよう。
「ちなみに今日は四時間トレーニングできるぞ」
「ど、ドタキャンでもしたんですか」
「人聞きが悪いな……ちゃんと俺がいなくても平気なように調整してきたさ。あぁ、それと最後の一時間は軽く流すだけだからあんまり身構えなくていいぞ。ほい、今日のメニュー」
「……」
渡された紙には意外と厳しめなメニューが記載されていた。
「……みんなにもいつもこんなメニューを?」
「いや、さすがにもう少し軽めだな。俺、あくまでサブだし……このレベルはクリアウィングだけだよ」
その日判明したのは、このトレーナーは担当ウマ娘に対してはわりとハードなトレーニングをやらせるという情報だった。
だが、恐ろしいことにわたしのやる気が持続する時間や体力を先日のトレーニングで全て正確に把握していたのか、メニューはギリギリわたしでもこなせる内容に仕上がっていた。
決して甘すぎず、またオーバーワークにもならない極限のラインのトレーニングというのは、なかなか達成感のあるもので気持ちがいい。
「トレーニングに関しては学園のほぼすべてのチームの内容を勉強させてもらって、たくさん経験も積んだんだ。どんな分野のメニューでもベストなものを用意できるからそこら辺は任せてくれ」
少なくともその段階で、これまでわたしを見てきたどのトレーナーたちよりも数倍わたしを成長させてくれていたのは間違いなかった。
その後は好物のシュークリームで機嫌を取られつつ──そんなこんなで山でのトレーニングを終え、翌日の朝。
わたしの不安を煽るかのように、教室はいつもの和気あいあいとしたもの違って不穏な空気でざわついていた。
「ねぇ聞いた? 霜月トレーナーから一対一の指導を受けさせてもらってるっていうウマ娘の話……」
「は? なっ、ななななにそれ……!?」
ボロが出ないようなるべく黙ったまま過ごしていたが、食堂でもそんな話が飛び交って肩身の狭い思いをする羽目に。
「ね、ネイチャ。おちついて聞いて欲しいんだけど……霜月トレーナー、担当ができたかもって」
「────」
がしゃん。
昼食を乗せたトレーが床に落ちる音があちらこちらから響いてくる。
教室よりもはるかに情報が行き交いやすい食堂で、ついにその噂が多くのウマ娘たちに光の速さで広まっていった。
「ゴールドシップさん……」
「おー、スぺ。今日はあんまり食わねえんだな……って、テイオーが食器落としたまま固まってっけど何事?」
「あっちではスズカさんやマックイーンさんも……」
「なんだなんだぁ、ゴルゴーンでも出てきてみんな石にされたか?」
噂を聞いてフリーズするウマ娘、青ざめて食事が喉を通らなくなるウマ娘、とにかく使命感で噂を広めまくるウマ娘など様々だがそのどれもが決して穏やかなものではなかった。
バレたら殺されたりしないだろうか。
わたしとしては、ただ担当になりたいと言ってくれたトレーナーとトレーニングをしているだけなのだが。
この現状を知った霜月トレーナーから『やっぱりやめよう』と保身の一言を告げられても文句は言えないな──なんて考えながら、急いで昼食をかきこんでいく。
「あんまり使われてない山のほうに二人きりでいたんだって」
「確かフードを被ってて顔を見えなかったらしいけど、茶髪か黒髪っぽいって話だよ」
……はやく食堂から退散しよう。
「クリア? どうかしたか」
「あ、いえ……」
残念なことに噂は彼の耳には届いていなかった。
ウマ娘たちにとってこのトレーナーがどれほど大きな存在に見えているのかは計りかねるが、どうやら直接担当のことを質問したウマ娘はまだいないらしい。
ホッとしたような、課題が残ったと考えるべきか。
「それにしても、こんなところにプールがあったなんて知りませんでした。他に誰もいませんし……」
「今日は学園のプールがちょっと混んでるみたいでな。隠れながらのトレーニングってなるとこういう場所になる。少し狭いが貸し切りだから、今日はここで安心してスタミナのトレーニングをしよう」
訪れたのは街外れの年季が入った水泳場。
確かに建物は大きくないが、貸し切りということであれば山のときほど緊張せずに済む。
着替えて中へ入ると、いつも通りノートPCを抱えたトレーナーがいた。
……そこで、わたしはとあるものを見つけてしまった。
「トレーナー。その左手……」
「ん? ──あぁ、これか」
彼の左手の甲に大きな傷を発見した。
よく見れば同じ大きさの傷が手のひらのほうにある。
「お怪我なされたんですか? プールに入るのは危ないのでは……」
「いや、ただの古傷だから気にしなくていい。別に痛くもないんだが、見た目ばっかり派手なんだ」
「……理由をお聞きしてもいいですか」
「え?」
不思議と気になってしまった。
こういう時は遠慮して何も聞かないのがマナーなのは分かっているのだが、思い返してみればわたしはトレーナーのことを何も知らない。
わたしが把握しているのは周囲が彼に向けている評価だけだ。
それゆえに、何か一つでも彼のことを知ることができれば──と、ごちゃごちゃ考えたが結局のところは口が滑ってしまっただけである。
「ご、ごめんなさい、忘れてください」
「待て待て、話さないとは言ってないだろう。……それに、これを聞いてくれたのはクリアが初めてなんだ。聞いてくれないか?」
「……はい」
気を遣われてしまった。
スタミナのトレーニングも大事だが、他人のプライバシーに突っ込まないための精神的なトレーニングも必要な気がしてきた。
「自惚れているように聞こえるかもしれないが、俺は昔から妙に他人から信頼されやすい雰囲気があるみたいでな。無論ありがたいことではあるんだが……知りたくないことまで教えてもらえるのは複雑な気持ちだったよ」
手の甲を見つめながら、トレーナーは懐かしむように滔々と語る。
「中学生の頃だったか……特に仲のいい幼馴染がいてさ。そいつの知られたくなかったであろう秘密を別のクラスの女子に教えられたんだが、頑是ないガキだった俺はそれを直接その幼馴染に聞いてしまったんだ」
「……どうなったんですか?」
「もちろん幼馴染は怒ったよ。でも、俺じゃなくてそれを教えた女子を糾弾しようとして、ナイフまで持ち出してしまって──」
それで、これ。
トレーナーは手の平を見せて苦笑した。
「止めようとしたら勢いでザックリ。幼馴染はひどく狼狽えたけど、それでもやっぱり止まろうとしなくて……だから理由を聞いたんだ。なんでそこまでするんだって」
一拍置いて彼は続ける。
「そしたら『京ちゃんがアタシを嫌いになるようなことをあの子が教えた。だから絶対ゆるせない』って」
「……京ちゃんって、トレーナーのことですか?」
たしか下の名前は京介だ。
「まあな。……とどのつまり、痴情のもつれってやつだよ。モテたがゆえの傷ってところか。……なんてな」
冗談めかして、おどけた雰囲気でそう言ってのけるトレーナーの顔は、なんだか桐生院トレーナーに迫られていたときの表情に似ていた。
乾いた笑いだ。
正直に言うと、わたしは彼のそんな顔が苦手だった。
「引いたか?」
「えぇ、引きました。質問したわたしも悪いですけど、生徒に話す内容じゃないです。そういうのもっとボカして話すべきじゃないですか」
「手厳しい……いや、たしかにそうだな……マジごめん」
「わたしも何か秘密を語りましょうか」
「いやいやいや! この流れ一旦終わりにしないか!?」
あっけらかんと過去を語ってしまうそんな部分が、たとえ優秀であっても彼が新人トレーナーであるなによりの証だった。
大人なのは間違いないが、それでもわたしより少し年の離れた青年でしかないと思えてしまう。
あんな噂通りの完璧な人間ではなくて、彼もまだまだ若いのだ。
遠慮なく質問したわたしも、赤裸々に語ってしまったトレーナーも、二人してその場においては未熟そのものであった。
「……よし、今日はここまで。上がろう」
「はい。……あの、トレーナー。少し相談が」
「どうした? ──なるほど、蹄鉄か。じゃあ明日一緒に見てまわろうか」
秘密を語られ、冗談を交わし、ほんの少しだけ距離が縮まったような気がした日だった。
◆
それからは……まぁ、いろいろあった。
フードを深く被って、トレーナーと一緒に様々な店を回ったり。
なんだか目が濁った桐生院トレーナーが必死になってわたしたちの買い物についてきたり。
暴走した乗用車が交差点に突っ込んできて──トレーナーが桐生院さんを庇ったり。
彼が眠っている間はずっと生きた心地がしなかったが、トレーナーが気を失う前に『俺が寝てたら叩き起こしてくれ』という言葉をもらっていたわたしは、他のウマ娘たちよりは幾分かマシな精神状態だったと思う。
ひどいときではレースで十二人中の十一人が無断で出場を辞退するなんて事件も発生していたのだが、トレーナーが目を覚ましてからは学園にも活気が戻りつつある。
トレーナーが植物状態になっていた半年間、立ち直った者がいなかったわけではないが、やはりずっと張り付くようなどんよりとした空気が学園を支配していたので、事態の好転は素直にうれしい。
それに学園の誰もがトレーナーのお見舞いへ赴いていたため、フードを被らずとも怪しまれずに会いに行けるのは怪我の功名だった。
おかげでわたしもトレーナーを心配する大多数のうちの一人という認識を受けることができ、事故のときトレーナーのそばにいたくせに何もできなかった担当のウマ娘──という酷いレッテルもいまのとこは貼られていない。
そもそもわたしは過去のことを掘り返すつもりはない。
あの場で最も責任を負うべきなのは昼間から酒に酔っていた運転手であり、トレーナーもわたしも、もちろん桐生院トレーナーだって悪いとは思っていない。
ウマ娘であるわたしなら何かできたかもしれないけど、たらればに苛まれていられるほど純真ではないのだ。
記憶喪失以外の後遺症はなく、トレーナーは五体満足で退院できた。
いまは素直にその事実だけを喜ぼうと思う。
担当医の先生も『様子を見るにきっかけさえあれば思い出す可能性が高い』と太鼓判を押してくれたので、ここから記憶を取り戻していけばすべて元通りだ。
……せめて元通りになれるよう、やれることをがんばらないと。
「わるいな、クリア。トレーナー室まで荷物を運んでもらっちゃって」
「いえ。……でも、どうしてわたしに任せてくれたのですか。手伝いを志願していたウマ娘は他にもたくさんいたでしょうに」
ウマ娘たちは凄い勢いでトレーナーの隣を狙っていたわけだが、お医者さんから『刺激しすぎないように』との指示を書いていただいた紙を見せればだいたいは抑制できる。
それでもたった一人が手伝いをしている姿は、彼女たちにはあまり面白くないものに見えるはずだ。
今後が少し心配です。
「……いや、なんつーか……あの子たちが少し怖くてな。それに、少しでも記憶の片隅で思い出せたのはクリアだけなんだ。不甲斐ない話なんだが……もう少し頼らせてくれ」
「まぁ……わたしで良ければ」
実はあなたが担当したいと志願していたウマ娘だったんですよ──なんて口が裂けても言えない。
今の状態で言ったとしても、彼からすれば記憶喪失を逆手にとってつけ込もうとしてくる敵にしか見えなくなってしまうことだろう。
だからトレーナーが思い出してくれるまではその話は絶対に振らない。
またトレーニングを見てほしい欲はグッと我慢して。
ゆっくりと、焦らず彼を支えていこうと思う。
……窓から覗いてる他のウマ娘の視線が痛いけど。