翌日。俺は、昨日伊波さんのお母さんに言った通り、バイトが終わった後、そのまま伊波さん宅に歩を進めていた。
昨日あんなことがあったものの、一度宣言した事を撤回するつもりは無い。俺は俺なりに重大な決心をしてお母さんに宣言したのだ。“娘さんの病気を治します”……と。
勿論、必ず治せるかなんてそんな自信はどこにもない。だが、伊波さんが近い将来それを治さなければいけない時が来るだろうし、俺自身が伊波さんと今後付き合っていくとすれば、その問題は無視できない問題だ。他人の人生に大きく関与するのは俺としては余りしたくない事だが、他人が他人に影響しあうのもまた、自然の法則。ロマンチックな言い方をすれば、運命だとも思う。ならば、この世界において、伊波さんの病気を治せるのは俺なのだと思う。否、自惚れながら俺にしか出来ない事なのではないだろうか。伊波さんに対し強い影響力を持つ人間は俺以外に余りいないだろうし、精神的な病気は医学的治療法よりも本人の気の持ちようだと思う。伊波さんの感情を良い方向にも悪い方向にも強く動かせるのは俺だけだろう。
……そんな事を考えている内に、気が付けば、家の前まで来ていた。
チャイムを鳴らし家へ入る。もう正体がばれてしまった以上返って開き直り堂々と入った。お母さんに意味深な笑顔を向けられた後――昨日の事だろう――俺は、伊波さんの様子を見に行こうと二階に行こうとする。
「あっ、小鳥遊くん? 今ね、お医者さんがいらっしゃってるの……ほら、昨日言ってたまひるの掛かり付けの」
「あっ……そうなんですか? じゃあ、俺は待っていた方が良いですかね?」
俺が言うと、お母さんは人差し指を唇にあてる可愛らしい仕草で、
「そうねぇ……あ、でも、小鳥遊くんも一緒に診たら?」
なんて言う。
なんだか良くわからない理由だったが、来たばかりでいつ終わるか分からないとも言われ、バイト帰りでそれほど時間もない俺にとっては悠長に待っている暇も無いのも事実だったので、お邪魔することにした。
「お邪魔します……」
ノックをしてから入ると、ベッドで寝ている伊波さんと対面する女医が居た。丸イスに腰掛け白衣を着ている。中年であるものの、肌の手入れに気を使っていそうな感じの割と綺麗な顔立ちの人だった。
「ほんとに驚いた! お母さんから聞いてたけど、本当にまひるちゃんが男の子とこんなに近づけるとはねー!」
俺を見るなり、そうまくし立てると、興味深そうに俺を観察する。
「あ、あの……」
「ああ、ごめんね、小鳥遊くんでしょ? お母さんから聞いてるわ」
「ああ、はい、初めまして」
「私の事は、知ってるわよね? もう、10年以上前からまひるちゃんの担当なのよ」
「……凄いですね、10年も」
「まー仕事だからね、所でキミ、まひるちゃんに近づいても平気だって聞いたけど、どの位まで平気なの?」
バイト先の人の茶々と違い、真面目な質問だけに遠慮なく聞いてくる。
「えっと、どこまでと言われましても……」
俺だって試してみないと分からない。
「ちょっと、試してみてくれるかな?」
即答で言う。男と対面できる俺という存在にだいぶ興奮しているようだ。
「えっ? 今ですか?」
伊波さんが言った。俺も同じ事を思ったが、伊波さんの口から先に出る。
「うん……あ、恥ずかしい? いや、私、医者だからなにも気にしないで」
そう言われても恥ずかしいものは恥ずかしいだろ……。だが、この人の言っている事も最もか。なにより、俺は伊波さんの病気を治すとついさっき心に決めたばかりだ。この程度の事で揺らぐ気持ちなら自分を許せない。
「分かりました。やってみましょう、伊波さん」
意を決して言う。
「えっ……ほんとに? 小鳥遊くん!?」
ベッドの上で、驚く伊波さん。
「伊波さん……病気、治したいんでしょう? 俺も治したいんですよ。恥ずかしいのは俺も同じです。でも、この一回で、先生に良い治療法が見つかるかもしれないんです……やらない手は無いでしょう」
そう言って、説得する。「ですよね?」という意味を込めて、女医さんに目をやると、真面目な顔で何度か頷く。
伊波さんは俺と、女医さんの顔を交互に見合って、
「わ……わかった。小鳥遊くんがそう言うなら……」
「じゃあ、私は後ろで見ているから」
女医さんが、そう言って後ろに移動したので入れ違いに俺がベッドの前まで行った。
伊波さんが見てくる。イスの位置が高く、若干伊波さんが見上げる形になる。なぜ、こうも下から見上げる女性というのは可愛らしいのか。お互いに見つめ合うような形になってしまい恥ずかしくなる。
「えーっと、どうしましょうか?」
後ろで見ている女医さんに助けを求める。
「私に構わず、いつも通り好きにしてちょうだい」
あっけらかんとした態度で言う。
いや、いつも通りってなんだよ? どういう風に見られているんだ!? 俺は。
「俺たちの関係、何だと思ってるんですか!?」
「えっ? あなたたち、恋人同士じゃないの?」
「ちがいますよ! その……俺たちは……バイト仲間です!」
まったく、何言い出すんだ? この人は……!!
そう思いながら、伊波さんを見てみると、案の定というか、真っ赤になってしまって、「あうあうあうあう」変な、奇声を発している。
「まあ、いいわ、それじゃあ、どんな事まで出来た事があるの?」
思ったより冷静な様子でそう言う。さすがは医者、真面目である。
「あーーそうですね。頭なでたりとか……おんぶしたり……とか、……手を握ったりとか」
恥ずかしい台詞だったが、俺が言わなきゃ進まない。伊波さんは既に緊張して顔も上げられないようだし……まあ、それにしても恥ずかしかったが。
「そんなに密着していても大丈夫だって事? それじゃあ、あなたに対しては症状が出ないって事!?」
驚いたように目を開いて言う。
「あ、でも、その時は、伊波さん気絶しているに近い状態でしたから……」
伊波さんの方も向いて同意を求める。伊波さんはコクコクと、頷いて同意する。
「そう……じゃあ、今、試してみて? 手をつなぐの」
うむ、やはりそう来たか。まあ、そうなるだろうな。
「……良いですか? 伊波さん」
控えめにそう伝える。と、伊波さんは頷いた後、右手を前に差し出す。
俺は、それを同じく右手で握った。なんとも奇妙な握手だ。伊波さんの手は熱くそして、汗ばんでいた。が、顔を見るとそれすら気が付かない様子で、必死に耐えているような表情……そして10秒もしない位で、
「わああぁっ!」
パッッと、勢いよく手を離す。そして、素早く身を丸める。それを見た女医さんが、立ちあがり、素早く伊波さんの元に駆け寄った。
「まひるちゃん? 大丈夫?」
肩を抱き寄せ頭をなでて優しくそう聞く。まるで、年端も行かぬ子供をあやすようだった。おそらく、実際に伊波さんがそれ位の歳の頃からこうして診てきたからだろう。
「うう……痛い……胸が痛い……うう」
伊波さんが胸を押さえてそう唸っている。俺は、これ以上伊波さんの傍にいるのは不味いと思い、「一旦、出ていますね」と言い残し、部屋を出た。
居間にいたお母さんに事情を説明し、昨日のように向かい合って座っていた。昨日とは違い、出された紅茶の味が分からない。俺の頭の中には、先ほどの胸を押さえる伊波さんの姿が脳裏から離れなかった。
15分ほど経った後だっただろうか、女医さんが、静かに階段を下りる音が聞こえた。そして、居間に入ってくる。
「どうも」
「あ、まひるは大丈夫でした?」
お母さんが言う。
「その件も合わせて、ちょっとお話があるんですがいいですか?」
俺は居ても良いものかと悩んだので、出て行こうとすると、
「あっ、君にも聞いてほしいかな」
呼び止められたので、座りなおした。
その後、お母さんが紅茶を入れ女医さんの前に置くと、それを一口飲むと説明をし始めた。
「あの後、まひるちゃんからも色々話を聞きました。それで、今のまひるちゃんの状態ですが、小鳥遊くんを殴って怪我をさせてしまったショックで、男性を殴れない状態に陥っています。ですが、根本的には治っておらず、男が怖いという身体的ストレスをそのまま、心で全て受け止めてしまっているのです」
その見解は、俺が思っていた事と大方同じような事だった。
……しかし、俺を殴って怪我をさせてしまった事が原因だったのか。その前までも何度も殴っているだろうに……。
「ですが、あの時以前にも伊波さんには結構殴られてましたよ?」
「ええ、でも、今回は怪我をさせて入院させてしまったというのと、あるいはまひるちゃんとあなたの間に何か、今までとは違う変化があったんじゃないかしら?」
俺の方を見つめて言う。彼女が言うには、いわゆる精神疾患は精神的な影響を受けやすいというのだ。つまり、相手に対する感情なんかはとても影響すると。まあ、考えてみれば当然である。男が嫌い。という強い思いがそもそもの原因であるのだから。
「それで、治す方法はあるんですか?」
「そうね……まひるちゃんの体力的な問題もあるから、少なくても前の状態には戻した方が良いと思うわ。今のままじゃ、また倒れちゃうからね。つまり、家を出られない。だけど、仮に前の状態に戻っても、根本的な解決にはならない。それでなくても私はそろそろ子供じゃなくなってくる歳になったまひるちゃんには普通の女の子として生きて行かないと色々大変だと思うの。例えばこのまま30歳まで治らなかったらどうする? 人生フイにするようなものだからね、そんなものは。だから、どっちにしても根本的に治さないといけないの…………そして、その鍵を握っているのは、小鳥遊くん? 君なのよ?」
「えっ……?」
長い台詞から急に振られて驚く。
「具体的に治せそうな方法が一つあるの、だけど、それをするには君が、勉強して覚えるしかないわ、その覚悟がある?」
「何か、勉強しなきゃいけないものなんですか? でも、俺も伊波さんを治したい気持ちは同じです。中途半端にはしません、教えてください」
胸を押さえて苦しそうにする伊波さんを間近で見てしまい、より強くその思いが湧き出てきた。
「……そう。じゃあ、言うわね、それは――」
…………。
…………。
「なるほど、それは大変そうですね……しかし、半信半疑な所もあるので少し自分でも調べて見ます。それに……それとは違う方法が一つあるんですよ、それも試してみたいんです。それがダメだったら考えてみるって事で良いですか?」
はっきりと言うと、俺の熱意が伝わったのか、
「分かったわ、そりゃ楽に治せればそれに越したことは無いからね」
緊張を解いたように、息を吐いてそう言った。
そこまで話した所で、だいぶ遅い時間になっていたので、帰る事にした。
「それじゃあ……明日は休みなんで早めに来ます」
そう、お母さんに言い残し、家を出た。
暗くなった道を歩く。俺の中で伊波さんの病気を治すという確かな目標が生まれ、やる気がみなぎってくるのを感じた。
――小鳥遊を返した後。
「ふう……今日はどうも、有難うございました」
伊波の母が、頭を下げて女医に言った。
「いえ、久しぶりにまひるちゃんの様子を見られて良かったです。大きくなったわねぇ」
「そうなんです! もう、色気付いちゃってねぇ色々と……」
手のひらをパタパタさせながら言う。
「ああ、やっぱり、あの男の子と?」
「あっ! 分かりました? そうなのよ~、あの子の事、まひるったら大好きでね~あの子もまんざらじゃないみたいだし、はやくくっ付いちゃえば良いのに~」
伊波の母の言葉に、二人が笑う。程なくして落ち着いた所で、
「さっきは言わなかったけど、まひるちゃんの病気を治すためには、精神的な部分が不可欠なの、だから、お互いに意識し合ってる彼らに治してもらうのが一番だからね」
女医が言うと、母は気が付いたように、
「ああ、だから、わざわざ彼に? 先生がやっても良さそうだと思ったのに」
「まあ、私が忙しいっていうのもあるんですけど……やっぱり、彼にやってもらえば、ね、その後は安泰じゃない、そのままゴールインよっ」
「うふふ……小鳥遊くん良い人だし、今の内からその気になっちゃうわ……!」
――当人達とは別の所で勝手に盛り上がる二人であった。