「あの……伊波さん」
可愛い伊波さんに吸い寄せられるように俺は近付いた。伊波さんの匂いが鼻をくすぐる。姉達とはまた違う、良い匂いだ。
「えっ? どうしたの? 小鳥遊くん」
つい、無意識で伊波さんの手を触れた時点で伊波さんに声をかけられ気付く。伊波さんに触るどころか近付くと殴られるという防衛本能すら忘れるほどに俺は、伊波さんを今までとは違う存在として見ていた。
「あっ……ああ、男嫌い治すための訓練ですよッ!」
咄嗟にそう口にする。その焦りようは自分でも恥ずかしくなる位に。ここに俺と伊波さん以外の誰かが居れば、即俺が普通じゃない事に気付くレベルで。
しかし、柔らかい可憐な手である。タクシーに乗った時にも思ったが、あの時はまだそれほど意識はしていなかったが、今は、手にとって感触を楽しみながら観察している。何度も俺の手を触った事からか耐性が出来ているようで、伊波さんももう手を触られる程度ではそこまで恥ずかしがらなくなったらしい。俺の言葉を信じて不思議そうに俺に手を弄ばれ続ける。
「あの……小鳥遊くん?」
「……! なんですかっ!?」
「その……手を触られる位なら平気になってきたみたい……もっと、ほかの事でも良いよっ?」
その言葉に他意は無かったのかもしれない。伊波さんは純粋に訓練のためにそう言ったのかもしれない。だが、今さら手を触られる恥ずかしさがやってきたのか少し頬を赤らめて上目づかいでそういう伊波さんの可愛さに俺の理性の歯止めが効かなくなってしまった。
「伊波さんっ……!」
気が付いたら、本能のままに伊波さんを抱きしめていて、
「えっ!? ……えっ? 小鳥遊くん……っ!?」
しばらくは焦って俺の胸の中でおどおどしていた伊波さんも、次第に落ち着いたようで大人しくなる。人間誰しも抱きしれられれば安心するのだろうか。会話では出来ない心のやりとりがそこにあった。
何も言わずとも伝わる。日本語はなまじ表現が細かいために、日本人は外人のように表情やリアクションで物を伝えようとしない。子供の頃は柔軟だったそんな他人への表現、スキンシップも、歳と共に気恥ずかしさに変ってしまう。
「えっと……あの、伊波さん、俺の事どう思っていますか……?」
と、言いつつこの体たらくだ。結局、恥ずかしさには勝てない。国民性のせいにする訳ではないが、はっきりと、「I love you」と言える潔さも欲しい気がする。
「えっ? どうって……えっと、えっ……!?」
結局、伊波さんを困らせてしまう。
「……伊波さんは可愛いです」
ぼそっと、言う。言える範囲で少しづつ。
「えっ? なに、急に!? かっ、からかってるの?」
そう言ったものの、俺に抱きしめられながら、もぞもぞ落ち着きをなくす伊波さん。
「からかってないですよ、伊波さんは可愛いです……だから、こうしているんです」
「うぅ……な、なに……なんなの……そんな事、言われたら……幸せすぎて……ッ」
俺の背中に置く伊波さんの手にぎゅうっと力が入り、肩の辺りに伊波さんの熱い息が当たる。
「お……俺も、こうしていると幸せを感じますよ……」
「そ……そうなんだ……な、なんで?」
今までとは違い、驚かずにそう聞き返す伊波さん。
ああ、さすがの伊波さんも気付いてしまったか。ていうか、気付くまで言い出せない自分の不甲斐無さにも泣ける。佐藤さんバカにできないな、これは……。
「い、伊波さんが……」
「…………う、うん……」
相手に待たれているというのは更に恥ずかしいじゃないか。いや俺自身が招いた事か。
「…………す、好きだからです……ッ!」
言うや否や、ギュッと抱きしめる手に力を入れ、恥ずかしさを誤魔化す。
伊波さんは少しの間黙った後、
「う……うれしい……」
そう言って泣き出した。顔は見えないが鼻をすする音が聞こえてくる。
「……い、伊波さんはどうなんですかっ!?」
なんだか、恥ずかしい雰囲気を変えるためにそう伊波さんにも会話を振る。
「……えっと、わ、わたし…………あ、鼻水……ちょっと、一回、ごめん」
そう言って、一度、俺たちは抱き合った体を解く。そうして一度冷静になると、急に我に返って俺は恥ずかしくなって、自分でも分かるほどに顔が熱くなっているのが分かった。今にも壁に頭を打ちつけたい気分だ。
伊波さんは机に置いてあったティッシュで鼻をかむ。その姿も見られるのが恥ずかしいのだろうか、俺の位置を意識しながら見えない位置で鼻をかむその仕草もまた、グッときた。何というか、伊波さんは本当に殴らないとただの可憐な可愛い女の子そのものだ。そして……なんだかんだで、今まで伊波さんの事を考え続けてきた結果……自分でも驚くぐらいに伊波さんの事が好きになっていた。今後、伊波さんを置いてこんなに人を好きになる事があるだろうか……? そう、本気で思えるほどに。
とっくに鼻をかみ終わったにも関わらず俺に背を向けたまま、机の飾りなどを無意味に触ったりして時間をつぶす伊波さん。
質問を答えるのに渋っているのだろう。だが、俺が恥ずかしい思いで言った以上、伊波さんに誤魔化されるなど認めるものか。
「何、誤魔化しているんですか? 伊波さん、こっち向いて答えてくださいっ!」
そう言って俺は、伊波さんの肩に手をやり振り向かせ、
「俺の事……どう、思ってるんですか?」
間接的には知っている答えを言わせようとする。
だが、伊波さんは――あれだけ普段分かりやすい態度を取っているにもかかわらず――
「分かってるくせに……」
なんて、フイッっとそっぽを向いて言った。
そんな恥ずかしがる姿に、また俺は――胸が震えた。
「わっ! 小鳥遊くん……きゃあぁ!!」
俺は無意識で伊波さんに抱きつき、そのままベッドに押し倒していた。
ベッドが俺の膝の重みで軋む。その下には無防備な伊波さんの姿。水色の私服がよれて顔が紅いその表情が艶っぽく俺の目に映った。そのまま俺は伊波さんの顎をつかみ、自分の顔を近づける。伊波さんの大きな眼に吸い込まれるように近付く。
――唇が触れた。人間の柔らかい部分同士のタッチ。異性と行う愛情表現。緊張しすぎて、その感触はよく分からなったが、顔を離した後も唇が焼けるように熱い。どちらかと言えば、触れた瞬間より離した後の方がみるみる熱くなっていく。やってしまった事への胸の高鳴りからだろうか。
「あっ……」
伊波さんが惚けた顔で俺を見た。ますます顔が紅くなりもはや、大丈夫か心配になるほど赤かった。
「大丈夫ですか? 伊波さん……」
俺は、一旦我に返ってベッドに座りなおした。伊波さんも枕を腰に当てるように上半身を立てる。すると、急に頭を抱え出し、
「あっ、ダメ……こんな時に……うっ……」
伊波さんは苦しそうに唸りだした。
「ど、どうしたんですか!?」
俺が聞くと、
「ま、前と……同じ……緊張しすぎると……体が熱くなって……気絶しちゃうの」
と、伊波さんが額を押さえながら言う。
そこで俺は気が付いた。というか、俺は何のために今日こうして来たのか思い出した。恥ずかしながら、俺は感情の歯止めが効かずに、こうして伊波さんを押し倒して襲ってしまった。何をやっているんだ俺は。
「ご、ごめんね? 小鳥遊くん……」
そして、辛いはずなのに俺の事を気にする。
「何言ってるんですか? 俺が、その、勝手に押し倒してしまって……その……だって言うのに」
「ううん……嬉しかった。悪いのは……うぅ……この、私の、病気のせい……」
苦しそうに、頭を押さえながら言う。
「どういう風にきついんですか?」
「んと……胸の辺りが……なんていうか……爆発しそうな感じ……」
やはり、前に倒れてしまった時と同じか……この症状を治さない限り、伊波さんに未来は無い。……だが、この状況は俺が望んでいた状況。俺の治す方法……策を試す時。
「伊波さん! 俺を殴ってください!」
俺は自分の胸を手で示し、興奮冷めやらぬまま言った。
「えっ!? どうしたの、急に?」
「伊波さんのその症状は、今までは、男を殴る事で解消していたと思うんです、でもそれが俺を怪我させてしまったトラウマで出来なくなって、そうやって、自分の中で溜め込むしか出来なくなってしまったんです。その結果、倒れてしまう。しばらくすれば治るとはいえ、そんなの大変でしょう? だから、ここは俺を殴る事でリセットしましょう? そうすれば、また、今まで通り! バイトも休むことなく出れますよ?」
俺が言うと、伊波さんは少し考えた後、
「そう……そうだね、で、でも、それじゃあ、小鳥遊くんがまた、きついんじゃ……?」
それは当然の疑問だろうな……。
「大丈夫ですよ! 俺、もう、だいぶ伊波さんに殴られて慣れてますし、最近はそれほど殴る回数も多くなくなりましたからそれほどのきつさじゃないですよ」
「で……でも……」
そこまで言っても伊波さんは渋っている様子だったので、
「じゃ、じゃあ、ためしに今回だけちょっと、やってみません? 実際に殴って、スッキリするかどうか……それを明確にするだけでも価値はあります」
実際に伊波さんが殴ると治るかはまだ分からないが、まあ、高い可能性で治るだろうと見ているけど。ただ、その場合は継続的に俺が殴られることにはなるが……。
「試しに……? そ、そう言う事なら……」
そう言うと、しぶしぶ伊波さんはこぶしを作り左手で押える。既にベッドの上で向かい合っている状況なので後は伊波さん次第だ。
「い、いくよ……?」
「……どうぞ」
そう言うと、俺は伊波さんに体を向けたまま、眼をつぶった。いつも――久しく殴られていないが――急に殴られるからこう、準備の時があると返って怖い……という事に今気が付く。
眼をつぶった、沈黙の中……………………。
10秒……いや、20秒は経っただろうか、待っていた衝撃が来ない事に不思議に感じて、眼を開けると、
「はぁ……はぁ……っ」
肩を震わせて、伊波さんがこぶしを押さえたままの恰好で泣いている。
「……殴れないの」
そして、ぽつりとつぶやく。
「……なんでだろう? 昔みたいに……小鳥遊くんを殴るなんて……出来ないッ! 殴ってた頃が凄く不思議に思えるの……とにかく……今の私に小鳥遊くんを殴るなんて出来ない……!」
そう言ってうつむく。
俺が、好きになった男を殴る女の子は……本当に普通の“女の子”になっていた。
「あっ……!」
結局、俺はまた、伊波さんを抱きしめていた。最も感情を抑えられなくなったさっきとは違い、そうすることが良いと思ったからだ。ただ、目の前の子が愛おしくて、抱きしめて慰めてあげたかった。そう思っただけだ。
「殴れないの……」
「……はい」
「そうしないとって、分かってるのに……殴れない……」
「……そうですか」
ぎゅっと、抱きしめる。俺の肩の辺りで、もごもご……必死で喋ろうとするのを抑えるように。
殴るだの、殴らないだの……言っている事はこうも野蛮なのに、その子はとても可憐で可愛い。もう、自分が殴られていた過去など、忘れそうになるほどにそんな事をしそうな子には俺の目には映らなかった。
その後も、伊波さんは俺に抱かれながら泣き続け、俺は何も言わずに抱きしめ続けた。わんわんと泣く伊波さんの声を聞きながら、俺は昔の事をそっと思い出していた。
俺がまだ小さかった頃、父が死んだ時。正直お世辞とも良い父親ではなかったと思うけど、それでも家族の中では唯一の同性で、男同士でしか分かり合えなかった部分は少なくなかった。だから女ばかりの我が家庭においてある種の支えになっていた部分もあったし、あんな父でも大人だからこそ分かってくれるような事もあった。けっして寂しかった訳ではない。姉達は俺を可愛がってくれたし――嫌ってほどに――うんざりすることはあっても人の心に触れたいほど寂しさを感じる事も無かった。というのも父が亡くなってから、そんな寂しさは外に出していないつもりだったのに、姉達が気を使っているかのように俺に今まで以上に構うようになったからだと思う。そういう意味で俺は恵まれていたのかもしれない。結局、男の意見なんて通らない家庭の雰囲気にももう慣れてしまったし、家事をすることである程度、そんな気持ちを誤魔化しつつ、ある種、姉達に対して優位に立てたり、俺が俺たる自信というか俺の心が確固としていったのだった。
そんな俺に比べ、伊波さんは同性の親こそ一緒に居ても、兄弟姉妹はいないし、男嫌いだったことから小さい頃から同い年の子供とはほとんど遊ばす一人だったらしいし。
それを考えると、今まで彼女は孤独に一人でどんな感情も処理してきたのではないだろうか。母親の支えはあったとはいえ、普通ではなかった伊波さんが、思う悩む事は人一倍多かっただろう。だからそんな伊波さんには同世代の支えてくれる人が必要だと思う。そしてそれは誰よりも……理屈で考えれば、女性の方が良いと分かっていても、そんな理屈どうでもよくなる位に、俺がその役になりたかった。支えてあげたかった。