「こんにちわー」
「来ましたか、伊波さん、今日から早速……」
「うん! 訓練だね!?」
伊波さんは嬉しそうに拳を突き上げて言った。
「で……具体的に何をするの?」
いつも通り、病室の丸イスに腰を落ち着けた伊波さんが言う。
「そうですね、暇だったので、色々考えてました。紙にまとめたのでちょっと見てください」
そう言って、俺は伊波さんの病気を治すための案を書いた紙を渡す。そこには、俺に出来る限り近付いたりとか、触るとか、あるいは、伊波さんの自由を奪った上で俺、もしくは違う男が近付くとか、触るだとか、まあそんなような事が書いてある。
案を考えている時、俺は物凄くまじめだったのだけれど、書いている事はなんだか、痴漢とか、犯罪のやり方をまじめに紙に書いているようで自分が物凄く恥ずかしかった。
伊波さんもそんな部分を察してか、どうしようもなく恥ずかしそうな顔で読んでいるが、伊波さん自身もそこに書いてある事が至極真面目な病気を治すための案だという事を理解しているからかそれに対して突っ込まない。
「まあ、今の段階に応じて、出来そうな所から始めて行って徐々にレベルアップしていくというような……」
「あっ……、それなんだけどね、私、実は、最近、男の人殴ってないんだよね……」
思い出したように伊波さんが言う。
「えっ? それっていつ頃からですか?」
……それすごい重要なことじゃないですか。
「う~んとね、その……小鳥遊くんを殴っちゃってから……」
申し訳なさそうに、チラチラ俺の腹辺りを見ながら言う伊波さん。
いや、もう、気にしなくても。
「と……言う事は、12日は殴っていないって事ですか?」
同時に、俺が入院して今日で12日目だった。
「うん……そう。まあ、男の人と接触するかどうかが殴っちゃう要因になる事が多いからそれさえ無ければ、結構続くし、あれば何日も持たないんだけど」
「なるほど、でも12日って比較的長い方ですよね?」
「そうだね……実は何度か、今までだと殴っちゃいそうな事があったんだけど、なぜか殴らなくて済んだの」
不思議そうに頬を掻きながら言う。
「なぜか……? その時の様子を詳しく教えてもらえますか?」
「えっ? あっ、うんとね……一回目は5日前だったかな、バイト中忙しくて、誰か分からないけどちょっと、肩がぶつかったような気がしたの、軽くだけどね。でも、その時は仕事が忙しかったからあんまり気にも留めなかったかな」
「そうは言っても、今までだったら、気に留める留めないにかかわらず、反射的に殴っちゃってますよね?」
俺が言うと気まずそうな顔で、
「そうなんだよね~、だから、ちょっと自分でも不思議だったの、でもね? それ以上に不思議だったのが、二回目、昨日の事なの。帰ったお客さんのテーブルを片付けてる時にね? 後ろから、紙ナプキン下さいって男の人に言われて、気がつけば目の前に……」
「それで、殴らなかったんですか……?」
「うん、もちろん、びっくりしちゃって固まっちゃったんだけど、なんとか口だけ動いて、裏に戻って、八千代さんに補充してもらったんだけど……殴りたいって気持ちよりも、怖いって気持ちの方が勝っちゃって、しばらくの間、裏で震えてた。殴りたいって気持ちが……なんていうかね? 頭の中に、こぶしみたいなのがいくつもグルグル飛び回ってるの、今まではその感情がそのまま、自分の腕に来て、殴っちゃうみたいな感じだったんだけど、昨日は、頭の中でグルグル回ってるばっかりなの」
「……それで、しばらくして治まったんですか?」
「うん、10分位だったんだけど、自分では永遠とも思える位に長い時間、うずくまってた……」
言いながら昨日の事を思い出しているのだろう、しおらしい姿で、自分の体を抱きしめる伊波さん。その姿は、可憐な女の子そのものだ。
しかし、話を聞く限りでは自分で殴りたい衝動を抑えられるようになっているって事なのか? なぜかは分からないが、伊波さんの中の殴りたいという衝動が消え、自分自身の中で処理できるようになっている……? ともすれば、もう、伊波さんの病気は治っていると、そういう解釈で間違えないのではないだろうか……?
「えっと、あの……伊波さん? それって、ある意味もう治ったって事ですか?」
「……う~ん、どうだろ? わかんないよ……だって、私自身、こんな事初めてだし……次に同じ事があったら今度は殴っちゃうかもしれないしね……」
まあ、精神的な病気だからな……自分でも良く分からないか。
「そうですか。じゃあ、それも含めて色々試して治して行きましょう」
「……うん!」
「……じゃあ、さっそくですが」
俺はそう言って、ベッドから出た。
「わっ……! 小鳥遊くん、ベッドから出ちゃってだいじょぶなの!?」
伊波さんは焦って立ち上がると後退する。
「ええ、もうほとんど痛くないですし、もう明日には退院しても良いと言われましたから」
「それで……? どうするの?」
落ち着きのない様子で聞く。
「もう少し近づけませんか?」
俺はそう言って、伊波さんに体を向けたままベッドに腰を下ろした。黙って立っているのは若干、骨に響く。
「無理だよ~」
1メートル位離れた距離からそう言う。たしか、最近はこの半分くらいの距離までは近づけたはずなのだが……やはり、この怪我のせいなのか?
「……訓練ですから。多少無理しないと一生今のままですよ? 良いんですか?」
「……わ、分かった」
俺の言葉が効いたのかそう言うと、一歩ずつ俺に向かって歩き出した。
「おっ? まだ、行けますか? もう手を伸ばせば触れられそうですね……まあ、今はこれ位で…………!?」
順調に歩を進めるものだから、調子が良いのだと思い込んでいたが、ふと、伊波さんの顔に目をやると、目をつぶって、ハァッ、ハァッ!! っと、深い呼吸をしている。
「ちょ……! 伊波さん!? 絶対、無理してますよね?」
そう言って、止めようとするが聞こえていない様子で歩き続ける。
「伊波さん!? 聞こえてますか!?」
もう一度呼びかけると、我に返ったように、
「はっ!?」
無垢な瞳で俺を見つめる。その純粋さにどうしようもない可愛さを感じてしまったが、その気持ちはすぐに心の奥に押しのけた。……今はそんな事を考えている場合じゃない。
今日の伊波さんのヘアピンは俺が昔プレゼントした野菜ヘアピンシリーズのトマトか。真っ赤なプチトマトのシンプルで可愛いヘアピンだ。……などと、冷静に分析して意識をそらす俺。
「無理しすぎですよ……伊波さん、多少無理してとは言いましたが……自分を見失うほど無理しないでください」
「ご……ごめんなさいっ」
そう言って伊波さんはその場にへたり込む。
俺が少し無理しろと言っただけで、こんなに我を忘れるほど無理をしてしまう伊波さん。その俺への忠誠心は……何処から来るんだ? ……やはり、俺が好き……いや、犬だと思い込んでるからか!?
「収まりました……? ていうか、いくら掃除してあるとはいえ、そんな所に座りこむと服、汚れますよ……?」
俺が言うと伊波さんは顔をあげ、
「収まったけど……こ、腰が抜けちゃったみたい……」
潤んだ目でそう言った。
「し、仕方ない」
俺は棚に手を伸ばした。こんな事もあろうかと、伊波さん用マジックハンドは常備しておいたのだ。そしてそれを、伊波さんに向ける。
「なんか、失礼な気がしますけど……どうぞ」
「ううん、ありがと……」
そう言って、伊波さんはマジックハンドを掴む。と、腰が抜けた状態で掴むもんだから、強い力で引っ張られる……という事を俺は、予測できていなかった! それに、俺が怪我しているから咄嗟にそれに対して、引っ張る事も出来ないという事も。
「どわぁああっ!」
「きゃあぁぁあ!!」
間抜けな声を出しながら、伊波さんの体に覆いかぶさってしまう。
伊波さんに怪我がないかも心配だったが、それ以前に、俺が死ぬ……やばい、せめて、折れているアバラはやめてくれ。複雑骨折になって色々とめんどくさそうだから。
そんな事を思いながら、アバラを手でガードしながら覚悟を決める俺。
「うっ……くぅっ……う……うう」
殴られるのを覚悟しながら待っていたが一向にその様子がない。眼下にあるのは唸っている伊波さんの姿。その顔は恥ずかしいような、怖がっているような、困っているような……いや、それを全部ひっくるめたような顔をしている。
覆いかぶさっているという状況上、間近で見ているので間違えない。
「だ、大丈夫? 小鳥遊くん?」
「お、俺の事より、伊波さんは大丈夫なんですか?」
なんていうも、確かに俺も殴られるの必死なこの状況で、伊波さんから逃げようとしない。いや、出来ないのだが、そんな姿は傍から見れば心配されるに値する重症さか。
「な……なんと……か……」
言いつつ、俺の肩を抱いて立たせてくれる。
うお!? 伊波さん自ら俺に触れて……大丈夫なのか!?
立ち上がった俺はそのまま、後方のベッドに体を預ける。
「い……伊波さん、すごいじゃないですか!? 殴るどころか、自ら男に触れるようになったんですか?」
伊波さんは、避けて置いていた丸イスをずらすと、ペタンっと、緊張が解けたような様子でもたれかかる。
「い、いや、今の小鳥遊くんが病人だからかな? ていうか、自分でも色々と分かんなくて……なんか、色んな気持ちが出てきちゃって、よく分かんないんだけど、分かるのは、それを全部押さえるのにすごく疲れるってこと!」
本当にゲンナリした様子で言う。
どういう事だ? これはやはり治りつつあるのか? 治すための訓練だったけど、する前から治っているってのは……いや、どちらにしても、普通に男と接する事が出来るように……それが出来れば、完全に治ったっていう事になるが、少なくとも今はそうじゃない。
――急に、殴らなくなった。だが、おそらく治った訳ではない。そんな奇妙な状況に陥った伊波さんの症状。その状態を目の当たりにして俺は……一抹の不安を感じずにはいられなかった。